EP4 暮色四合 第23話 回帰
夜の公国ヴェスペラは、静かだった。
静かすぎるほどに。
王都の夜には、眠った人間の気配がある。
閉じた窓。
消え残った灯。
どこかの酒場から漏れる笑い声。
遠くを歩く警備兵の足音。
だが、ここにはそれがない。
黒い石畳の道に、赤紫の灯が低く揺れている。
家々の窓は細く、街灯の光は地面よりも壁を照らしていた。
誰かがこちらを見ている気配はある。けれど、視線はすぐに引っ込む。
歓迎されている、という感じではない。
拒まれている、という感じでもない。
ただ、ここは外の人間が長く立ち止まる場所ではないのだと、空気が告げていた。
「冗談はここまで。ロゼノワール家へ直行するよ。イヴェットは待つのが得意じゃない」
レインは顔をしかめた。
「…癖のありそうなやつな気がするな」
カレラが御者台で手綱を取り直す。
「否定はしません。人格に癖はありますが、信頼できます。今のセリネを治療することができるとすれば、彼女をおいてほかにいません。」
馬車が動き出す。
道は城へまっすぐ続いているように見えたが、ノアは途中で横道へ入った。
街の奥、城壁に寄り添うように建つ黒赤の建物が見えてくる。
窓は少ない。
扉は高い。
壁面には、花の蔓に似た赤い紋様が刻まれていた。
医療施設、という言葉からは遠い。
夜の礼拝堂。
あるいは、墓所を磨き上げて人を迎える場所。
そんな印象だった。
セシルは建物の扉を見た。
黒赤の扉が、内側から開いた。
次の瞬間、声が飛んできた。
「搬送対象はどちらですか!? セリネですね!? はい、分かっています、分かっているから聞いています! 聞くことで場の焦点を一点に集める高度な儀式です!」
小柄な少女が、廊下の奥から走ってきた。
走っているのに、手元の器具が揺れていない。
腰には小瓶、採血針、記録板。
肩には暗赤色の短い外套。
髪は跳ね、目はやたらと生き生きしている。
「ウルティマ」
ノアが片手を上げる。
「来たよ」
「ノア様ぁ~! 今日もなんと!麗しいのでしょうか。素敵ですぅ!顔色が通常より二段階悪いですね! そんなノア様と、それを心配するシアン…尊すぎますぅ!関係濃度が大変にぃ…よろしいっ!」
レインは半歩引いた。
「何だこいつ」
「ロゼノワール家の活発な事故」
ノアが言う。
シアンが眉をひそめる。
「蔑み顔もお美しいですぅ。はいぃ、私、ロゼノワールの事故こと、ウルティマともうしますぅ!もちろん!最推しはイヴェット様!」
「…、いや、…えっ…?」
「この子はこれが通常運転です…慣れてください」
「……この国には普通な奴はいねぇのか…」
ウルティマはレインの方を一瞬だけ見た。
「あなたが……?…誰ですか!?話には聞いていませんが…なかなか…。じゅるり… 荒い目、荒い口!品がない立ち振る舞い!…評価します!まず、お名前を…」
「…レインだ。いきなり査定すんな…」
シアンが冷ややかに言う。
「ウルティマ。馬車にくっついてきた汚れの観察は後です。それよりも…セリネを」
ウルティマがセリネを見た。
騒がしさが、そこで一瞬だけ止まった。
「……搬送を」
声が変わった。
「処置室を開けています。寝台ごと。揺らさないで。首元と胸郭、触らないでください。右側から入れてください。左は器具が多いです」
「急にまともになったな」
カレラが馬車の後部を開ける。
ラヴィニエがセリネの傍らから身を引いた。
ノエルも物資をどける。
テオドーラは、座ったまま眠っていた。
ウルティマがその姿を見て、真顔で頷く。
「テオドーラ様は通常運転ですね」
その時だった。
廊下の奥から、短い靴音がした。
こつ、こつ、と。
たったそれだけで、廊下の空気が変わった。
ウルティマが黙る。
シアンも口を閉じる。
ノアが一歩、壁際に退く。
カレラが無言で頭を下げる。
現れたのは、若い女性だった。
外見は二十歳ほど。
夜空の雫で染めたような深く鮮やかな髪。
星の輝きの様な瞳。
暗色の衣。
飾りは少ない。
美しい、というより、冷たい。
そこに立っているだけで、廊下の温度が少し下がったように見えた。
彼女は誰にも挨拶をしなかった。
ノアにも、カレラにも、レインたちにも。
ただ、セリネだけを見た。
「状態は」
短い声。
ウルティマが即座に答える。
「《睡葬》による固定下。赤黒結晶反応は停止中。外見上は瀕死ですが、進行なし。セリネ本人の意識反応は確認不能!」
「…長い」
「要約します!イヴェット様! 止まっています!」
イヴェットはセリネの顔を覗き込んだ。
冷たい表情は変わらない。
けれど、ほんのわずかに眉が動いた。
レインは小声でノアに言った。
「…理解することを放棄しそうだ」
イヴェットはレインたちの方を見た。
視線は冷たい。
だが、敵意ではない。
邪魔な物の位置を測る目だった。
「中に入れないで」
レインの眉が動く。
「俺たちは」
「外」
「セリネをここまで運んだ」
「だから外」
切るような言い方だった。
レインが一歩出かける。
セシルが静かに言った。
「レイン」
「……分かってる」
分かっている。
中へ入ったところで、自分にできることはない。
それでも、外に出ろと言われるのは気に食わなかった。
ラヴィニエが、やわらかく微笑む。
「ここは、わたしたちの祈りが届く場所ではないようですね」
「お前でも駄目か」
「待ちます」
あっさり言った。
「それだけかよ」
「祈りながら待ちます。わたしにできることとしては、かなり上等です」
セシルも頷いた。
「ここから先は、今の我々が立ち入れる領域ではないのでしょう」
レインはセシルを見る。
「分かるのか」
「分かりません」
「おい」
「分からないから、踏み込むべきではないと判断しています」
レインは舌打ちした。
フィアがレインの肩を軽く叩いた。
「外で待とう。できること、もうなさそうだよ」
ノエルはセリネを見ていた。
しばらく見てから、短く言う。
「いこう、レイン」
扉は閉じられた。中からは、もう声が聞こえない。
ノアが壁にもたれる。
「ここからは、ロゼノワールの時間だね」
処置室の中は白くなかった。
イヴェットがウルティマを見る。
「準備を」
「はい! セリネ、寝台ごと移動! テオドーラ様も処置室へ! カレラ、起こせますか!?」
「必要であれば」
カレラはテオドーラの肩に手を置いた。
「テオドーラ様」
「……朝ですか」
「違います、イヴェット様です。」
その言葉で、テオドーラのまぶたがわずかに開いた。
眠気の奥に、細い光が差す。
「……分かりました」
イヴェットは短く言った。
「テオ、固定を解いて」
テオドーラの視線が少しだけ鋭くなる。
「…猶予は、そうありませんよ?」
「私を誰だと思っているの?」
テオドーラは、イヴェットを見た。
「……起こします」
「心配する必要、ないわ」
「……えぇ、イヴェットがそういうなら」
「起きて、眠り姫」
――パチン、と指を鳴らすと
セリネの首元で、赤黒い結晶が脈打つ。
止まっていた崩壊が、ふたたび自分の役割を思い出したように動き出す。
カレラが一歩、テオドーラの後ろに控えた。
「ウル」
「はいっ」 ウルティマが、セリネに触れた。
セリネの指先から、小さな血の滴が浮く。
イヴェットがそれを受け、舌に乗せる。
イヴェットの瞳が、細くなる。
「ここ、ね」
短い声だった。
そして、セリネの胸元に指を置く。
「静謐の水底より、忘却の時を枝折れ。――回帰」
光はなかった。
血が沸くことも、肉が編まれることもない。
ただ、セリネを覆う青黒い線が一度だけ震えた。
そして、そこにあったはずの崩壊が、現在から消えた。
セリネの呼吸が深くなる。
首元の結晶はない。
青白かった頬は、血の色が戻っていた。
テオドーラが小さく瞬きをした。
「……さすが、ですね。イヴェット」
「…ふん。そんな風に褒められてもうれしく、ないんだからね!」
イヴェットは答えた。
カレラが静かに息を吐いた。
「…お二人とも…尊みが深すぎて…しぬぅ…」
ウルティマは逆に息が止まったようだった。
セリネのまぶたが震えた。
細い指が、わずかに動く。
「……ん」
かすれた声。
セリネが、目を開けた。
焦点の合わない瞳が、天井を見た。
「……ここ」
それから、ゆっくりと首を動かす。
イヴェットを見て、硬直する。
「……あれ……?」
セリネは慌てて目をそらす。
「……あれ、あれ……?」
状況がつかめていないようだ。
「え、なんで……?」
セリネは次に、テオドーラを見た。
眠そうな少女。
カレラ。
ウルティマ。
次々に目が移る。
「え、ええ……? ここ、どなたですか? 私、……? あれ? え、私、何かしました?あなた方は……」
ウルティマが記録板を抱えたまま、嬉しそうに言う。
「意識明瞭! 混乱強め! 質問数多め! かなり良好です!」
「誰ですか!?」
「ウルティマです!」
「増えた!」
セリネの声が裏返った。
処置室の外で、その声が聞こえた。
レインが顔を上げる。
「今の」
ノアが少しだけ笑った。
「戻ったみたいだね」
扉が開く。
ウルティマが顔を出した。
「即時崩壊は消失! 生命反応安定! 意識回復! ただし本人の認識が現状にまったく追いついていません!」
「助かったのか??」
レインが問う。
ウルティマは、今度は少しだけ真面目に頷いた。
「ええ!ええ!さすがですね!我が主は!あなたも推してみませんか!イヴェット様!」
レインは扉の向こうを見た。
セリネは寝台の上で、目を白黒させている。
レインを見た。
ノエルを見た。
フィアを見た。
セシルを見た。
ラヴィニエを見た。
そして、見事に固まった。
「……ど、どんどん増えるんですね…」
レインは少しだけ口を開きかけて、やめた。
そうだ。
彼女は、自分たちを知らない。
「……本当に、生き返った…?」
レインが呟いた。
イヴェットはセリネの傍らに立ったまま、短く答える。
「…ふん。見ればわかるでしょ」
セシルが処置室の入口で足を止めた。
その顔は、いつもより硬い。
「これは……術式ではありませんね…」
ラヴィニエも静かに言う。
「奇跡というのはこのようなものなのでしょうか…」
フィアは小さく息を吐く。
「…しんじらんない。あの子、死にかけてた…っていうか、ほとんど駄目だったよ?」
セリネは自分が注目されていることに気が付いて、そして―――
「うーん、」
ぱたり、と倒れた。
ウルティマが、明るく言った。
「再失神! ただし今回は生命危機ではなく情報過多による混乱でしょう!」
レインは額に手を当てた。
「……本当に助かったんだよな?」
イヴェットはセリネの呼吸を確認し、短く答えた。
「しつこいわね。見た通りよ」
それだけだった。
だが、その一言だけで、廊下に張りつめていたものが、少しだけほどけた。




