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EP4暮色四合 第16.5話 幕間 縫う

いつもの幕間です。読んでいただかなくても、ただちに本編に影響はありません。キャラの解像度を上げていただくための物語です。面倒な方は飛ばしていただいて大丈夫です。物語世界のキャラに少しでも愛着を持っていただければ、と思っています。

王都中心部の教会は、昼でも静かだった。

 大聖堂ほど荘厳ではない。けれど、古い石造りの礼拝堂には、人の声を自然と小さくさせるだけの重みがある。高窓から差し込む光は、白い床石の上に細く落ち、祈りのために並べられた長椅子の影を、ゆっくりと伸ばしていた。

 祈る者は少ない。

 この時間、教会の多くは施療や配給、孤児たちの世話に回っている。礼拝堂は、いわば空白の時間を迎えていた。

 ラヴィニエは、その空白の中にいた。

 白い修道服の右袖は、固定された腕に合わせて少しだけ形を崩している。脇腹の包帯は衣服の下に隠れているが、呼吸を深くすると、まだ鈍い痛みが走った。

 動けないほどではない。

 だが、動いていいほどでもない。

「……レインさんの言うことにも、一理ありましたね」

 誰に聞かせるでもなく、ラヴィニエは呟いた。

 祭壇の前に立ち、左手だけで燭台の位置を直す。

 右手が使えないだけで、些細なことが面倒になる。燭台を持つ。布を整える。本を閉じる。扉を押す。普段なら意識もしない動作の一つひとつが、妙に遅くなる。

 不自由だった。

 だが、不自由で済んでいる。

 そう思えば、文句を言うべきではないのだろう。

 あの場で自分が倒れなかったこと。

 セシルが生きていること。

 レインたちが歩いていること。

 ノエルが、まだこちらを見てくれること。

 それだけで、十分に祈りの理由になる。

 ラヴィニエは小さく息を吐いた。

「とはいえ、置いていかれる側というのも、なかなか落ち着きませんね」

「置いていかれたのですか?」

 背後から声がした。

 柔らかい声だった。

 ラヴィニエは振り返る。

 礼拝堂の入口に、アリアが立っていた。

 白い見習い修道服。薄い栗色の髪。目元が隠れている。控えめな笑み。両手には、小さな薬箱と清潔な布が抱えられている。

 どこにでもいる、真面目で気の利く見習い修道女。

 そう見える。

 少なくとも、初めて見た者なら、そう思うだろう。

「アリアさん」

「はい。包帯の確認に参りました」

「先ほど替えたばかりですよ」

「はい」

「では、なぜ?」

「気になりましたので」

 アリアは静かに近づいてくる。

 「お姉さま、痛みを隠すのがお上手です」

「そうですか?」

「はい。笑う時、右側の呼吸だけ少し浅くなります」

「よく見ていますね」

「見ています」

 アリアは即答した。

 その言い方が、少しだけ奇妙だった。

 見ています。

 まるで、それが祈りよりも確かな行為であるかのように。

 ラヴィニエは微笑んだ。

「では、見られている者としては、恥ずかしくないようにしておきませんと」

「恥ずかしいのですか?」

「ええ。わたしにも、一応羞恥心はありますよ」

「そうなのですね」

「そこは疑わないでください」

 アリアはほんの少しだけ首を傾げた。

「でも、お姉さまは、痛みを恥ずかしいものとは思っていない気がします」

「おや」

「痛いことを、祈りにしてしまう方です」

 礼拝堂に、静かな間が落ちた。

 ラヴィニエは笑みを崩さない。

「わたしは、そんなに分かりやすいですか?」

「はい」

「困りましたね」

「困るのですか?」

「ええ。底が浅いと思われるのは、少し困ります」

「浅くはありません」

 アリアはゆっくりと言った。

「深いです。だから、傷が見えにくい」

 その声は、あまりに自然だった。

 優しさにも聞こえる。

 心配にも聞こえる。

 けれど、ラヴィニエは少しだけ違うものを感じた。

 アリアは、ラヴィニエの心を見ているのではない。

 傷を見ている。

 身体の傷だけではない。

 痛みのありか。

 裂け目の向き。

 癒えきらない部分。

 そこを、まっすぐに見ている。

「アリアさん」

「はい」

「あなたは、傷が好きですか?」

 アリアの足が止まった。

 本当にわずかな間だった。

 だが、止まった。

「嫌いです」

 アリアは答えた。

「傷は、痛いので」

「そうですね」

「でも」

 アリアは薬箱を長椅子に置いた。

「傷は、正直です」

「正直?」

「はい。痛いところを、隠しきれません。塞がっても、形が残ります。治ったふりをしても、触れば分かります」

「怖いことを言いますね」

「怖いですか?」

「ええ。少し」

 ラヴィニエは穏やかに言った。

 アリアは、なぜか嬉しそうでも悲しそうでもない顔をした。

「ごめんなさい」

「謝るほどではありませんよ」

「でも、怖がらせてしまいました」

「怖いことと、嫌なことは別です」

「そうなのですか?」

「そうですよ」

 ラヴィニエは祭壇の方へ視線を移した。

「祈りも、時々怖いものです」

「祈りが?」

「ええ。誰かを救いたいという願いは、とても美しい。ですが、時にそれは、相手の形を変えてでも救いたいという欲になります」

「形を変えてでも」

「はい」

 ラヴィニエは微笑む。

「わたしは、そういう祈りを否定しきれません」

 アリアは黙っていた。

 その沈黙は、理解できない者の沈黙ではなかった。

 むしろ、言葉を選んでいる沈黙だった。

「お姉さまは、優しいのですね」

「そう見えますか?」

「はい」

「では、まだまだですね」

 アリアは少しだけ考え込むように目を伏せた。

彼女は、ラヴィニエの言葉を奇妙なものとして退けない。

 ただ、受け取る。

 形を確かめる。

 針の先で布目を拾うように。

「祈りは、縫えるのでしょうか」

 アリアが言った。

「縫う?」

「はい。裂けたところを合わせるように。痛みの流れを、ほどけないように」

 ラヴィニエはアリアを見た。

 アリアは薬箱を開ける。

 中には清潔な包帯と、小瓶に入った軟膏、そして小さな銀の針入れがあった。

 見習いが持つには、少し古い。

 少し上等すぎる。

 そして、少しだけ、祈具に似ていた。

「また、それですか」

「はい」

「わたしの傷を縫いたいのですか?」

「必要なら」

「皮膚は塞がっていますよ」

「皮膚ではありません」

 アリアは針入れに指を添える。

「痛みが、少しほつれています」

 礼拝堂の空気が、細く張った。

 ラヴィニエは笑みを消さない。

 けれど、目だけはアリアから離さなかった。

「アリアさん」

「はい」

「誰に、それを教わりました?」

「分かりません」

「分からない?」

「はい。気づいたら、できました」

 アリアは針入れを見下ろした。

「使わない方がいいのでしょうか」

「それは場合によります」

「場合」

「誰のために使うのか。何を救うのか。救ったあと、その人がその人のままでいられるのか」

 アリアは顔を上げた。

「その人のまま」

「はい」

 ラヴィニエは左手で、自分の胸元に触れた。

「傷が消えたとしても、その人が別の何かに縫い替えられてしまうなら、それは治療ではなく、別の儀式です」

「別の儀式」

「ええ」

「では、お姉さまは」

 アリアは静かに問う。

「お姉さまは、傷が残っても、その人のままの方がいいのですか?」

 ラヴィニエは少しだけ間を置いた。

 高窓から落ちる光が、床石の上で細く震えている。

「難しいですね」

「難しいのですか?」

「ええ」

 ラヴィニエは微笑んだ。

「わたしは、救えるなら救いたい。壊れているなら直したい。泣いているなら、泣かなくて済むようにしたい」

「はい」

「でも、痛みがその人を形作っていることもある」

 アリアは黙って聞いている。

「なら、その痛みを消すことは、救いなのか。奪うことなのか」

「……分かりません」

「わたしも、まだ分かりません」

「お姉さまにも、分からないことがあるのですね」

「たくさんありますよ」

「そうは見えません」

「見えないようにしていますから」

 アリアは、そこで初めて少しだけ笑った。

 幼い笑みだった。

 だが、幼さの奥に、妙に冷えたものがあった。

「では、今日は縫いません」

「ありがとうございます」

「でも」

 アリアは針入れを閉じる。

「ほつれは、そのままにしておくと広がります」

「そうですね」

「広がったら、呼んでください」

「誰を?」

「わたしを」

 ラヴィニエは目を細めた。

「随分と頼もしいですね」

「はい」

「自信がありますか?」

「あります」

「何に?」

 アリアは少しだけ首を傾げた。

「縫うことに」

 静かな声だった。

 自慢でも、誇りでもない。

 ただ、事実を述べている声。

 ラヴィニエは思った。

 この子は、善い子だ。

 おそらく本当に、誰かを傷つけたいわけではない。

 誰かの苦しみを見て笑うような子でもない。

 ただ、痛みを見ている。

 痛みを形として見ている。

 裂け目を裂け目として見ている。

 そして、裂けたものは縫うべきだと、ほとんど疑っていない。

 だから怖い。

「アリアさん」

「はい」

「今日、わたしの仲間たちが東へ向かいました」

「第5環東ですか」

 ラヴィニエは、わずかに反応した。

「……なぜ、そう思いました?」

「東の配給所で、人が消えたと聞きました」

「誰から?」

「配給を手伝っていた子が、話していました」

「そうですか」

 アリアはラヴィニエを見ている。

 今度は傷ではなく、顔を。

「お姉さまは、行きたかったのですね」

「ええ」

「でも、行かなかった」

「止められましたので」

「素直ですね」

「珍しいでしょう?」

「はい」

「そこは少し否定してもよいのですよ」

「すみません」

 アリアは本当に申し訳なさそうに頭を下げた。

 その仕草は、やはり普通の見習い修道女だった。

「皆さんは、帰ってきますか?」

 アリアが問う。

 ラヴィニエは少しだけ祭壇を見る。

「帰ってきますよ」

「本当に?」

「はい」

「なぜ分かるのですか?」

「祈っていますから」

「祈ると、帰ってくるのですか?」

「帰ってきてほしいと思うことはできます」

「それだけ?」

「それだけです」

 アリアは不思議そうにした。

「それは、弱いですね」

「はい。とても」

 ラヴィニエは笑う。

「祈りは弱いのです。だから、人は何度も祈ります」

「何度も」

「ええ。弱いものを、弱いまま重ねるのです」

 アリアはしばらく黙っていた。

 やがて、針入れを薬箱に戻す。

「わたしは、弱いものを重ねるより、ほどけないように結んでしまう方が好きです」

「でしょうね」

「変ですか?」

「いいえ」

 ラヴィニエは首を横に振った。

「とても、あなたらしいと思います」

 アリアは少しだけ嬉しそうにした。

 それがまた、ラヴィニエには少し怖かった。

 礼拝堂の鐘が、小さく鳴る。

 昼の終わりを告げるにはまだ早い。けれど、光は少しずつ弱くなり始めていた。

 アリアは薬箱を抱え直す。

「では、わたしは戻ります」

「はい。ありがとうございました」

「お姉さま」

「何でしょう」

 アリアは入口の手前で振り返った。

「痛い時は、ちゃんと痛いと言ってください」

「はい」

「痛いのに笑っていると、どこを縫えばいいのか分かりにくいので」

 ラヴィニエは一瞬だけ黙った。

 そして、いつものように微笑んだ。

「ええ。気をつけます」

「はい」

 アリアは一礼し、礼拝堂を出て行った。

 扉が閉まる。

 礼拝堂に、再び静けさが戻る。

 ラヴィニエはしばらく扉を見つめていた。

「……本当に、良い子ですね」

 誰に言うでもなく、呟く。

 少し間を置いて、続けた。

「良い子なのに、少し怖い」

 祭壇の灯が、わずかに揺れた。

 ラヴィニエは左手を胸の前で組む。

 祈る。

 レインたちが帰ってくるように。

 ノエルが、深いところへ引き込まれないように。

 セシルが、痛みに耐えすぎないように。

 フィアが、一人で遠くへ行かないように。

 そして。

 アリアという少女が、自分の針で何を縫おうとしているのか、どうか手遅れになる前に気づけるように。

 王都中心部の教会に、静かな祈りが落ちる。

 その頃、東の第5環では、古い鉄扉が開こうとしていた。


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