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EP1.白礫墓苑の夜 第3話「帰還」

石室に落ちた静寂は、終わりの音ではなかった。


むしろ逆だった。

死者の群れが焼き尽くされ、黒炎の余熱がようやく引き始めたあとで、ようやく聞こえてきたものがあった。


呼吸だ。

ノエルの浅い息。

ラヴィの抑えた呼吸。

そして、レイン自身の、喉の奥に煤が貼りついたみたいな荒い息。


石室はまだ熱を抱えている。少女を中心に放射状に石床が溶けてマグマと化していた。

理不尽そのものが空間を満たしていた圧力が、少しだけほどけていく。

レインは片膝をついたまま、荒い息を整えようとしていた。

胸の奥に、まだ残っている。


火の熱。


煙の重さ。


他人の怒りが、自分の中に居座ったまま出ていかない。


右腕はずっと鈍く痛んでいた。

黒炎が這った場所だけ、皮膚の下に火種が残っているみたいだった。


「……」


レインは顔を上げた。


少女は石室の中央にいた。

焼けただれた身体を支えながら、ゆっくり立ち上がろうとしている。

輪郭はもう保てなくなりつつあった。炭化した肩口が崩れ、そこから淡い光の粒みたいなものが零れ落ちている。


それでもまだ、消えていない。

黒い目が、床を見下ろしていた。


「疲れた」


さっき少女は、そう言った。

その声が、まだ耳の奥に残っている。

レインは一度、深く息を吐いた。


「……お前、全部が憎かったんだろ」


少女の目が、わずかに動く。


「役人が。見てるだけの奴らが。判を押して、それで終わりにした連中が」


声は掠れていた。

自分の言葉なのか、自分の中に流れ込んだ残滓の言葉なのか、もう区別がつかない。


「当然だろ。俺でも憎む」


少女の輪郭が、揺れた。

レインは視線を逸らさなかった。


「でも」


自分でも驚くほど、声はまっすぐだった。


「お前、最後に見てただろ。炎の向こうで、ばあさんが叫んでた」


少女が、かすかに震える。


「聞こえなかった。でも、分かった」


それは嘘ではなかった。

熱と痛みの濁流の中に、確かにあった。老女の背中が。役人に押さえつけられながら、それでも喉が裂けるほど叫んでいた姿が。


「お前を守ろうとしてた。最後まで」


黒い目の奥が、わずかに揺らいだ。


そこへ、ノエルが並ぶ。


まだ顔色は悪い。


胸を打たれた衝撃が抜けきっていないのか、立ち姿も少しだけ不安定だ。


それでもノエルは、レインの横に来た。


「分かってた」


ノエルの声は静かだった。


「怒りの下に、ずっとあった。おばあちゃんに会いたい、って」


少女の唇が、かすかに動く。


「怒ってて、憎んでて、それでも」


ノエルは一歩だけ前へ出た。

レインの半歩前。

ラヴィよりは半歩手前。

三人の中で、いちばん少女に近い位置だった。


「帰りたかった。そうでしょ」


少女の輪郭が、大きく揺れる。

焼けただれた黒が、端から崩れていく。

その下から、少しずつ、生前の顔が戻ってくる。


頬の輪郭。


伏せがちだった目元。

地味なくらいにおとなしい、十六、七の娘の顔。


「……」


少女は何も言わなかった。

ただ、泣いていた。

怒りで歪んでいた形の奥から、ようやく“泣いている娘”だけが浮かび上がってくる。


ラヴィはその様子を、少し離れた位置から見ていた。

何が起きたのか、全部は分からない。

分からないままだった。


ただ、二人の言葉が届いていることだけは分かった。


そして、この娘がずっと怒っていたのは、怒るしかなかったからなのだと、今はそれだけで十分だった。

ラヴィはモーニングスターの鎖を、短く持ち直した。


「怒っていていいですよ」


その声は静かだった。


柔らかい、というより、余計な飾りのない声だった。


「理不尽に焼かれたんでしょう。安らかに眠れ、だなんて、生きている側の勝手です」


少女が、ラヴィを見る。


「ですが」


ラヴィは続けた。


「噛みつく先を、もう間違えないでください」


重い言葉だった。

聖女みたいな慰めではない。

けれど、ずれているようで、外していない。


「あなたが会いたい人まで、その怒りで焼き尽くそうとする。それはたちが悪い」


少女の口が、かすかに開く。


「……分かってる」


「分かっているなら」


ラヴィはモーニングスターを、静かに石床へ立てた。

鎖が、ゆっくり垂れる。


「泣く方は、こちらへ」


重い鎖の音が、石室に落ちた。


澄んだ鐘のような音ではない。

ちり、とも、ごと、ともつかない、低い音だった。だが、確かに何かを鎮める響きがあった。


「噛みつく方は、私が引き受けます」


「引き受けるのかよ」


レインが思わず呟く。


ラヴィは振り返らなかった。


「ええ。面倒ごとは、大抵こういう形で私のところに来ますので」


「寝坊した人間の台詞じゃねえよ」


「神は寝坊にも寛容です」


「そこだけは都合いいな本当に」


少女の輪郭が、また揺れた。

焦げた黒が、もう少し薄れている。


ノエルが、少女の前に立つ。


「最後に分かったでしょ」


ノエルの声は、相変わらず平坦だった。

だがその平坦さの底に、今だけは別の熱があった。


「おばあちゃんの手。布包み。あれ、あなたのためだったって」


少女の目が大きく揺れる。


「分かった、最後に」


「……うん」


少女の声は、ひどく小さかった。


「分かった。でも」


「でも?」


「言えなかった」


ノエルは少し黙った。


そして、ほんの少しだけ目を伏せる。


「言えなかったんだね」


「……ありがとう、って」


少女の目から、光が零れた。


「言えなかった。ありがとうって、言いたかった」


ラヴィが、モーニングスターの柄頭を石床へ打ちつけた。


重い音がした。


金色ではない。


鈍い、柔らかな光が、床の円の縁を走る。怒りの黒が、端から剥がれるように崩れていく。

少女の輪郭が、静かに整っていく。


「――還りなさい」


ラヴィの声は、いつもより低かった。

怒りだけが黒く燻るように消えて、泣いている娘の形だけが残った。

ようやく、その顔は年相応だった。


少女は泣きながら、少しだけ笑った。


「……おばあちゃんに」


レインは一歩前へ出た。

まだ胸の奥は焼けている。


怒りの残骸が、そこにくすぶっている。

だが今は、それを借りる必要はない。


「言葉は、俺が持ってく」


少女がレインを見る。


「……うん」


「ありがとうって、言えなかったんだろ」


「うん」


「じゃあ、それ持ってく」


少女は泣いたまま頷いた。


「おばあちゃんに、ありがとうって」


声が震える。


「帰りたかった、って」


「……それも持ってく」


ラヴィのモーニングスターが、もう一度、石床を打った。


低い音が、石室を満たした。


ノエルの足元に残っていた霜が、静かに消えていく。

熱の残り香も、冷気の名残も、少しずつ薄れていった。

石室には、もう何もなかった。



白礫墓苑の外へ出た時、空はまだ夜の色をしていた。


東の端が、わずかに薄くなり始めている。

依頼人の老女は、墓苑の石柵のそばで、ずっと待っていた。

立ち尽くしていた、という方が近い。

夜気にさらされた小さな背中は、さっきよりさらに小さく見えた。


「どうでした」


声が擦れていた。


「うちの子は……」


レインは一瞬、言葉を選ぶ。


全部は言えない。


墓苑最奥で起きたことも、死者の群れも、あの黒炎も。そんなものを、この老女に背負わせる意味はない。


「娘さん、あんたのこと忘れてなかったよ」


老女の顔が、ぴくりと動く。


「最後まで、帰る場所だと思ってた」


老女の口元が震えた。


「それと、ありがとうって。言えなかったって」


老女はその場に崩れるように膝をついた。


すぐには泣かなかった。


泣くより先に、胸のどこかを深く抉られたような顔をした。


やがて震える手で胸元を探り、服の内側から古びた布包みを取り出す。

煤けた、安い布だった。


老女はそれを開く。


中には、首飾りが入っていた。

細い銀の鎖に、青い石が一粒だけついている。

もとは綺麗だったのだろう。だが今は鎖の半分が黒く焼け、石の台座が歪んでいる。


「……あの子、今月で十七だったんです」


老女の声は削れていた。


「一つくらい、何か娘らしいものを持たせてやりたくてねえ」


レインは何も言えない。


「市場で……見つけたんじゃないんです」


老女は首飾りを握りしめた。


「盗ったんです」


夜明け前の冷たい空気の中、その告白だけがやけに温度を持って落ちた。


「神殿に奉納される前の品で……大神殿の宝物庫に収める予定だったものだそうで。知らなかったんです、最初は。でも」


老女の手が、皺の深いところで震えた。


「王都では、神殿への奉納品に手をかけた者は、王の財産を盗んだのと同じに扱われます。あの子は何も知らなかった。わたしを庇って、自分がやったって」


声が崩れる。


「判決が出たあとで、役人のところへ行ったんです。あの子は関係ないって。わたしが盗ったんだって。でも、もう執行したから、記録は動かせないって」


ラヴィは目を伏せたまま何も言わない。


ノエルは老女の手の中の首飾りを静かに見ていた。


「誕生日、おめでとうって」


老女が嗚咽の合間に、笑うみたいに言う。


「言ってやりたかっただけなのにねえ」


レインは視線を逸らした。


あの炎の熱も、黒炎の重さも、まだ自分の中に残っている。

だが今、この老女に必要なのは、そんなものではない。


「娘さん、最後に分かったみたいだ」


老女が顔を上げる。


「あれ、自分のためだったんだなって」


老女の目が大きく揺れた。


そして、泣きながら何度も頷く。


「そうかい……そうかい……」


もうそれ以上の言葉は出なかった。


三人はしばらく立ち止まっていた。


朝の光が、ゆっくり街の輪郭を戻し始めている。


石畳の縁に腰を落とし、膝の上に肘を置いて、ただそこにいた。

全身が重い。

腕が動かない。

胸の奥に、まだ何かが残っている。怒りの残骸みたいなものが、くすぶったまま消えない。


「……依頼は完了、でいいか」


声がかすれた。


ノエルが小さく言う。


「たぶん」


ラヴィはもっとはっきり言った。


「ええ。都合の良い部分だけ切り取るなら、綺麗に完了です」


「お前、それ聖職者が言っていいのか」


「人は時に、耐えられる分だけ受け取るべきです。今回は本気でそう思っています」


少しだけ、本当にそう聞こえた。



「……お前」


レインがノエルを見る。


「何」


「さっき、あれ、何だったんだ」


ノエルは少しだけ考えてから、


「残ってたものを、見た」


とだけ言った。


「それだけかよ」


「それだけ」


レインは溜息をつく。


立ち上がる気力もないので、そのまま石畳に座っていた。

ラヴィが隣にしゃがんだ。


「あなたも、何か見たんですか」


「……うるせえ」


「見たんですね」


「…」


ラヴィは何も言わなかった。

ただ、隣にいた。


しばらくして、レインは空を見上げる。

朝は来る。

王都は何事もなかったみたいな顔で、また一日を始めるのだろう。

そのことが、ひどく腹立たしくて、同時にどうしようもなく普通だった。


「……最悪な街だな」


ぼそりと呟くと、ラヴィが静かに答えた。


「そうですね。ですが、最悪な街にも、帰りたい人がいるのです」


レインは何も返さない。


ノエルだけが、ほんの少しだけ目を細めた。


三人の距離は遠い。


あるのは、夜の墓苑を一緒に潜り、一つの言葉を持ち帰ったという事実だけだ。

けれど、その事実は思っていたより少し重くて、少しだけ静かだった。

朝の光の中で、白礫墓苑は元通りの墓地の顔をしている。


それでもレインは知ってしまった。

死の先にも、最後まで残る言葉があることを。

誰も何も言わないまま、三人は王都の中心へ歩き出す。

夜は終わっていた。


けれど、あの娘の残した熱だけは、まだ少しだけレインの胸の奥に残っていた。

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