EP4 暮色四合 第19話 眠り姫
「……まだ、終わっていません」
テオドーラ=アルケインは、眠たげな声でそう言った。
白い部屋の床に、セリネが倒れている。
赤黒い結晶は黒く濁り、砕け、細かな粉になって床に散っていた。首元の拘束具は、まだ薄く熱を持っている。
レインは膝をついたまま、テオドーラを睨んだ。
「まだ終わってないって、どういう意味だ」
「……言葉の通りです」
「生きてるのか」
「死んでは、…いません」
その言い方は、救いには聞こえなかった。
死んではいない。ただ、それだけ。
助かるとは、言っていない。
レインは奥歯を噛んだ。
「だったら、早く――」
「触らないでください」
テオドーラの声が、わずかに低くなった。
眠そうなまま。
静かなまま。
「説明している時間が惜しいです」
テオドーラは、セリネのそばに膝をついた。
黒く濁った結晶の欠片を、指先で払う。
その動きは、眠そうな女のものではなかった。
慎重で、静かで、迷いがない。
レインはまだ警戒を解かなかった。
「お前、本当にあの白衣の仲間じゃないんだな」
「違います」
「証明しろ」
テオドーラは、セリネの首元に触れかけて、止めた。
「……わたしは、この子を探しに来ました」
「なぜ」
「帰ってこなかったからです」
「どこへ」
「ヴェスペラへ」
その名に、レインの目が細くなる。
セリネが呻いていた言葉。
ヴェ……スペ……。
戻らなきゃ。
それと繋がった。
完全に信用できたわけではない。
だが、少なくともこの女は、セリネを番号では呼ばなかった。
レインは低く言った。
「…助ける気はあるんだな」
「あります」
テオドーラは、自分の指先を噛んだ。
血が滲む。
赤ではない。
黒に近い、深い色だった。
その一滴を、セリネの唇に落とす。
「……睡葬」
声は、祈りにも、寝言にも聞こえた。
セリネの体が、かすかに震える。
砕けかけていた赤黒い欠片が、そのままの形で沈黙する。
テオドーラはまぶたを半分閉じたまま、セリネを見ていた。
「……眠らせました」
後ろに控えていた黒外套の女が、一歩前に出る。
鴉の羽根を模した銀の留め具が、胸元で鈍く光った。
「正確には、今の状態で留めています。動かせば崩れます」
「お前は」
「カレラ=レイヴンハルト。アルケイン家筆頭従者です」
カレラは淡々と名乗った。
声は冷たいが、不思議と敵意はなかった。
「テオドーラ様の処置は、治療ではありません。延命とも少し違います。今は、変化を止めているだけです」
「じゃあ、治せないのか」
レインの声がかすれた。
セリネの白い顔。
黒く砕けた結晶。
首元の記号。
E-07。
その文字が、あの少年の顔と重なる。
妹の手と重なる。
間に合わなかった記憶ばかりが、頭の中で音を立てる。
レインは、息が浅くなっていることに気づいた。
駄目だ。
また駄目なのか。
また、目の前で失うのか。
「治せる人間が必要です」
カレラが言った。
「ロゼノワール家を呼びます。ですが、移動には時間がかかります」
「時間……」
レインはセリネを見る。
時間などないように見えた。
そう思った瞬間、一人の顔が浮かんだ。
白い修道服。
狂った理屈。
笑いながら人の傷に手を伸ばす女。
「……ラヴィ」
ノエルが小さく言った。
レインは顔を上げる。
「そうだ」
「教会」
「ああ」
レインは立ち上がった。
膝が一瞬だけ震えた。
怒りのせいか、焦りのせいか、自分でも分からない。
テオドーラが見上げる。
「どこへ」
「治せる奴を呼んでくる」
「治療者ですか」
「たぶん、一番近くにいる中じゃ一番マシだ」
「たぶん?」
カレラが眉をひそめる。
「腕は確かだ。頭は知らん」
「不安な紹介ですね」
「今はそれしかない」
レインはテオドーラとカレラへ視線を戻す。
「こいつらが敵なら逃げろ」
「たぶん、敵じゃない」
「たぶんで決めるな」
「レインも、たぶんで走ってる」
レインは一瞬、言葉に詰まった。
「……うるせえ」
それだけ言って、出口へ走った。
ゼノックを追いたい。
殴りたい。
叩き伏せたい。
問い詰めたい。
だが、今は違う。
レインは階段を駆け上がる。
白い部屋を背に、旧東三番工房の地下を抜ける。
足元の埃も、薬品の匂いも、古い血の匂いも、全部置き去りにして走る。
今度こそ、間に合わせるために。
白い部屋に、静けさが戻った。
セリネの呼吸は細い。
テオドーラはセリネの額に手を置いたまま、ほとんど動かない。
そのまぶたは、少しずつ落ちかけていた。
「テオドーラ様」
カレラが低く呼ぶ。
「……起きています」
「目が閉じています」
「今、《睡葬》を使われました。ご自分の状態を申告してください」
「……眠いです…とても」
テオドーラは、ほんのわずかに不満そうな顔をした。
ノエルが、じっと二人を見ていた。
「眠いの?」
「……はい」
カレラが横から静かに言った。
「お二人とも、そこは深めなくて結構です」
ノエルはカレラを見る。
「寝たら、この子は?」
「…今は状態をとどめているような状態です。…眠ると…制御が…」
答えたのはテオドーラだった。
「よくない?」
「…場合によりますね」
「じゃあ、起きてて」
「……はい」
テオドーラは小さく息を吐いた。
それでも、セリネから手は離さなかった。
黒に近い血が、まだそこにわずかに残っている。
ノエルは、目を伏せる。
「…ヴェスペラ?」
テオドーラが頷いた。
「ご存じでしたか?」
「この子に強く残ってる…」
「わかるのですか?」
「…聞いたこと、ない」
「小さな公国です」
「どこ」
「黄昏の森の奥」
「黄昏」
「昼と夜の間にある森です」
ノエルは瞬きをした。
ノエルは納得したのか、していないのか分からない顔で頷いた。
カレラが淡々と補う。
「正確には、ヴェスペラ公国へ至る外縁域です。外界から見れば森。こちら側から見れば緩衝地帯です。理解しましたか」
「少し」
「十分です」
テオドーラはセリネの胸の動きを見ている。
「セリネは、そこから来たの?」
ノエルが聞いた。
「はい」
「どうして」
「外を見たかったのだと思います」
「外」
「黄昏の森の外。人の街。王都。昼の中にある場所」
「それで、ここに来た」
「はい」
テオドーラの声は、眠たげなままだった。
だが、そこにわずかな痛みがあった。
「帰る予定でした」
「帰れなかった」
「はい」
ノエルはセリネを見る。
「帰りたがってる」
「はい」
「帰れる?」
テオドーラはすぐには答えなかった。
白い部屋の空気が、少しだけ重くなる。
「分かりません」
「分からないこと、多い」
「はい」
「でも、やる?」
「やります」
「どうして」
テオドーラは目を閉じた。
眠ってしまったのかと思うほど、長い間だった。
けれど、声は返ってきた。
「この子が、帰りたがっているので」
ノエルは黙った。
その答えは、説明よりも分かりやすかった。
「カレラ」
テオドーラが呼ぶ。
「はい」
「ノアに」
「ファルケンリート家ですね」
「……ロゼノワールにも」
「承知しました」
カレラは右手を上げた。
空中に黒い線を描く。
線は羽根の形になった。
一枚、二枚、三枚。
鴉の羽根のような術式が、白い部屋の空気に浮かぶ。
「鴉羽の網」
羽根が音もなくほどけた。
細い声だけを、遠くへ運ぶように。
「ファルケンリート家へ。緊急連絡」
黒い羽根が震える。
少し間があった。
それから、軽い声が返ってきた。
『はいはい、夜の迷子相談窓口だよ。どちら様?』
カレラは眉をひそめた。
「カレラ=レイヴンハルトです」
『その声、アルケインの従者ちゃん? 珍しいね。テオドーラ起きてる?』
「起きていらっしゃいます」
『え、緊急じゃん』
軽い声の温度が、ほんの少し変わった。
『何があった?』
テオドーラが、セリネの額に手を置いたまま言った。
「……セリネを見つけました」
向こうが沈黙した。
一拍だけ。
『状態は?』
「悪いです」
『生きてる?』
「まだ」
カレラが続ける。
「対象は移動困難。現場保持が必要です。場所は王都第5環東、旧東三番工房地下」
『了解。ロゼノワールに投げる。ボクも向かう』
「到着見込みは」
『黄昏の森側の中継印から出る。少しかかる』
「急いでください」
『急ぐよ。夜は短いからね』
黒い羽根がほどけ、通信が切れた。
カレラは息を吐かず、すぐに次の羽根を描いた。
「ロゼノワール家へも送ります」
「……お願い」
「はい」
テオドーラのまぶたが、また落ちかける。
「テオドーラ様」
「……起きています」
ノエルが、じっとそのやり取りを見ていた。
「仲いい?」
カレラの手が一瞬止まった。
「職務上、必要な関係です」
「仲いいんだ」
テオドーラが小さく呟く。
「……カレラは、いつも起きています」
「テオドーラ様がいつも寝ているからです」
「頼りにしています」
「寝言として処理します」
「ひどい」
ノエルは少しだけ首を傾げた。
その頃。
旧東三番工房の地下通路を、セシルとフィアは走っていた。
ゼノックの姿は見えない。
だが、遠くに白い影が揺れた気がした。
「右!」
フィアが叫ぶ。
セシルは反射的に右へ光刃を放った。
白い光が通路を裂く。
だが、そこに人はいなかった。
切れたのは、薄い白布だけだった。
「囮!」
フィアが目元を押さえる。
「流れがばらばら。増やされてる」
「追えますか」
「少しなら」
フィアは息を吸った。
ミラは呼ばない。
今は、余計な光を増やすより、自分の目を信じた方がいい。
視界の端で、魔素の流れが細かく裂けている。
ゼノックが何かをしたのだろう。魔道具か、術式か。判別はできない。
「こっち!」
フィアが走る。
「無理はしないでください」
角を曲がった瞬間、通路の奥でゼノックが振り返った。
距離はある。
だが、表情は見えた。
焦りはない。
ゼノックは小さな金属片を床に落とした。
セシルが叫ぶ。
「伏せて!」
金属片が割れる。
音が消えた。
一瞬、世界から音だけが抜き取られたように、耳が真っ白になる。
フィアの足がもつれた。
「っ……!」
セシルが左手でフィアの腕を掴む。
右腕が使えない。支えきれず、二人とも壁にぶつかった。
音が戻る。
遅れて、轟音が来た。
通路の天井が一部崩れる。
石と木材と古い配管が、二人とゼノックの間を塞いだ。
「くそっ!」
フィアが雷を放つ。
瓦礫の一部が弾ける。
だが、奥の白い影は、すでに遠い。
ゼノックの声だけが、通路の奥から届いた。
「追跡反応は良好。ですが、視覚と魔素痕跡に依存しすぎです」
「こいつ……!」
「逃げながら採点してんじゃないわよ!」
フィアがもう一度雷を放とうとする。
セシルが止めた。
「待ってください。崩れます」
「でも!」
「危険です!」
フィアは歯を食いしばった。
ゼノックの足音はもう聞こえない。
魔素の流れも、ぐちゃぐちゃに散っていた。
「……逃げられた」
「はい」
セシルは瓦礫の向こうを睨む。
「ですが、収穫もありました」
「何か拾った?」
「外套の布片と、金属片の欠片を」
「やるじゃん」
フィアは一度だけ、瓦礫の奥を見た。
白衣の男はもういない。
二人は来た道を戻り始めた。
カレラが黒い羽根を閉じる。
「治療班は、ノア様の到着後に合流するとのことです」
「……分かりました」
テオドーラの声は、さっきよりさらに薄い。
ノエルがその顔を見る。
テオドーラは、眠りかけた声で答えた。
「帰ります」
セリネには、聞こえていないかもしれない。
それでも、テオドーラは答えた。
ノエルはその横顔を見ていた。
「帰れるか、分からないって言った」
「はい」
「でも、帰るって言った」
「今は、その方がいいです」
「嘘?」
「決意表明です」
「守れる?」
「守るために、動いています」
ノエルは少しだけ黙った。
「そう」
白い部屋の奥で、黒い結晶の粉が静かに沈んでいく。
セリネの呼吸は、まだ細い。
けれど、消えてはいない。
旧東三番工房の外では、夕暮れが王都第5環東の屋根に触れ始めていた。
暮色は、四方から迫っている。
その奥で、白い部屋だけが、まだ夜に落ちきらずに留められていた。




