EP4 暮色四合 第16話 フィアとミラ
王都第5環東は、中心街とは空気が違う。
王都は幾重もの環状区画によって広がっている。王城と大聖堂を抱く中心区を第一環と呼び、そこから外へ向かうほど、商業区、居住区、工房区、旧市街、外縁街へと性格を変えていく。
第5環東は、その境目にある。
人はいる。
家もある。
市場も、配給所も、古い施療所もある。
だが、王都中心部のような整った秩序は薄い。石畳はところどころ割れ、壁には古い煤が染みつき、工房街だった頃の名残として、使われなくなった煙突が空へ突き出している。
荷車の軋む音。
鉄材を運ぶ男たちの怒声。
水路の端で布を洗う女たちの笑い声。
路地を走る子どもの足音。
その全部が、どこか雑で、煤けていて、それでも確かに生きていた。
「ここが第5環東側か」
レインは通りを見渡しながら言った。
「はい」
セシルが地図を広げる。
右腕は固定されたままだ。だから左手だけで地図を押さえている。器用ではある。だが、見ていて危なっかしい。
「王都の東側外縁に近い区画です。かつては薬品加工、魔道具修理、金属加工の小工房が多くありました。現在も一部は稼働していますが、事故や火災で閉鎖された区画も多い」
怪しいことをするには、ちょうどいい場所だ。
人がまったくいない場所より、人がそれなりにいる場所の方が隠れやすい。廃墟だけの場所なら逆に目立つ。だが、第5環東には生活がある。流通がある。荒れた建物と、使われている建物が混ざっている。
誰かがいなくなっても、すぐには気づかれない。
誰かが出入りしても、それが仕事なのか、取引なのか、犯罪なのか、すぐには分からない。
そういう場所だった。
「失踪者の最後の目撃場所は」
レインが問う。
セシルは地図に赤い印を三つ置いた。
「一人目はこの配給所付近。二人目は古い施療所の裏手。三人目は第5環東市場の北側です。いずれも、廃工房区画へ向かう道筋と重なります」
「三人とも子どもか」
「二人は子どもです。一人は薬売りの老女。正確には、正式な失踪届は出ていません。ただ、ここ数日姿を見ていないという話があります」
フィアが小さく息を吐いた。
「消えても、最初に数えられない人から消えてるんだ」
声は軽かった。
だが、目は笑っていなかった。
レインは地図を見る。
配給所。
施療所裏。
市場北側。
そして、その先に古い廃工房区画。
線を引けば、東へ向かう。
「まず聞き込みだな」
「はい。私は配給所と施療所を確認します」
フィアが通りの端で足を止める。
「少し、見てみる」
「何を」
「流れ」
そう言って、フィアは目を細めた。
薄い銀に見えた彼女の瞳の奥に、淡い光彩が浮かぶ。光が差したのではない。瞳そのものの内側で、何かが細くほどけるように動いた。
フィアは目を閉じる。
レインはそれを見て、口を閉じる。
いつもの軽いフィアではなかった。
呼吸を浅くし、耳を澄ませるように何かを拾っている。
「……ここ、人が多い」
「そりゃ通りだからな」
「違う。流れが入り組んでる。人と、動物と、古い術式の残り…?。全部混ざってる」
「分かるのか」
フィアは指先で自分の目元を軽く叩いた。
「フィーは、魔素の流れを見るやつだから。人が多いと、川がいっぱいあるみたいになる。どれが探してる流れか分かりにくい」
レインは眉をひそめる。
「まず、配給所だ」
レインは言った。
「聞き込みで線を引いて、外縁に出たらフィアに流れってのを見てもらう」
「了解」
フィアはいつもの軽い声に戻った。
「じゃあ、聞き込み。フィー、得意だよ」
第5環東の配給所は、大聖堂や中心教会のような立派な場所ではなかった。
古い倉庫を改装した建物で、壁には簡素な聖印が掲げられている。中からは煮込みの匂いがした。粗末な木椀を持った子どもたちが、列になって並んでいる。
セシルが名乗ると、受付の男は露骨に緊張した。
「聖騎士様が、なぜこちらに」
「個人的な確認です。正式捜査ではありません」
「正式捜査では、ない」
男は安堵したような、不安になったような顔をした。
正式ではない。
だからこそ、何かがある。
「最近、ここに出入りしていた子どもが一人、行方不明になっています」
セシルは淡々と告げる。
「最後に見た時のことを確認したい」
「ええと、その、子どもは多いので」
「名前はルカ。年は十一。右頬に小さな火傷痕があります」
「ああ……」
男の表情が変わった。
知っている顔だ。
「来ていました。何度も。母親が病で、食事を持ち帰っていました」
「最後に見たのは」
「三日前の昼過ぎです」
「一人でしたか」
「いえ」
男はそこで言葉を止めた。
レインが一歩前に出る。
「誰といた」
「白い服の男です」
その言葉に、場の空気がわずかに固まった。
「医師か?」
「そう見えました。施療所の方かと思っていました。子どもにも優しくて、薬の包みを渡していましたし」
「名前は」
「分かりません。ただ、子どもたちは……」
「先生」
ノエルが言った。
男は驚いたように彼女を見る。
「はい。そう呼んでいました」
レインの胸の奥が鈍く疼いた。
先生。
まただ。
「記録はありますか」
セシルが問う。
「配給記録なら」
「見せてください」
男は迷った。
ほんの一瞬。
それから奥へ引っ込み、古い帳面を持って戻ってきた。
ノエルが横から覗き込んだ。
「ここ」
ノエルが指を差した。
セシルの目が細くなる。
三日前の昼。
書き忘れたというより、そこだけ紙が空白を保っている。
「この時間の記録は」
「担当者が、書き忘れたのかと」
「誰が担当でしたか」
「……交代で」
男の声が弱くなる。
「嘘?」
ノエルが静かに言った。
男の顔が強張る。
レインは低く言った。
「子どもが消えてるんだぞ」
「わ、私は何も」
「何もしてなくても、知ってることはあるだろ」
セシルが続ける。
「正式な捜査ではありません。ですが、これ以上隠すなら、私は正式な手続きに切り替えなければならない」
男は唇を噛む。
「……上から、言われました」
「上?」
「配給所の管理側です。余計な記録を残すなと」
「誰が言った」
「名前は……分かりません。封書で。印は、教会区のものに見えました」
セシルの表情は変わらなかった。
だが、地図を押さえる左手の指がわずかに強くなった。
「封書は」
「処分しました。そう書かれていたので」
「都合がいいな」
レインが吐き捨てる。
男は俯いた。
配給所を出ると、フィアはすぐに通りの端へ移動した。
「ちょっと、ミラに聞いてみる」
フィアが目を閉じた。
肩のそばに、かすかな光の粒が浮かぶ。小さな虫にも、火の粉にも見えた。だが、それは空気の中にとどまり、フィアの耳元でふるえた。
「ミラ」
フィアが短く呼んだ。
肩のそばに浮かぶ光の粒が、返事のように淡く瞬いた。
「次は市場北側?…うん、うん、へー、そうなんだ。…わかった」
「フィアお前、なにと話してるんだ?」
「…うーん、精霊、かな。フィアのは古いのみたいだけど」
「フィアさんは、そこが知れませんね…」
「ま、いーじゃん。おいおい教えてあげる。でね、ミラが言うには…」
フィアが先導して歩いていく。
店の看板も少なくなる。
家屋と倉庫が混ざり、古い工房の壁が増えていく。
「この辺なら…」
フィアが立ち止まった。
光彩が、先ほどよりはっきり浮かぶ。
彼女の視線が、通りの奥へ流れた。
右。
左。
また右。
目で見ているのではなく、川の流れを辿っているようだった。
「あっち」
彼女は東を指した。
古い煙突が三本並んでいる。
その下に、半壊した建物群が見えた。
「全部の流れが、あそこを避けてるみたい。普通は人や建物の周りを流れるのに、あそこだけ不自然」
「不自然?」
「うん。磁石が少し狂ってる感じ。こないだの遺跡ほどじゃないけど」
セシルが顔を上げた。
フィアの肩のそばで、光の粒が震えた。
フィアは少し目を細めた。
「えー…、またなのぉ…」
「…なんだって?」
「あっちの建物…みたいなんだけど、また廃墟で、どうも地下みたい…」
レインは東を見る。
廃工房区画。
その奥に、何かがある。
フィアは場所を示した。
ノエルは黙っていた。
「ノエル?」
レインが声をかける。
ノエルは近くの壁に触れていた。
古い工房の外壁。黒ずんだ煉瓦。そこにはかすかに爪で引っかいたような傷が残っている。
「ここ、何かあったみたい」
「?」
「残ってる」
ノエルは目を伏せた。
「怖い、が残ってる」
フィアがさっき指した東を見る。
「じゃあ、やっぱりあそこだね」
「…お前ら二人がよくわからんことが、わかった」
「…ですね。ただ、信頼性は高そうと推察します」
「珍しく意見があうな」
「ですね。意外なことに我々が常識側のようですよ。」
フィアに案内されて、市場裏の細い道へ入る。
古い泥道に、車輪跡が残っていた。
普通の荷車より深い。
重いものを積んでいた跡だ。
ノエルがしゃがむ。
泥に触れる。
「冷たい」
「泥が?」
「違う。」
ノエルは目を細めた。
フィアが車輪跡の先を見る。
「東三番工房の方だね」
セシルが地図を確認する。
「旧東三番工房。十数年前に閉鎖。薬品加工と魔道具処理を兼ねていた施設です」
「事故で閉鎖されたんだったな」
「はい。爆発事故です。地下処理区画が崩落したと記録されています」
「地下」
レインが呟く。フィアが言った言葉とセシルの地図が重なった。
「行くぞ」
「ええ」
市場を抜けると、街の音が急に遠くなった。
同じ王都の中なのに、そこから先は空気が違った。人通りはまばらになり、古い工房の壁が道の両側に迫る。窓は板で塞がれ、鉄扉には錆びた鎖が巻かれていた。
だが、そのうちいくつかの鎖は、新しい。
レインはそれを見た。
「最近、付け替えられてる」
「はい」
セシルも気づいていた。
古い工房の前に出た。
看板は半分落ちている。
かろうじて読める文字は、東三番工房。
鉄扉は閉じている。
だが、鍵は古くない。
セシルが周囲を見る。
「人の気配は」
「表にはない」
フィアが答える。
「中は?」
「ぼやける。壁の向こうは精度が落ちるから。でも、地下に何かある」
「人か」
「人みたいな流れがある。でも、細い。弱い。あと、変なのが一つ」
「変なの?」
「人じゃない。術式……でも、ない気がする」
ノエルが鉄扉に近づいた。
「触るな」
レインが言う。
ノエルは止まった。
「中、怖い」
「それは何が残ってる」
「たくさん」
「たくさん?」
「怖い。痛い。眠い。帰りたい」
ノエルは淡々と言った。
だが、その言葉の並びは、ひどく冷たかった。
レインは拳を握った。
「では、配置を」
セシルの声が低くなる。
フィアが一歩下がる。
レインは深く息を吸った。
王都第5環東。
廃工房区画。
旧東三番工房。
痕跡はここに収束している。
いや。
隠されている。
セシルが頷いた。
錆びた鉄扉が、低い音を立てて開く。
中から流れてきた空気は、埃と薬品と、古い血の匂いがした。
ノエルが小さく呟く。
「……ここ」
レインは剣の柄に手をかけた。
夕暮れには、まだ早い。
だが、工房の中だけはもう、夜のように暗かった。




