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EP4 暮色四合 第20話 黄昏へ

レインが戻ってきた時、白い部屋はまだ白かった。

 白い壁。 白い床。白い作業台。

 赤黒く砕けた結晶の欠片だけが、その白さを汚している。

 中心には、セリネが横たわっていた。

 呼吸はある。

 だが、細い。

 生きているというより、死に向かう途中で無理やり引き留められているように見えた。

その近くに、テオドーラは座っている。半分眠ったような顔で、じっと彼女を見ていた。

「ラヴィ」

レインは、息を切らしたまま言った。

「頼む」

 隣にいたラヴィニエは、いつものように柔らかく微笑んでいた。

 だが、セリネを見た瞬間、その微笑みがほんの少し薄くなった。

 黒く濁った結晶。


 眠りとも死ともつかない呼吸。

 ラヴィニエは、ゆっくりと膝をついた。

「……こんな症状、見たことがありません」

 レインの喉が鳴った。

「治せるか」

「分かりません…ですが、できるだけのことをやってみます」

 ラヴィニエは右手を胸元にかざした。

 淡い光が、その掌に集まる。

「満ちよ、天秤の白耀。正しき誓いに応え、敬虔なる祈りに――」

「――無駄です」

 静かな声が、祈りを遮った。

レインが振り向いた。

「何だと」

「祈りを否定したのではありません。今は届かない、と申し上げています」

「やってみなきゃ分かんねえだろ」

「分かります」

 カレラは、横目でテオドーラを見た。

「セリネを留めている、テオドーラ様のお力は、あなた方が扱う術式の技術とは根本的に異なるのです」

「…どう違う」

「少し説明をしましょう。あなた方の術式は、おそらく、…魔素の流れを整えるのでしょう。そのように対象に働きかけ、傷を塞ぐ。血を止める。ですが、テオドーラ様の《睡葬》は、対象の状態そのものを固定します。あなた方が治癒や魔法と呼ぶ力と、そもそも概念自体を異にしているのです」

「…わかりやすく言ってくれ」

「つまり、崩壊も、傷も、治癒も、今は進行しません。回復もしません」

 ラヴィニエは、かざした手を止めた。

 光が掌の上で揺れる。

「……なるほど。理屈はわかりました。…本当にそんなことが可能であれば、ですが」

「この方には可能なのです。現に、目の前の結果が何よりも雄弁でしょう。」

「…たしかに、そのようですね…」

 レインは、セリネを見た。

 動かない。

 崩れない。

 治らない。

 なら。

「固定を解けばいい」

「それは、可能です」

「なら――」

「同時に、崩壊も再開します」

 言葉が止まった。

 カレラの声は冷たくはなかった。

 だが、少しも揺れなかった。

「今、治すために解除すれば、治す前に、死ぬ可能性があります」

 眠たげな声が、低く落ちた。

「……今は、固定を優先します」

 テオドーラだった。

 レインは、何も言えなかった。


 走った。

 ラヴィを連れてきた。

 それでも、届かない。

 セリネは目の前にいる。

 生きている。

 まだ、消えていない。

 なのに、触れない。

 動かせない。

 救えない。


 またか。

 その言葉が、胸の奥で鳴った。

 また、何もできないのか。

――――

―― 

白い光が見えた。

 セリネの顔ではない。

 地下室の白い壁でもない。

 もっと古い白だった。

 土の匂い。

 錆びた金属のような匂い。

 崩れた石。

 子どもの頃、何度も入った廃墟。

 そこに、細い背中があった。

 灰に近い髪。

 自分とは似ていないと、何度も言われた髪。

 本人は気にしていなかった。

 いつも笑っていた。

 帰れと言っても帰らなかった。

 危ないから来るなと言っても、後ろをついてきた。

 ――シラ。

 呼んだはずだった。

 呼んだ。

 たぶん。

 でも、そこから先が曖昧だった。

 光の中に立っていたのか。

 倒れていたのか。

 誰かがいたのか。

 いなかったのか。

 血があった気もする。

 なかった気もする。

 事故だったのか。

 殺されたのか。

 消えたのか。

 レインには、今でも分からない。

 覚えているのは、口元だけだった。

 シラは、最後に何かを言った。

 確かに言った。

 けれど、その声がない。

 口が動く。

 何かを伝えようとしている。

 でも、聞こえない。

 いつも、そこだけが抜け落ちている。

 返事をしたのか。

 手を伸ばしたのか。

 間に合わなかったのか。

 分からない。

 分からないまま、五年が過ぎた。

――

「レイン」

 ノエルの声で、意識が戻った。

 いつの間にか、ノエルが隣に立っていた。

「テオドーラの話。続いてる」

「…ああ」

「……ですが、手立てはあります。」

「なにっ」

「治す手立ては、あるのです」


 セシルとフィアが戻ってきたのは、それから間もなくだった。

 セシルは左手に白い布片と、割れた金属片を握っている。

 右腕の固定具には、新しい血が滲んでいた。

 フィアは、いかにも不機嫌そうな顔をしていた。

「逃げられた」

 短く言った。

 レインは振り返る。

「……そうか」

 フィアはセリネを見た。

 表情が、少しだけ曇る。

「ラヴィでも駄目?」

「ええ。ちょっと普通の状態ではないようですので…」

 ラヴィニエが答えた。

「……よくわかんないけど、厄介そうだね」

フィアは言う。

セシルは目を伏せた。

「悲嘆にくれていても始まりません」

 カレラは立ち上がった。

「方針を決めます」

 全員が彼女を見る。

「セリネは、ヴェスペラへ搬送します。まず黄昏の森側の中継地点へ。そこでファルケンリート家と合流します」

 レインが言う。

「何が何だか…わからんが、なんとかなるのか?」

「現状最も可能性の高いと思われる手段を採択しました」

「…」

「ただし、私一人では移送できません。テオドーラ様は《睡葬》維持で眠りに落ています。セリネの馬車搬送、道中警戒、緊急時対応を同時に行うことは不可能です」

 レインは言った。

「…何が言いたい?」

「行きがかりではありますが、あなたたちが信用に足ると判断しました。どういう理由かは存じませんが、われらの眷属であるセリネを救おうとしてくださっています」

「…」

「ヴェスペラ公国名義で依頼をしたいのです。あなた方はギルド所属なのでしょう?契約を残し、正式に動けるように手はずを整えます」

 レインは黙った。

 カレラは淡々と続ける。

「ギルドへの案内を。他の方には物資の調達をお願いします。水、布、保存食、灯火、外套、馬車内で使う固定具。費用は依頼主側で負担します。」

 ノエルは頷いた。

「分かった」

 フィアも手を上げる。

「私も行く。ノエル一人だと心配だし」

「では、私はここに。祈りが届かないとしても、この方々を見ていることはできます」

 「私も残ります。何があるかわかりません。この場の守護はお任せを」

セシルが一歩前に出た。

「怪我は」

 フィアが言う。

「支障はありません」

 ラヴィニエがにこりとした。

「では、支障が出る前に、セシルさんの治療は私が受け持ちます。祈りたくて、うずうずしていましたので」

「……大丈夫でしょうか…」

 フィアが目を丸くする。

「なんか、こういう時のラヴィってちょっと怖いかも。」

 その時、テオドーラが小さく呟いた。

「……カレラ」

「はい」

「少し、寝ます」

「…了解しました。万事、ご心配なく。安心してお休みください。テオドーラ様」

「ふふ…よろしくね」 

そのまま、テオドーラのまぶたが落ちた。

 セリネの呼吸は、細いまま続いている。

 白い部屋の中で、二人の少女が眠っていた。

 一人は壊れないために。

 一人は壊さないために。

 カレラはそれを一瞥し、静かに言った。

「急ぎます」


  レインはカレラを連れてギルドへ向かった。

 夜に近い時間帯のギルドは、昼とは違う顔をしている。

 酒の匂い。

 仕事帰りの冒険者の声。

 受付台に積まれた依頼票。

 受付には、ヴェネッサがいた。

 王都一の美人、と誰かが言ったことがある。

 本人はそれを聞くたびに、決まってこう返す。

「顔が良い人間は信用されやすいので、詐欺に向いています」

 そのため、ギルド職員としては致命的に信用ならないことを言う女だった。

「緊急搬送護衛の依頼を出します」

 カレラが告げると、ヴェネッサは書類を一枚取り出した。

「本当に依頼しますか?」

「はい」

「後悔しませんか?」

「しません」

「三回くらい考えましたか?」

「時間がありません」

「時間がない依頼ほど、だいたい後悔します」

 レインが横から口を挟む。

「いいから通してくれ」

 ヴェネッサはレインを見た。

「レインさんが絡んでいる時点で、後悔の確率が上がりました」

「何でだよ」

「経験則です」

「否定しづらいのが腹立つな…」

 カレラは懐から封書を出した。

「依頼主はヴェスペラ公国。緊急搬送対象一名。目的地は黄昏の森方面。護衛対象は馬車一台、搬送者二名、随行者一名」

 ヴェネッサは筆を持ったまま、少しだけ目を細めた。

「ヴェスペラ公国」

「はい」

「聞き慣れませんね」

「閉鎖的な公国です」

カレラは一拍置いた。

「聞き慣れないけれど、調べる気もありません」

 ヴェネッサは、少しだけ口元を上げた。

 そして、封書を受け取る。

「前金は」

「用意しています」

「搬送理由は」

「重篤者の治療施設への移送」

「危険度は」

「高いです」

「敵対勢力の可能性は」

「あります」

「道中で死人が出る可能性は」

「否定できません」

 ヴェネッサは筆を止めた。

「本当に依頼しますか?」

「します」

「後悔しませんか?」

「しません」

「三回くらい――」

「考える時間がありません」

「では、こちらで三回分疑っておきます」

 そう言って、ヴェネッサは受付印を押した。

「緊急搬送護衛依頼、受理します」

 レインは息を吐いた。

 ヴェネッサは、レインをじっと見た。

「顔がひどいですね」

「あんたに言われると刺さるな」

 彼女は依頼書の控えを差し出した。

「無事に帰ってきてください。事後処理が面倒なので」

「そこかよ…」

 レインは控えを受け取った。

 紙の上に、自分の名前が残る。

 何もできないわけではない。

 まだ、できることはある。


 ノエルとフィアは物資を集めた。

 水。

 布。

 保存食。

 灯火。

 外套。

 簡易寝具。

 馬車用の固定具。

 ノエルは必要と言われたものを、淡々と積んでいく。

 フィアは横で、何度も止めた。

「ノエル、それは三日分じゃなくて三十日分」

「多い?」

「多い」

「足りないよりいい」

「限度がある」

「限度」

「そう、限度」

「難しい」

「買い物は難しいんだよ」

 そう言いながら、フィアは干し肉を一袋追加した。

「食べ物、増えてる…」

フィアの言うことは、いまいちわからない、とノエルは思った。


 白い部屋では、ラヴィニエとセシルが残っていた。

 セシルは入口付近に立ち、周囲をじっと伺っている。

 ラヴィニエはセリネの傍らに座り、静かに祈っていた。

 祈りは、セリネには届かない。

 それでも、ラヴィニエは祈っていた。

「届かないのに、続けるのですか」

 セシルが言った。

「届かないから、続けるのです」

「理屈が分かりません」

「でしょうね」

「説明する気は」

「ありますが、長くなります」

 セシルは小さく息を吐いた。

「あなたは、いつもそうですね」

「ええ。わたしは、だいたいわたしです」

「それが一番困ります」

 ラヴィニエは微笑んだ。

「困るのもまた、祈りの一部です」

「違うと思います」

「違うかもしれません」

 白い部屋の空気は重いままだった。

 だが、完全な沈黙よりは、少しだけましだった。


 馬車の手配は早かった。

 ギルドが紹介したのは、夜間搬送に使われる黒い幌馬車だった。

 外から中が見えないよう、厚い布で覆われている。

 荷台には寝台を固定する金具があり、病人や負傷者を運ぶための簡易構造になっていた。

 カレラは馬車を確認し、即座にいくつかの修正を指示した。

「揺れを減らしてください。荷台中央に寝台を固定。左右に二名が座れる余白を。外から開けられないように留め具を追加」

 馬車係が面食らった顔をする。

「随分と慣れてるな」

「ええ」

「何を運ぶんだ」

「眠っているものです」

「……人か?」

「はい」

「そうか」

 馬車係は、それ以上聞かなかった。

 王都には、聞かない方がいい仕事がいくつもある。

 これも、その一つだと判断したのだろう。


 合流したのは、夜が深くなる少し前だった。

 旧東三番工房の裏手に、幌馬車が停まっている。

 セリネは、布で覆われた寝台に寝かされた。

 その傍らに、テオドーラが座らされる。

 いや、座ったまま眠っていた。

 セリネの眠りは保たれている。

 ラヴィニエは向かい側に座り、目を伏せる。

 セシルは馬車の後方。

 フィアは外側の見張り。

 ノエルは物資の横に小さく座った。

 カレラは最後に荷台を確認した。

 そして、レインに向き直る。

「目的地は黄昏の森です。そこでファルケンリート家と合流します」

「そこから先は」

「ヴェスペラへ」

「……そうか」

 レインは、眠るセリネを見た。

 白い顔。

 細い呼吸。

 名前を奪われ、番号を刻まれていた少女。

 そして、その隣に眠るテオドーラ。

 壊れないように。

 壊さないように。

 眠らせ続けている。

 レインは荷台に片足をかけた。

 その時、ふと、また白い光が胸の奥を掠めた。

 小さな背中。

 灰の髪。

 こちらを振り返る顔。

 何かを言っている。

 けれど、聞こえない。

 今もまだ、聞こえない。

 レインは目を閉じた。

 今度は、置いていかない。

 そう思った。

 それがセリネに向けた言葉なのか、シラに向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

「出してくれ」

 レインが言った。

 馬車が動き出す。

 王都第5環東の灯りが、少しずつ遠ざかる。

 夜は、まだ浅い。

 だが、黄昏の森へ続く道は、すでに暗く沈み始めていた。


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