表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/23

EP4 暮色四合 第17話 旧東三番工房

 扉の向こうは、暗かった。

 外はまだ昼の名残を残している。第5環東の通りにも、鈍い光は落ちていた。だが、旧東三番工房の中だけは、日が届いていなかった。

 埃。

 薬品。

 焦げた木材。

 そして、古い血の匂い。

 その全部が、閉じ込められていた空気と一緒に、外へ流れてくる。

 レインは剣の柄に手をかけたまま、半歩だけ中へ入った。

「暗いな」

「窓が塞がれています」

 セシルが低い声で言う。

 工房の窓は、内側から板で打ちつけられていた。外から見た時には古い廃屋にしか見えなかったが、中から見ると、明らかに“光を入れない”ための処置だった。

 ただ放置された建物ではない。

 誰かが、使っていた。

「足元、気をつけて」

 フィアが言った。

 肩のそばに、淡い光の粒が浮かんでいる。

「ミラ」

 フィアが短く呼ぶ。

 光の粒が、返事のように瞬いた。

 それは灯りというほど明るくはない。だが、真っ暗な工房の中では、薄い輪郭を拾うには十分だった。

 床には割れた瓶、黒ずんだ布、錆びた工具が散らばっている。壁には古い棚があり、空の薬瓶や、変色した紙束が押し込まれていた。

 セシルが左手で地図を畳み、腰の剣に手を添える。

 ノエルは黙っていた。

 工房の入口で立ち止まり、床の一点を見ている。

「ノエル」

「……うん」

「何かあるのか」

「ここ、通ってる」

「誰が」

「分からない」

 ノエルはゆっくり首を横に振った。

「でも、何度も」

 レインは床を見る。

 埃は均一ではない。入口から奥へ向かって、細い道のように埃が薄くなっている。最近、人が通った跡だ。

 ノエルが言うまでもなく見れば分かる。

 だが、彼女が見ているのは、それだけではないのだろう。

「こっち」

 フィアが小さく言った。

 光彩が薄く浮かんでいる。

 彼女の目は工房の奥ではなく、床の下を見ているようだった。

「流れが下に落ちてる。変な感じ。床に穴があるっていうより……下に引っ張られてるみたい」

 ミラが、ふる、と震えた。

 フィアは肩越しにそれを見る。

 工房の一階は、思ったより広かった。

 元は薬品加工場だったのだろう。中央には大きな作業台が三つ並び、壁際には棚と配管がある。天井には滑車が残り、上階へ荷を上げる仕組みがあったらしい。

 だが、今は別の目的で使われていた。

 作業台の上に、子ども用の小さな杯があった。

 乾いた菓子の欠片。

 薬包紙。

 小さな布切れ。

 ノエルが、その布切れを見つめる。

「触るなよ」

「……触らない」

 ノエルは少しだけ手を伸ばして、止めた。

 セシルが作業台を見る。

「痕跡も処理しようとしているのかもしれません」

「用意周到だな」

「はい」

 レインは作業台を見た。

 ここに子どもが座っていたのか。

 菓子を食べていたのか。

 

想像するだけで、胸の奥がざらついた。

 フィアが棚の一つを開く。

「薬草、瓶、包帯……」

 フィアは瓶のラベルを読む。

「鎮静、発熱、痛み止め……でも、空瓶が多い。しかも、同じ種類ばっかり減ってる」

 セシルがその棚を調べる。

「施療院で扱う薬と似ています」

 セシルは即答したが、少しだけ苦い顔をした。

 フィアが棚の奥から、紙束を引き抜いた。

「これ、見て」

 紙は湿気を吸って波打っていた。

 上部には数字と記号が並んでいる。

 E-03。

 E-05。

 E-07。

 名前はない。

 年齢らしき数字。

 反応。

 薬量。

 経過。

 記号。

 空欄。

 レインはその紙を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。

「……番号かよ」

「人の名前ではありませんね」

 セシルの声が低くなる。

 ノエルが紙を見ている。

 表情は変わらない。

 だが、目だけが少し暗い。

「これ、嫌」

ノエルは短く言った。紙束をめくる。

「E-07の記録が多い」

 セシルが紙を確認する。

「三日前以降の記録があります。つまり、この場所は最近まで使用されていた」

「今は?」

「放棄した可能性もあります。ですが、魔道具の罠が残っている以上、完全に捨てたとは言えません」

 レインは奥を見る。

 一階には、まだ部屋がいくつかある。

 だが、空気の重さは奥へ行くほど増している。

 ノエルが突然、作業台の下を見た。

「そこ」

「何だ」

「落ちてる」

 レインが膝をつく。

 作業台の影に、小さな木片が落ちていた。

 人形の腕だった。

 古い安物の木製人形。片腕だけ。

 子どもの玩具だ。

 レインは歯を噛みしめた。

 セシルが静かに目を閉じる。

 フィアは笑わなかった。

 ミラだけが、ふるりと淡く瞬いた。

「行くぞ」

 レインは言った。

 声が低くなっているのが、自分でも分かった。

 奥の部屋へ進む。

 そこは、資料室のようだった。

 壁際に棚が並び、古い帳簿や器具、空になった小箱が置かれている。ただし、棚のいくつかは最近荒らされた形跡があった。大事なものを持ち出した後、残りを雑に捨てたような乱れ方だった。

「撤収したのか」

「おそらく」

 セシルが棚を見る。

「しかし、すべてではありません。急いでいた可能性があります」

「誰かが近づいてると気づいた?」

 フィアが言う。

「あるいは、実験が次の段階へ移ったか」

 セシルの言葉に、空気が沈んだ。

 資料室の机には、封蝋の欠片が落ちていた。

 白に近い淡い蝋。

 そこに、半分だけ崩れた印が残っている。

 セシルがそれを拾い上げる。

「教会のものか」

「……似ています」

「似てる?」

「正式な中央印ではありません。ですが、教会区の内部文書に使われる印に近い」

「誰が使える」

「一定以上の管理権限を持つ者です」

「見習いや下働きじゃ無理か」

「無理です」

 レインは短く息を吐いた。

 ここまで来れば、もう偶然ではない。

 白衣の男。

 配給所の記録欠落。

 教会印に似た封蝋。

 施療所系の薬草。

 鎮静薬。

 番号だけの記録。

 誰が。

 どこまで。

 何のために。

「これ、燃やしかけてる」

 フィアが机の下から黒く焦げた紙片を拾った。

 半分以上焼けている。

 文字はわずかに読める。

 ――反応良好。

 ――血液中の魔素濃度、上昇。

 ――E-07、安定せず。

 ――外部刺激により……

 そこから先は焼けていた。

「血液中の魔素濃度?」

 フィアが眉を寄せる。

「医療記録か?」

「医療記録にしては、言い方が変です」

 セシルが紙片を見る。

「血液中の魔素濃度を測ること自体は、特殊な研究施設ならあり得ます。」

「研究施設でもないだろ、ここ」

「はい」

 レインは周囲を見た。

 薄暗い廃工房。

 隠された地下。

 子どもを連れてきた痕跡。

「胸糞悪いな」

「同意します」

 セシルの声は静かだった。

 だが、いつもより少しだけ硬い。

 ノエルが奥の床へ向かった。

 今度はレインも止めなかった。

 床板の一部が、他より新しい。

 上から薄く埃を被せてあるが、よく見れば分かる。最近、動かされている。

 セシルが膝をつき、床板の隙間を確認する。

「地下への入口です」

「なら俺が壊す」

「待ってください」

 セシルは左手だけで慎重に留め具を探る。

 その間、下から音が聞こえた。

 金属が擦れる音。

 鎖の音。

 かすかな呼吸のようなもの。

 ノエルが、ぽつりと言った。

「いる」

「誰が」

「分からない」

 彼女は地下への暗い隙間を見つめている。

「でも、まだ」

「まだ?」

「まだ、消えてない」

 レインはその言葉の意味を考えなかった。

 考えるより先に、体が動いていた。

「開けるぞ」

 セシルが頷く。

 床板を持ち上げる。

 下へ続く階段が現れた。

 その階段の下から、冷たい空気が上がってくる。

 埃と薬品と、古い血の匂い。

 そして、それとは別の、もっと生々しい何か。

 レインは一段目に足をかけた。

「レインさん」

 セシルが呼ぶ。

「何だ」

「下に何がいても、まず確認を」

「分かってる」

 ノエルが階段の闇を見る。

「怖い」

 その声は、いつも通り淡々としていた。

 だからこそ、嫌だった。

 レインは剣を抜いたまま、地下へ降りる。

 一段。

 二段。

 三段。

 上の工房の光が遠ざかる。

 階段の先に、細い通路が見えた。

 壁には、古い管が走っている。ところどころ破れ、黒い染みが浮かんでいる。床には引きずったような跡が残っていた。

 そして、その奥。

 鉄の扉があった。

 新しい鍵がかかっている。

 扉の向こうから、鎖が鳴った。

 小さく。

 だが、確かに。

 レインは息を止めた。

 誰かがいる。

 まだ、生きているかもしれない。

「開ける」

 声が、低く落ちた。

 夕暮れには、まだ早い。

 けれど旧東三番工房の地下には、もう夜より暗いものが満ちていた。



王都第5環東のさらに外縁、廃工房区画から少し離れた路地で、一人の女が壁にもたれていた。

 藍のドレス。

 肩から垂れる薄い外套。

 銀糸のような髪は、眠るように伏せられた顔の横へ流れている。

 テオドーラ=アルケインは、半分眠っていた。

「テオドーラ様」

隣に控えていた女が、低く声をかけた。

黒い外套に、銀の留め具。

鴉の羽根を模した小さな飾りが、胸元で揺れている。

カレラ=レイヴンハルト。

アルケイン家の筆頭従者にして、封務書記官。

主人が眠っている間も、彼女だけは眠らない。

「この区画で間違いありませんか」

「……間違いでは、ありません」

 テオドーラは目を閉じたまま答えた。

「最後の連絡場所から、半径三キロ以内を…優先的に調査することと…ぐぅ…」

「あの…目が閉じていますが」

「……感じています」

「何をですか」

「……流れの、微かな乱れを」

 そこで、小さな欠伸が挟まった。

 従者は沈黙した。

「それが、あの子ですか」

「……分かりません」

 テオドーラは壁にもたれたまま、ほんの少しだけ首を傾ける。

「でも」

 言葉が途切れる。

 眠ったのかと思うほどの間があった。

 その鼻先に、小さな泡のようなものが膨らみかける。

「テオドーラ様」

「……起きています」

「今、完全に寝ていました」

「仮眠です」

「立ったままですが」

「……調査中の短時間休息は許容されています」

「本当ですか」

「必要なら、帰ってから規約…作りま…す」

 カレラは額を押さえた。

 テオドーラは、ようやく薄く目を開けた。

頬には、うっすらよだれの跡があった。

 眠たげな瞳が、廃工房区画の奥へ向く。

 そこには、古い煙突が並んでいた。

 昼の光を受けてもなお、黒く沈んで見える一角。

「……気になります」

 先ほどまでの寝言のような声とは、少しだけ違っていた。

 従者が姿勢を正す。

「あの子の痕跡ですか」

「違うかもしれません」

 小さな欠伸。

「確認しますか」

「……します」

 テオドーラは壁から背を離そうとして、少しだけ止まった。

「テオドーラ様?」

「……あと十秒」

「寝る気ですね」

「違います」

 テオドーラは目を閉じたまま、静かに言った。

「これは、調査前の集中です」

「鼻ちょうちんが出ています」

「……規定では」

「それは規定ではどうにもなりません」

 廃工房区画の奥。

 旧東三番工房の地下で、古い鉄扉が開かれようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ