EP4 暮色四合 第22話 ようこそ
黄昏の森は、森というより、ひとつの国だった。
森、と聞いて想像するようなものではない。
木々は高い。
高すぎる。
幹は数人がかりでも抱えきれないほど太く、枝は空を覆い、葉は昼の光を裂いて、地上へ届く頃には夕暮れの色に変えていた。
まだ昼だ。
太陽は高い。
それなのに、森の入口だけが、日暮れのように沈んでいる。
レインは馬車の横で足を止めた。
「……でけえな」
それ以外の言葉が出てこなかった。
森の奥は見えない。
ただ暗いのではない。
奥へ続いているはずなのに、どこまでも同じ色が重なって、距離という感覚そのものがぼやけていく。
フィアが、少しだけ目を細めた。
「相変わらず、感じ悪い」
「懐かしいんじゃなかったのか」
レインが言う。
フィアは肩をすくめた。
「懐かしいものが、全部いいものとは限らないでしょ」
「そういうもんか」
「そういうもん」
それ以上、フィアは話さなかった。
ただ、森を見ている。
その横顔は、いつもの軽さとは少し違っていた。
ノエルが幌の隙間から外を覗く。
「暗い」
ラヴィニエがその隣から顔を出した。
「まだ夜ではありませんよ」
「でも、明るくない」
「ええ。黄昏ですから」
「黄昏」
「昼でも夜でもない、という意味では、なかなか信仰的ですね」
「また難しくした」
「簡単に言うと、気味が悪いです」
「最初からそれでいい」
ラヴィニエはにこりと笑った。
カレラは御者台で手綱を握ったまま、森の入口を見ていた。
「ここから先は、速度を落とします」
「何か出るのか」
レインが問う。
「出ます」
「断言かよ」
「断言できます。黄昏の森は、人間の都合でできている場所ではありません」
その言葉に、森の奥で何かが鳴いた。
鳥ではない。
獣でもない。
喉の奥で石を擦り合わせるような、低く、長い音だった。
馬が小さく身じろぎする。
セシルが剣に手を添えた。
「近いですか」
フィアが首を振る。
「遠い。たぶん」
「たぶん?」
「この森、距離感が当てにならないの」
その時、木々の奥で、巨大な影が動いた。
枝が軋む。
低木が左右に割れる。
馬車より大きい。
家ほどではない。
いや、見えた部分だけなら、そうだ。
影の全体は分からない。
細長い首のようなものが、葉の間をゆっくり横切った。
レインは警戒感を強めた。
黄昏の森の中へ入ると、音が変わった。
車輪の軋みが遠くなる。
馬の蹄が土を踏む音も、葉と苔に吸われる。
道はある。
だが、道が人間のためにあるようには見えなかった。
木の根が地面を裂き、古い石片がところどころに埋もれている。
苔むした岩の上には、何かの爪痕があった。
人のものではない。
獣のものにしては、深すぎる。
馬車はゆっくり進んだ。
カレラの手綱さばきは慎重だったが、迷いはなかった。
フィアは時折、前方を見たり、横の茂みに視線を向けたりしている。
いつもの索敵とは少し違っていた。
探しているというより、思い出しているように見える。
「フィア」
レインが声をかける。
「何」
「お前、ここ、どれくらい知ってる」
「んー」
フィアは少しだけ考えた。
「迷子にならない程度」
「それ、信用していいのか」
「私ならね」
「俺たちは?」
「たぶん迷う」
「駄目じゃねえか」
「だから、カレラと合流地点に向かってるんでしょ」
フィアは前を見たまま言った。
「黄昏の森はね、分かってる道と、知らない道と、知ってるつもりの道がある」
「最後が一番嫌だな」
「うん。一番危ない」
しばらく進むと、道の先に、石柱が見えたからだ。
石柱は、森の中に半ば埋もれていた。
一本ではない。
五本。
いや、倒れているものを含めれば、もっとある。
黒に近い灰色の石で作られ、表面には文字のような溝が走っている。
けれど、文字と呼ぶには形が揃っていない。
木の根が絡みつき、苔が覆い、古さだけが残っている。
そこだけ、森の色が濃かった。
夕暮れが沈殿しているような場所だった。
カレラが馬車を止める。
「中継地点です」
レインは周囲を見た。
「誰もいねえぞ」
「来ています」
「どこに」
その時、石柱の陰から軽い声がした。
「はいはい、夜の迷子回収係だよ。遅かったね、カレラ」
レインは短剣の柄に手をかけた。
石柱の上に、ひょいと一人の少女が腰かけていた。
外見は十六、七歳ほど。
短めの髪。
少年のような軽い身のこなし。
片膝を立て、片手を振っている。
その後ろに、もう一人。
背筋を伸ばした少女が立っていた。
こちらは少し年上に見える。整った制服。硬い表情。真面目すぎるくらい真面目な目。
カレラが小さく頭を下げた。
「ノア様。シアン」
石柱の上の少女――ノア=ファルケンリートは、軽く笑った。
「様はいらないよ。距離が遠い」
後ろの少女がすぐに言う。
「必要です。ノア様、立場を軽くしないでください」
「はいはい、シアンは今日も硬いね」
ノアは石柱から飛び降りた。
レインを見る。
「君がレイン?」
「ああ」
隣のシアンが一歩前へ出た。
「…汚物、ですね」
レインは眉を寄せる。
「…なんだって?」
「ノア様から三歩離れてください」
「近づいてねえだろ」
「適切な距離を測ったまでです」
「なんだこいつ…」
ノアが笑った。
「シアン、セリネを運んでくれた協力者だよ?」
「…しかたありません、息をすることを許可します」
「なんで呼吸にお前の許可がいるんだよ!」
「あまりしゃべらないでください。ノア様に感染します」
フィアが小さく吹き出した。
「濃いの来たね」
ノエルが幌の隙間から覗く。
「新しい人、変な人ばっかり」
カレラが軽く咳払いする。
「シアン…ほどほどに。今は冗談を言っている状況ではありません。」
「…カレラ、私は本気なんだけど…まぁいいです。ノア様、よろしいですか?」
ノアは軽くうなずき、馬車へ歩み寄った。
そして、幌の中を覗いた。
その瞬間、笑みが少しだけ消えた。
セリネ。
テオドーラ。
二人の眠り。
ノアの声が、わずかに低くなる。
「……これは、急いだ方がいいね」
カレラが頷いた。
「はい」
「テオは?」
「《睡葬》維持中。断続的に覚醒していますが、ほぼ眠っています」
「了解」
ノアは馬車から離れ、石柱の中央へ歩いた。
シアンがすぐにその隣へつく。
「ノア様」
「分かってる」
「馬車ごとの領域転移は、負荷が少々…」
「わかってる、今回は緊急事態」
「…そうですね」
ノアは振り向く。
「じゃ、ぱっ、っとすませちゃうよ」
ノアは馬車を指さした。
「馬車、人、荷物、寝台、空気。それから、眠ってる子たち。全部をひとつの場所としてまとめて、別の場所と入れ替える」
セシルが驚く。
「そんなことが可能なのですか?」
「ノア様を疑うことは許しませんよ。きれいな汚物」
「…どういう意味でしょうか」
珍しく、セシルが戸惑った表情を浮かべる。
「…申し訳ありません。シアンは男性に対して、謎の嫌悪感を」
カレラは心底申し訳なさそうに少し声を落とす。
ノアは笑った。
「困った子だけど、許してやって。じゃ、はーじめーるよー」
ノアの号令が小さくこだました。
ノアは馬車の前に立った。
両手を軽く広げる。
その仕草は冗談のように軽かった。
けれど、森の空気が止まった。
風が止まる。
枝葉のざわめきが遠くなる。
馬の鼻息さえ、布越しに聞いているように鈍くなる。
馬車の周囲だけが、薄い膜で切り取られたように静かになった。
「動かないでね」
ノアが言った。
「今から、この馬車の周りを“ひとつの場所”として扱う。下手に動くと、場所の端に引っかかるから」
「引っかかるとどうなる」
「知らない方がいいよ」
「…」
「だから動かないでね」
フィアが小さく息を飲んだ。
ノアは両手を広げたまま、ゆっくりと息を吸う。
―静寂。何も生じていない。
一瞬、視界がブレた。と思った。
レインは、足元の感覚が消えるのを感じた。
浮いたのではない。
落ちたのでもない。
木々の匂いが、湿った土の気配が確かにあった。
黄昏の色が、さらに濃くなり――
次の瞬間。
森が一枚、裏返った。
黒い石畳が、足元にあった。
冷たい夜の匂いが満ちている。
風が違う。
森の風ではない。
城壁の内側を巡る、乾いた風だった。
レインは思わず周囲を見た。
低い城壁。
黒い石造りの門。
赤紫の灯り。
沈んだ屋根の群れ。
遠くに城が見える。
高く、静かで、どこか墓標に似た城だった。
空は夜だった。
いや、夜に近かった。
王都の夜とは違う。
ここでは、夜そのものが街を作っているように見えた。
「……はい、到着」
ノアが軽く言った。
その声はいつも通りだった。
だが、額には薄く汗が浮いている。
シアンがすぐに隣へ寄る。
「ノア様」
「大丈夫」
シアンは一瞬だけ口を閉じた。
それから、小さく頷く。
「……はい」
カレラはすでに馬車の中を確認していた。
「セリネ、状態維持。テオドーラ様は……普通に熟睡していらっしゃいます」
ノアは息を吐く。
「じゃ、急ごう。ロゼノワールを待たせてる」
レインは、もう一度周囲を見た。
黄昏の森は消えた。
代わりに、見知らぬ宵が広がっている。
小さな城下町。
黒い石の道。
赤紫の灯。
静まり返った家々。
そして、その奥に聳える城。
ノアが軽く手を広げた。
「ようこそ」
軽い声。
けれど、その目だけは笑っていない。
「夜の公国、ヴェスペラへ」
レインは息を呑んだ。
王都とは違う夜が、そこにあった。




