EP4 暮色四合 第24話 夜の王
セリネは、もう一度目を覚ました。
今度は、叫ばなかった。
最初に見えたのは、黒い天井だった。
それから、蒼い硝子管。
静かな灯。
薬草とも鉄ともつかない匂い。
自分が寝かされている場所が、普通の施療所ではないことだけは分かった。
「……ここ」
かすれた声が出る。
「ロゼノワール家よ」
短い声が返ってきた。
セリネはゆっくり顔を向けた。
イヴェット=ロゼノワールが、椅子に座ってこちらを見ていた。
表情は冷たい。
けれど、目は離していない。
「…ロゼノワール…?私、どうして」
「戻した」
「戻した……?」
「説明は後」
「はい」
反射的に返事をした。
なぜか逆らってはいけない気がした。
というより、逆らうほど頭が動いていなかった。
その横で、記録板を抱えた少女が勢いよく身を乗り出す。
「お目覚めですね! 二回目です! 一回目は情報量に負けましたが、今回は比較的落ち着いております! 素晴らしい進歩です!」
「……えっと」
「ウルティマです!」
「あ、はい。ウルティマさん」
「さん付け! 新鮮です! 初対面の距離感! 保護したい!」
「保護……?」
「ウルティマ」
イヴェットが名を呼んだ。
「はい! 黙ります!」
ウルティマは口を両手で塞いだ。
ただし、目だけは異様にうるさかった。
セリネはその様子を見て、少しだけ困った顔をした。
「……私は、何か、しましたか」
誰もすぐには答えなかった。
イヴェットが静かに言う。
「覚えている最後は」
「最後……」
セリネは眉を寄せる。
「外に、出ました。許可をいただいて。黄昏の森の外へ……えっと、確か、街道に出て……」
そこで言葉が止まる。
記憶が切れている。
途切れている、というより、そこから先だけ最初から存在していないようだった。
「……そこから、分かりません」
「それでいい」
「よくは……ないと思います」
「生きている」
イヴェットは短く言った。
「今は、それでいい」
セリネは、何かを言い返そうとして、言葉を飲んだ。
生きている。
言われて初めて、自分の胸が上下していることに気づいた。
呼吸がある。
鼓動がある。
痛みはない。
けれど、空白がある。
「……シアン様は」
「外」
「知らない方が、たくさんいた気がします」
「いる」
「……もう一度、気絶してもいいですか」
「だめ」
「はい」
扉の外から、誰かが吹き出す音がした。
廊下には、レインたちがいた。
セリネの声が聞こえてきた瞬間、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「起きたな」
レインが言う。
「うん」
ノエルが頷いた。
イヴェットは治したのではない。
戻した。
その意味が、レインにはまだうまく飲み込めなかった。
セシルが静かに言う。
「通常の術式ではありませんでした」
「まだ言ってんのか」
「…考える必要があります。私の知る分類に入らない」
ラヴィニエが手を組んだまま、珍しく微笑んでいない。
「…私には…神の御業、に見えました」
「あいつらが神様ってことか?」
「分かりません」
「お前ら今日はそればっかだな…」
フィアが帽子のつばを下げた。
「なーんも感じないレインがおかしいんだよ…ふつうちょっとは魔法にくわしければ、誰だって異常だと思うよ。フィーだってそう…、正直…ちょっと怖いくらい」
「…お前らが、そこまでいうなんてな…」
レインは顔をしかめる。
その時、処置室の扉が開いた。
ウルティマが顔を出す。
「面会可能です! ただし一度に全員が入るとセリネさんの処理能力が再び敗北する可能性があります!」
「何に負けるんだよ」
「皆様の情報量です!」
「明らかにお前たちのほうが、情報量多いだろ…」
レインはため息をついた。
ノアが壁にもたれたまま笑う。
「じゃあ代表で行けば?」
「誰が」
「君」
「なんでだよ」
「一番気にしてる顔してるから」
「してねえ」
「そういうことにしておこう」
シアンが横から言う。
「ノア様、可憐な少女に汚物を不用意に近づけるのは…」
「はぁー、もうやめときなよ。シアン。あなたもわかってるでしょ、レイン君がそういう人間じゃないってさ」
「…ノア様が、そうおっしゃるなら…」
結局、レイン、ノエル、カレラ、ノアだけが先に入った。
セリネは寝台の上で、やや背を起こしていた。
目が合う。
セリネはきちんと頭を下げた。
「あの……先ほどは、失礼しました」
「気絶したことか?」
「はい」
「謝るな。むしろ普通だ」
「普通……でしょうか」
「こんな、わけのわからん奴らが次々に増えたら、俺でも倒れるわ」
「…えーっと、一応、えらい人たち…みたいなんですけど…」
なぜかセリネは逆に少し不安気な顔をした。
レインは寝台の近くで足を止める。
「俺はレイン。こっちはノエル」
「ノエル」
ノエルが短く名乗る。
セリネは二人を見比べる。
「お二人が、私を……?」
「運んだのは俺たちだけじゃねえ。死にかけてたあんたを応急処置だか、固定だかしたのはテオドーラで、戻したんだか、なんだかで治療したのは…そこの、イヴェットだ。ここまで移動できたのはノア。あと面倒な連中が色々いた」
「面倒な連中」
ウルティマが胸を押さえる。
「その中に私も含まれていますか?」
「自覚があるなら聞くな」
セリネはぽかんとしたあと、小さく笑った。
かすかな笑いだった。そのあと…顔色が青くなる。
「テオドーラ…、テオドーラ様!?え、え、えーもしかして、イヴェット様とノア様っ!…四公家の皆さまですよねっ!…」
イヴェットが静かにいう。
「……そのくだりは、もういいわ」
セリネは、改めて頭を下げた。
「私は、何も覚えていません。あなたたちに助けられたことも、運ばれたことも、何も。でも、今ここにいるのは、きっと皆さんのおかげなんですよね」
レインは視線を逸らした。
「勝手にやっただけだ」
セリネは少し困った顔をした。
「…それでも、ありがとうございます」
「……そうかよ」
カレラが静かに口を開く。
「セリネ。詳細は後ほど改めて。今は休みなさい」
「はい」
セリネは少しだけ俯き、そして頷いた。
「……はい。今は、休みます」
その時だった。
廊下の方から、低い鐘の音が一度だけ響いた。
全員の動きが止まる。
テオドーラが眼を開く。
ノアの笑みが、ほんの少し薄くなった。
シアンが扉の外で姿勢を正す気配がした。
カレラは目を伏せる。
ウルティマは、なぜか一瞬だけ本当に黙った。
レインは眉をひそめる。
「何だ」
ノアは壁から背を離した。
「呼び出し」
「誰の」
「君たちの」
「誰が」
ノアは、今度は笑わなかった。
「血王陛下」
血王アルヴァロス。
その名を聞いた時、レインはまず、王という言葉に身構えた。
王都にも王はいる。
王国騎士団があり、城があり、貴族がいる。
だが、ヴェスペラの王という響きは、それとは少し違っていた。
この国は、最初から夜の側に立っている。
その王が、自分たちに会うという。
「……俺たち、そんな大層なことしたか?」
レインが言う。
テオドーラは薄く眼を開く。
「セリネを守ってくださいまし…ぐう」
「それだけで王様が出てくるのか」
ノアがつぶやく。
「ここでは、それだけじゃないんだよ」
「何がですか?」
とセシル。
「説明すると長い」
「じゃあ短く」
「血は重い」
「短すぎる」
フィアが横から言った。
「なんか…怖いんだけど」
シアンが冷ややかに言う。
「謁見中は無礼な発言を控えてください」
セシルが少しだけ表情を整えた。
「王との謁見であれば、礼を失するわけにはいきません」
「お前はこういう時、妙に頼りになるな」
ラヴィニエは小さく笑った。
「王と呼ばれる人に会うのは久しぶりですね」
「会ったことあるのか」
「似たような方々には」
「どういう人生だよ」
「ヒミツです」
「…いつもいつも、こいつだけは」
セリネは再び横になった。
イヴェットが残り、ウルティマも記録のため処置室に残ることになった。
ノアとシアンが先導する。
カレラは少し後ろについた。
テオドーラは、いつの間にか廊下の長椅子で眠っていた。
「置いていくのか」
レインが言う。
カレラは平然と答える。
「いいえ、このまま運びます」
「長椅子ごとっ?」
「仕方ありません。テオドーラ様が気に入られたようですので」
レインはそれ以上聞かなかった。
ヴェスペラ城は、音を吸う場所だった。
黒い石の廊下。
赤紫の灯。
壁に埋め込まれた古い硝子。
天井は高いのに、空は見えない。
歩くたびに、靴音が途中で消える。
「宮…ですか」
セシルが低く言った。
ノアが振り返る。
「君らの国のお城とは随分違うでしょ」
「ええ、正直…驚いています」
セシルは一瞬だけ黙った。
「……ヴェスペラ公国、私も騎士の端くれとして名前は存じておりました。…しかし、あなたたちはいったい何者なんですか?」
「あー…、今更だね」
ラヴィニエは壁の赤い紋様を見ていた。
「…聞いたことがあります。ヴァンパイア…ですね。」
一同に、一瞬緊張が走る。
カレラが言う。
「ええ、あなた方の言葉でいうのであれば、その通りです、ですが、敵ではありません。ここまでの道中の行動でご理解いただけていると思いますが」
「…にわかには、信じられませんが…、いえ、信じざるを得ないですね。あれほどの御業を見せられては。私たちの魔法や祈りと全く異なる奇跡でしたから…」
「…柔軟…ですね。とても素敵です…」
「…ヴァンパイア、ですか…」
セシルは端正な顔に見たことのない表情を浮かべている。
「セシル、考えすぎ」
フィアが肩をすくめる。
「…しかし、、」
ノエルが珍しく、はっきりという。
「セリネを助けたかったのは、同じ。」
「…わかりました」
セシルは納得がいったような言っていないような返答をした。
「…私たちが、あなたたちに…ふぁあ…目が覚めてきました…危害を加えようとすれば、タイミングはいくらでもありましたよ?」
「それは認めざるを得ないな」
シアンがきっぱり言った。
「はなはだ不本意ではありますが、あなた方と縁ができました。」
フィアは口を尖らせる。
「不本意って何よ…」
やがて、廊下が開けた。
広間。
玉座があった。
派手な装飾はない。
高い椅子。
背後には、赤い硝子でできた巨大な杯の紋様。
その玉座に、一人の男が座っていた。
若い。
外見は三十代半ばほど。
夜を吸ったような黒に近い髪。
深い赤の瞳。
黒衣に、血のような細い飾り紐。
顔立ちは整っている。
だが、表情が薄い。
冷たいのではない。
ただ、感情の多くをどこか別の場所に置いてきたような顔だった。
アルヴァロス=ブラッドベイン。
夜の公国ヴェスペラの血王。
彼はレインたちを見た。
視線は通った。
だが、刺さらない。
人を見るというより、必要な事項を確認する目線である。
ノアとシアンが膝をつく。
テオドーラ、カレラも続いて頭を垂れた。
セシルがすぐに姿勢を正した。
ラヴィニエも静かに礼をした。
レインは一拍遅れて、ぎこちなく頭を下げた。
フィアはそれを横目で見てから、小さく真似た。
ノエルは少し迷って、レインと同じ角度で頭を下げた。
アルヴァロスは、穏やかとも無感情ともつかない声を発した。
「大儀であった。セリネを運んだこと、感謝しよう」
レインは顔を上げかけ、止めた。
思ったよりも、普通の言葉だった。
「……どうも」
シアンが鋭くレインを見る。
レインは小声で言う。
「…しかたねぇだろ、これでも頑張った方だ」
ノアが肩を震わせている。
アルヴァロスは気にした様子もない。
「構わんよ」
アルヴァロスは、ノアへ視線を向ける。
「セリネは」
「はい。ロゼノワールの回帰にて、戻ってきました。」
「そうか」
表情は変わらない。
けれど、ほんのわずかに、空気が緩んだ気がした。
アルヴァロスは次に、レインたちへ視線を戻した。
「貴君らには礼を用意しよう」
「返礼?」
レインが言う。
「金なら、ギルドを通して受け取ることに――」
アルヴァロスは玉座の肘掛けに指を置いた。
細い指だった。
だが、その手首から、かすかに赤い光が沈んでいるように見えた。
「一晩、ヴェスペラに滞在するがよい」
セシルが割り込む。
「アルヴァロス陛下、話がみえません」
「客人よ、悪いようにはせぬ。まずは受け取るがよい」
「…しかし」
「黄昏の森を、今から戻るのは勧められんぞ」
ノアが横から軽く言う。
「それは本当。夜の森は、夜になると本当に夜だからね」
「意味が分からん」
「入れば分かる。入らない方がいいけど」
シアンが続ける。
「王都への帰還路の調整も必要です。馬車、護衛、森の境界確認。いずれも即時には整いません」
セシルが頷く。
「…一理ありますね」
レインは渋い顔をする。
「もとから断る選択肢がねぇじゃねぇか」
血王は、そこで少しだけ目を細めた。
「おまえたちは、通常の外界の者とは少し違うようだ…」
ノエルが、静かに瞬きをする。
「……何か知ってるの?」
アルヴァロスは答えた。
「余は多くを知らぬ。ただ、告げられたのだ」
「どういうことでしょう?」
「必要になれば話そう」
レインは舌打ちしそうになり、ぎりぎりで堪えた。
セシルが横目で見ている。
アルヴァロスは、淡々と続ける。
アルヴァロスの赤い瞳が、レインたちを順に見た。
「ともあれ、歓待しよう、異邦の客人よ」
広間が静まった。
フィアが小さく息を吐いた。
「……この国、わかんないことが多すぎ」
ラヴィニエが微笑む。
「…そうですね。ですが…不思議と悪意、は感じません」
「ラヴィのアンテナは役に立つの?」
「さぁ?」
セシルが静かに言う。
「そこは保証してください…」
レインはセシルを見る。
「今の私たちでは、分からないものが多すぎる」
「分からないから、首突っ込むなって話もあるだろ」
ノエルが言った。
「残る」
レインは彼女を見る。
「即答かよ」
「知りたい」
「何を」
「分からないもの」
フィアが帽子のつばを指で押さえた。
「フィーも残る。ここ、怖いけど…もう少し、知りたい」
ラヴィニエが手を合わせる。
「…わたしも残ります。フィアさんと同じ気持ちです」
「…」
レインは最後に、セシルを見た。
セシルはまっすぐに言う。
「ここで帰還するより、得られるものを得る方が良い。そう判断します」
「全員、帰る気なしってことか」
誰も否定しなかった。
レインは頭をかいた。
「……分かったよ」
アルヴァロスが静かに頷いた。
ノアが小さく笑った。
「じゃあ決まり。あらためて、ようこそ、夜の公国へ。今度は客人として迎えるよ」
シアンがすぐに言う。
「客室を用意します。ただし、ノア様の部屋には近づかないでください」
「近づかねえよ」
「念書を」
「いかねぇよ!」
夜が濃い。
アルヴァロスは玉座に座ったまま、静かに目を伏せた。
そのとき、古城の奥の奥、誰も知らない場所で。
誰も入らないはずのどこかで。
古い夜が、ほんのわずかに身じろぎした。




