EP4 暮色四合 第17話 旧東三番工房
扉の向こうは、暗かった。
外はまだ昼の名残を残している。第5環東の通りにも、鈍い光は落ちていた。だが、旧東三番工房の中だけは、日が届いていなかった。
埃。
薬品。
焦げた木材。
そして、古い血の匂い。
その全部が、閉じ込められていた空気と一緒に、外へ流れてくる。
レインは剣の柄に手をかけたまま、半歩だけ中へ入った。
「暗いな」
「窓が塞がれています」
セシルが低い声で言う。
工房の窓は、内側から板で打ちつけられていた。外から見た時には古い廃屋にしか見えなかったが、中から見ると、明らかに“光を入れない”ための処置だった。
ただ放置された建物ではない。
誰かが、使っていた。
「足元、気をつけて」
フィアが言った。
肩のそばに、淡い光の粒が浮かんでいる。
「ミラ」
フィアが短く呼ぶ。
光の粒が、返事のように瞬いた。
それは灯りというほど明るくはない。だが、真っ暗な工房の中では、薄い輪郭を拾うには十分だった。
床には割れた瓶、黒ずんだ布、錆びた工具が散らばっている。壁には古い棚があり、空の薬瓶や、変色した紙束が押し込まれていた。
セシルが左手で地図を畳み、腰の剣に手を添える。
ノエルは黙っていた。
工房の入口で立ち止まり、床の一点を見ている。
「ノエル」
「……うん」
「何かあるのか」
「ここ、通ってる」
「誰が」
「分からない」
ノエルはゆっくり首を横に振った。
「でも、何度も」
レインは床を見る。
埃は均一ではない。入口から奥へ向かって、細い道のように埃が薄くなっている。最近、人が通った跡だ。
ノエルが言うまでもなく見れば分かる。
だが、彼女が見ているのは、それだけではないのだろう。
「こっち」
フィアが小さく言った。
光彩が薄く浮かんでいる。
彼女の目は工房の奥ではなく、床の下を見ているようだった。
「流れが下に落ちてる。変な感じ。床に穴があるっていうより……下に引っ張られてるみたい」
ミラが、ふる、と震えた。
フィアは肩越しにそれを見る。
工房の一階は、思ったより広かった。
元は薬品加工場だったのだろう。中央には大きな作業台が三つ並び、壁際には棚と配管がある。天井には滑車が残り、上階へ荷を上げる仕組みがあったらしい。
だが、今は別の目的で使われていた。
作業台の上に、子ども用の小さな杯があった。
乾いた菓子の欠片。
薬包紙。
小さな布切れ。
ノエルが、その布切れを見つめる。
「触るなよ」
「……触らない」
ノエルは少しだけ手を伸ばして、止めた。
セシルが作業台を見る。
「痕跡も処理しようとしているのかもしれません」
「用意周到だな」
「はい」
レインは作業台を見た。
ここに子どもが座っていたのか。
菓子を食べていたのか。
想像するだけで、胸の奥がざらついた。
フィアが棚の一つを開く。
「薬草、瓶、包帯……」
フィアは瓶のラベルを読む。
「鎮静、発熱、痛み止め……でも、空瓶が多い。しかも、同じ種類ばっかり減ってる」
セシルがその棚を調べる。
「施療院で扱う薬と似ています」
セシルは即答したが、少しだけ苦い顔をした。
フィアが棚の奥から、紙束を引き抜いた。
「これ、見て」
紙は湿気を吸って波打っていた。
上部には数字と記号が並んでいる。
E-03。
E-05。
E-07。
名前はない。
年齢らしき数字。
反応。
薬量。
経過。
記号。
空欄。
レインはその紙を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「……番号かよ」
「人の名前ではありませんね」
セシルの声が低くなる。
ノエルが紙を見ている。
表情は変わらない。
だが、目だけが少し暗い。
「これ、嫌」
ノエルは短く言った。紙束をめくる。
「E-07の記録が多い」
セシルが紙を確認する。
「三日前以降の記録があります。つまり、この場所は最近まで使用されていた」
「今は?」
「放棄した可能性もあります。ですが、魔道具の罠が残っている以上、完全に捨てたとは言えません」
レインは奥を見る。
一階には、まだ部屋がいくつかある。
だが、空気の重さは奥へ行くほど増している。
ノエルが突然、作業台の下を見た。
「そこ」
「何だ」
「落ちてる」
レインが膝をつく。
作業台の影に、小さな木片が落ちていた。
人形の腕だった。
古い安物の木製人形。片腕だけ。
子どもの玩具だ。
レインは歯を噛みしめた。
セシルが静かに目を閉じる。
フィアは笑わなかった。
ミラだけが、ふるりと淡く瞬いた。
「行くぞ」
レインは言った。
声が低くなっているのが、自分でも分かった。
奥の部屋へ進む。
そこは、資料室のようだった。
壁際に棚が並び、古い帳簿や器具、空になった小箱が置かれている。ただし、棚のいくつかは最近荒らされた形跡があった。大事なものを持ち出した後、残りを雑に捨てたような乱れ方だった。
「撤収したのか」
「おそらく」
セシルが棚を見る。
「しかし、すべてではありません。急いでいた可能性があります」
「誰かが近づいてると気づいた?」
フィアが言う。
「あるいは、実験が次の段階へ移ったか」
セシルの言葉に、空気が沈んだ。
資料室の机には、封蝋の欠片が落ちていた。
白に近い淡い蝋。
そこに、半分だけ崩れた印が残っている。
セシルがそれを拾い上げる。
「教会のものか」
「……似ています」
「似てる?」
「正式な中央印ではありません。ですが、教会区の内部文書に使われる印に近い」
「誰が使える」
「一定以上の管理権限を持つ者です」
「見習いや下働きじゃ無理か」
「無理です」
レインは短く息を吐いた。
ここまで来れば、もう偶然ではない。
白衣の男。
配給所の記録欠落。
教会印に似た封蝋。
施療所系の薬草。
鎮静薬。
番号だけの記録。
誰が。
どこまで。
何のために。
「これ、燃やしかけてる」
フィアが机の下から黒く焦げた紙片を拾った。
半分以上焼けている。
文字はわずかに読める。
――反応良好。
――血液中の魔素濃度、上昇。
――E-07、安定せず。
――外部刺激により……
そこから先は焼けていた。
「血液中の魔素濃度?」
フィアが眉を寄せる。
「医療記録か?」
「医療記録にしては、言い方が変です」
セシルが紙片を見る。
「血液中の魔素濃度を測ること自体は、特殊な研究施設ならあり得ます。」
「研究施設でもないだろ、ここ」
「はい」
レインは周囲を見た。
薄暗い廃工房。
隠された地下。
子どもを連れてきた痕跡。
「胸糞悪いな」
「同意します」
セシルの声は静かだった。
だが、いつもより少しだけ硬い。
ノエルが奥の床へ向かった。
今度はレインも止めなかった。
床板の一部が、他より新しい。
上から薄く埃を被せてあるが、よく見れば分かる。最近、動かされている。
セシルが膝をつき、床板の隙間を確認する。
「地下への入口です」
「なら俺が壊す」
「待ってください」
セシルは左手だけで慎重に留め具を探る。
その間、下から音が聞こえた。
金属が擦れる音。
鎖の音。
かすかな呼吸のようなもの。
ノエルが、ぽつりと言った。
「いる」
「誰が」
「分からない」
彼女は地下への暗い隙間を見つめている。
「でも、まだ」
「まだ?」
「まだ、消えてない」
レインはその言葉の意味を考えなかった。
考えるより先に、体が動いていた。
「開けるぞ」
セシルが頷く。
床板を持ち上げる。
下へ続く階段が現れた。
その階段の下から、冷たい空気が上がってくる。
埃と薬品と、古い血の匂い。
そして、それとは別の、もっと生々しい何か。
レインは一段目に足をかけた。
「レインさん」
セシルが呼ぶ。
「何だ」
「下に何がいても、まず確認を」
「分かってる」
ノエルが階段の闇を見る。
「怖い」
その声は、いつも通り淡々としていた。
だからこそ、嫌だった。
レインは剣を抜いたまま、地下へ降りる。
一段。
二段。
三段。
上の工房の光が遠ざかる。
階段の先に、細い通路が見えた。
壁には、古い管が走っている。ところどころ破れ、黒い染みが浮かんでいる。床には引きずったような跡が残っていた。
そして、その奥。
鉄の扉があった。
新しい鍵がかかっている。
扉の向こうから、鎖が鳴った。
小さく。
だが、確かに。
レインは息を止めた。
誰かがいる。
まだ、生きているかもしれない。
「開ける」
声が、低く落ちた。
夕暮れには、まだ早い。
けれど旧東三番工房の地下には、もう夜より暗いものが満ちていた。
王都第5環東のさらに外縁、廃工房区画から少し離れた路地で、一人の女が壁にもたれていた。
藍のドレス。
肩から垂れる薄い外套。
銀糸のような髪は、眠るように伏せられた顔の横へ流れている。
テオドーラ=アルケインは、半分眠っていた。
「テオドーラ様」
隣に控えていた女が、低く声をかけた。
黒い外套に、銀の留め具。
鴉の羽根を模した小さな飾りが、胸元で揺れている。
カレラ=レイヴンハルト。
アルケイン家の筆頭従者にして、封務書記官。
主人が眠っている間も、彼女だけは眠らない。
「この区画で間違いありませんか」
「……間違いでは、ありません」
テオドーラは目を閉じたまま答えた。
「最後の連絡場所から、半径三キロ以内を…優先的に調査することと…ぐぅ…」
「あの…目が閉じていますが」
「……感じています」
「何をですか」
「……流れの、微かな乱れを」
そこで、小さな欠伸が挟まった。
従者は沈黙した。
「それが、あの子ですか」
「……分かりません」
テオドーラは壁にもたれたまま、ほんの少しだけ首を傾ける。
「でも」
言葉が途切れる。
眠ったのかと思うほどの間があった。
その鼻先に、小さな泡のようなものが膨らみかける。
「テオドーラ様」
「……起きています」
「今、完全に寝ていました」
「仮眠です」
「立ったままですが」
「……調査中の短時間休息は許容されています」
「本当ですか」
「必要なら、帰ってから規約…作りま…す」
カレラは額を押さえた。
テオドーラは、ようやく薄く目を開けた。
頬には、うっすらよだれの跡があった。
眠たげな瞳が、廃工房区画の奥へ向く。
そこには、古い煙突が並んでいた。
昼の光を受けてもなお、黒く沈んで見える一角。
「……気になります」
先ほどまでの寝言のような声とは、少しだけ違っていた。
従者が姿勢を正す。
「あの子の痕跡ですか」
「違うかもしれません」
小さな欠伸。
「確認しますか」
「……します」
テオドーラは壁から背を離そうとして、少しだけ止まった。
「テオドーラ様?」
「……あと十秒」
「寝る気ですね」
「違います」
テオドーラは目を閉じたまま、静かに言った。
「これは、調査前の集中です」
「鼻ちょうちんが出ています」
「……規定では」
「それは規定ではどうにもなりません」
廃工房区画の奥。
旧東三番工房の地下で、古い鉄扉が開かれようとしていた。




