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EP4 暮色四合 第15話 夜の入り口

ギルド本部の昼下がりは、いつも通りうるさかった。

 酒場と受付と情報屋と暇人と仕事帰りの冒険者が、同じ屋根の下で勝手に息をしている。依頼板の前では、若い冒険者が報酬額を見て顔をしかめ、奥の卓では討伐帰りの男たちが戦果より先に酒の値段へ文句を言っていた。

 王都は今日も平和ではない。

 少なくとも、そう見える程度には忙しかった。

 その喧騒の端。壁際の丸卓で、レインは椅子に浅く腰掛け、片肘をついていた。

 体は重い。

 痛むほどではない。動けないわけでもない。だが、体の芯に残った疲労が、ふとした拍子に骨の内側から顔を出す。

 リグレツィアとの戦いから、まだ十分な日数は経っていなかった。

 大怪我をしたのはラヴィニエだ。セシルも無傷ではない。ノエルも、フィアも、レイン自身も、何もなかった顔で次の仕事に移れるほど鈍くはできていない。

 だから今日は、依頼を取りに来たわけではなかった。

 ……少なくとも、レインはそのつもりだった。

「暇だね」

 向かいの席で、フィアが頬杖をつきながら言った。

 滑らかな髪が、窓から差す光を受けて淡く揺れている。長い耳の先が、退屈そうに少しだけ動いた。

「なら帰れ」

「ひどい。フィー、先週から正式なギルド所属なのに」

「なんで登録したんだよ」

「なんとなく」

「帰れ」

「待って。もう少し掘り下げて」

 フィアは両手を胸の前で軽く振った。

 その仕草だけ見れば、妙に人懐っこい少女に見える。だが、この女がただの気まぐれで動く人間ではないことを、レインはもう何となく理解し始めていた。

「情報持っててもさ、依頼として動く口実がないと面倒な時あるじゃん」

「あるのか」

「ある。勝手に首突っ込んだら、ただの不審者だし」

「自覚はあったんだな」

「そこは褒めて」

「褒める理由がねえ」

 フィアは少し不満そうに口を尖らせた。

 隣ではノエルが、卓の上に置かれた水の入った木杯をじっと見つめていた。飲むでもなく、揺らすでもなく。ただ、そこに映る天井の光を観察している。

「ノエル」

「……なに」

「お前も暇か」

「暇、という状態の定義による」

「そういう答えが返ってくる時点で暇だろ」

「たぶん」

 ノエルは木杯から目を離さず、静かに言った。

 いつもの調子だった。感情の起伏が薄く、言葉が短い。それでも、少し前よりは、彼女が何を見ているのか分かるようになった気がする。

 気がするだけかもしれないが。

 レインは小さく息を吐き、椅子の背にもたれた。

「大きい依頼はしばらくなしだ」

「レイン、そう言ってる時ほど巻き込まれるよね」

「うるせえ」

「統計的に」

「統計を取るな」

「まだ三件くらいだけど」

「それは統計じゃなくて悪口だ」

フィアが笑った。

ノエルは笑わなかったが、ほんの少しだけ目を伏せた。たぶん、今のを面白いと判断したのだろう。分かりづらいが。

 その時だった。

「確認します」

 受付の方から、聞き慣れた声がした。

 エリスが書類を抱えて歩いてくる。いつも通り、表情はほとんど動かない。声も平坦だ。だが、その歩幅は迷いがなく、まっすぐレインたちの卓へ向かっていた。

 嫌な予感がした。

 レインは顔をしかめる。

「副ギルド長」

「はい」

「俺たちは今日、依頼を取りに来たわけじゃない」

「確認しました」

「何をだよ」

「あなたがそう言う可能性です」

「先読みすんな」

「業務上必要です」

 エリスは卓の横に立ち、抱えていた書類を一枚だけ抜き出した。

「レイン宛てに、指名依頼が入っています」

「断る」

「まだ内容をお伝えしていません」

「だいたいそういう時はろくな話じゃねえ」

「それも確認済みです」

「認めるな」

 フィアが身を乗り出した。

「誰から?」

 エリスは視線をフィアへ向けた。

「セシル様からです」

 レインの眉が動いた。

 ノエルが木杯から目を上げた。

「セシル?」

「はい。セシル=フェルゼリア様より、個人依頼として提出されています」

「聖騎士団としてではなく?」

 フィアが問う。

「はい。依頼書には明確に『個人として』と記載されています」

 エリスは書類を卓に置いた。

 レインはすぐには手を伸ばさなかった。

 セシルが個人として依頼を出す。

 その意味は、軽くない。

 聖騎士団として動けない。

 だが、見過ごせない。

 だから規定の外側にいる人間を使う。

 あの堅物が、そんな選択をしたということだ。

「……怪我は」

「治療院で療養中です。ただし、歩行と軽度の戦闘行動は可能とのことです」

「誰の判断だ」

「本人です」

「駄目じゃねえか」

「医師の許可範囲内で、という注記があります」

「絶対に都合よく解釈してるだろ」

「可能性は高いです」

 エリスは淡々と言った。

 レインはようやく書類に手を伸ばした。

 依頼内容は簡潔だった。

 王都近郊における複数の失踪事件の調査。

 被害者は主に若年層。

 貧民街周辺、教会区外縁、王都東側の廃工房区画付近での目撃情報あり。

 聖騎士団として正式捜査に移るには証拠不十分。

 ただし、複数の証言に類似点あり。

 レインは目を走らせる。

 その途中で、指が止まった。

 証言欄の一文。

――先生

  音が遠くなった。

 ギルドの騒がしさが、急に薄い膜の向こうへ引いたように感じた。

 その言葉だけが、紙の上から浮き上がって見えた。

 レインは無言で書類を見下ろした。

 ノエルが、こちらを見る。

「レイン」

「……ああ」

 フィアはそれ以上、すぐには聞かなかった。

 軽口を挟む場面ではないと判断したのだろう。こういう時の勘は妙に鋭い。

 エリスが続けた。

「セシル様は、あなたに直接説明したいとのことです。現在、治療院にいらっしゃいます」

「来られるのか」

「確認済みです。呼べば来るとのことです」

「怪我人を呼ぶな」

「本人が来ると主張しています」

 レインは額に指を当てた。

「で、呼ばずに、こっちも行かなかったら?」

「セシル様がこちらへ来ます」

「一緒じゃねぇか…」

 その時、フィアがふと視線を横へ流した。

 ギルドの奥、別の卓で冒険者が二人、声を潜めて話している。片方は革鎧の男。もう片方は短弓を背負った女だった。

 フィアは何気ない顔で耳を傾ける。

 レインにもかすかに聞こえた。

「……東の廃工房だろ」

「やめとけって。最近、あの辺で子どもが消えてるって」

「子どもだけじゃねえ。薬売りの婆さんも戻ってねえって聞いたぞ」

「白い服の男を見たって話もある」

 フィアが小さく息を吐いた。

「この話、さっきも聞いた」

「いつ」

「ここに来る前。依頼板の前で冒険者が話してた。王都東側、廃工房、白衣の男、行方不明。多分、同じ話」

「調べてたのか」

「違うよ。聞こえたの」

「情報屋だからね」

 フィアは悪びれずに言った。

 ノエルが静かに言った。

「行く」

 短い言葉だった。

 だが、誰も聞き返さなかった。

「まだ決めてねえ」

「行くと思う」

「勝手に決めんな」

「違う?」

 レインは答えなかった。

 答えないことが答えだった。

 エリスが書類の端を揃える。

「確認します。セシル様をお呼びしますか」

 レインは数秒黙った。

 それから、短く言った。

「呼んでくれ」

「わかりました」

 エリスは踵を返した。

 その背中を見送りながら、フィアがふっと笑った。

「結局、巻き込まれるんだ」

「依頼だ」

「そういうことにしとく?」

「そういうことだ」

 その時、ノエルが立ち上がった。

「どこ行く」

「水」

「そこにあるだろ」

「新しいの」

「味変わらねえだろ」

「少し変わる」

 ノエルは木杯を持って、受付脇の水差しへ向かった。

 その背中を見ながら、フィアが頬杖をつく。

「ノエル、少し変わったね」

「そうか?」

 レインは否定しなかった。

 白礫墓苑で出会った時、ノエルはもっと空っぽに見えた。

 見ている。聞いている。覚えている。けれど、自分がそこにいることへの重さが薄い少女だった。

 今も無口だ。

 今も感情は見えづらい。

 だが、少しずつ、彼女は自分の足で何かへ向かおうとしている。

 フィアは笑った。

 だが、その目は笑っていなかった。

「これさ、あのときのあの子おもいだすね…」

「……ああ」

 フィアは一瞬だけ黙った。

あの時の少年の顔を、レインは思い出さないようにしていた。

けれど、「先生」という言葉は、そういう努力を簡単に踏み越えてくる。

誰かに使われ、壊され、使い捨てられた子ども。

誰も救われなかった、祈りの先。

胸の奥に残ったものが、また鈍く疼いた。


 しばらくして、ギルドの扉が開いた。

 昼の光を背に、セシルが入ってくる。

 白を基調とした服装はいつもより簡素で、鎧も身につけていない。右腕は固定され、胸元から脇腹にかけて包帯の厚みが服の下に見えた。それでも背筋はまっすぐで、歩き方に乱れはない。

 その姿を見た瞬間、レインは眉をひそめた。

「…お前、やっぱり帰れ」

 セシルは足を止めた。

「個人依頼を出した以上、依頼者として説明責任があります」

「治療院で寝ながら説明しろ」

「寝ながらでは失礼です」

「そういう問題じゃねえ」

 セシルは卓の前まで来た。

 いつものように硬い表情だったが、顔色は少し悪い。

 ノエルが水を持って戻ってくる。

 セシルを見て、少しだけ目を細めた。

「痛い?」

「問題ありません」

「痛いんだ」

「……職務に支障はありません」

「痛いんだ」

 セシルは黙った。

 フィアが小さく笑う。

 セシルは軽く咳払いをした。

「今回の件について、説明します」

「その前に座れ」

「立ったままで」

「座れ」

 レインの声が低くなった。

 セシルは一瞬だけ何かを言いかけたが、やめた。

 椅子を引き、慎重に腰を下ろす。

 それだけで、脇腹に痛みが走ったのだろう。わずかに呼吸が乱れた。

「ほら見ろ」

 セシルは無視して依頼書の写しを取り出した。

「王都近郊で複数の失踪が発生しています。現時点では、聖騎士団として正式に動くには証拠が足りません」

「だから個人依頼か」

「はい」

「教会が絡んでると思うか?」

 セシルの視線がわずかに揺れた。

 沈黙。

 それだけで答えに近かった。

「確証はありません」

「確証がないってことは、疑う理由はあるんだな」

「……あります」

 セシルは声を落とした。

「失踪者の一部が、教会区の施療院や慈善施設に出入りしていた記録があります。ただし、記録に不自然な欠落がある。さらに、目撃証言に『白衣の男』という共通点がありました」

「先生」

 ノエルが言った。

 セシルは静かに頷く。

「はい。複数の証言に、その呼称が出ています」

「白衣、先生、子ども」

「はい」

 セシルは書類の一部を卓に置いた。

 そこには、失踪者の年齢、最後の目撃場所、証言の要約が書かれていた。名前の横に、赤い小さな印がいくつかついている。

「赤は?」

「証言に『先生』という言葉が含まれていたものです」

 赤い印は三つ。

 多すぎる。

「聖騎士団は動けないんですか?」

 フィアが尋ねた。

 声は軽かったが、目は鋭い。

「現時点では、正式出動には足りません。教会区に踏み込む場合、政治的な手続きが必要になります。下手に動けば、証拠を消される可能性もある」

「だから、ギルド依頼」

「はい。あなた方は聖騎士団ではありません。公式には、王都近郊の失踪事件調査です」

 その答えに、レインは少しだけセシルを見直した。

 規定を守る男が、規定の外へ足を出している。

 自分の正義ではなく、目の前の不足を埋めるために。

 それはたぶん、簡単なことではない。

「で、お前も来るつもりか」

「はい」

「怪我人」

「戦闘は最小限に抑えます」

「来るつもりなんだな」

「はい」

「止めても?」

「来ます」

「ラヴィニエみたいなこと言うな」

 その名を出した瞬間、狙いすましたようにギルドの扉が再び開いた。

 白い修道服の裾が揺れる。

 ラヴィニエが、にこやかに入ってきた。

 右腕は吊られている。

 脇腹にも包帯が巻かれている。

 顔色は穏やかだが、どう見ても本調子ではない。

 レインは即座に言った。

「帰れ…」

「ひどいですね。わたしはただ、皆さんの様子を見に来ただけです」

「そのまま見て帰れ」

 ラヴィニエは微笑んだまま、卓の横に立ち依頼書へ視線を落とした。

 そこに書かれた内容を見た瞬間、微笑みがわずかに薄くなった。

「行きます」

「…どいつもこいつも…」

 ラヴィニエは首を傾げる。

「止めても来ますよ」

「来るな」

「動けます」

「動けると動いていいは別だ」

 その言葉に、ラヴィニエは一瞬黙った。

 セシルが気まずそうに視線を逸らす。

 ラヴィニエは吊られた右腕に視線を落とした。

 そのまま、少しだけ笑った。

「……そうですね」

 意外なほど素直な返事だった。

 レインは一瞬、言葉を失う。

「何ですか、その顔は」

「いや。もっと面倒な理屈で押し切ってくるかと」

「わたしを何だと思っているんですか」

「信仰の名目で骨折を無視する女」

「だいたい合っていますね」

「合ってんのかよ」

 ラヴィニエは小さく笑った。

 だが、その笑みにはいつもの奔放さだけではない、わずかな疲れが混じっていた。

「今回は残ります」

 彼女は言った。

「ただし、何かあれば呼んでください」

「呼ばねえようにする」

「呼んでください」

「……善処する」

「本当ですね?」

「分かったって言っただろ」

「レインさんの分かったは、たまに信用なりませんので」

「お前に言われたくねえ」

 ノエルがラヴィニエを見る。

「痛い?」

「少しだけ」

「嘘」

「……少し多めに」

「多め」

「はい」

 ノエルは頷いた。

「残った方がいい」

 ラヴィニエは、少しだけ目を細めた。

「ノエルさんにそう言われると、効きますね」

「効く?」

「はい。なんだか、祈られている気がします」

「祈ってない」

「では、観測ですね」

「たぶん」

 ラヴィニエは満足そうに微笑んだ。

 セシルが資料をまとめる。

「出発はいつにしますか」

「今日だ」

 レインは言った。

 誰も驚かなかった。

「夜まで待つと、痕跡が消えるかもしれねぇ。東側の廃工房区画を見に行く」

「同意します」

 セシルが頷く。

「フィアは?」

「行くよ。情報、必要でしょ?」

「ノエル」

「行く」

 答えは最初から決まっていた。

 ラヴィニエは少しだけ寂しそうに、だが納得したように息を吐いた。

「では、わたしは王都側でできることを探します」

「無茶するな」

「…………しませんよ」

「今の間は何だ」

「祈っていました」

「何を」

「無茶をしないわたしになれますように、と」

「最初から無茶する気じゃねえか」

 フィアが笑った。

 セシルは頭を押さえた。

 ノエルは少しだけ首を傾げた。

 いつものような、いつもではないような空気だった。

 けれど、卓の上には依頼書がある。

 白衣の男。

 先生。

 失踪者。

 東の廃工房。

 あの時が、続いている気がする。

 そして、同じでは済まない予感があった。

 レインは依頼書を折り畳み、懐に入れた。

「行くぞ」

 椅子が鳴る。

 ノエルが立つ。

 フィアが軽く伸びをする。

 セシルが痛みを隠しながら立ち上がる。

 ラヴィニエだけが、その場に残った。

「レインさん」

 呼び止める声に、レインは振り返る。

 ラヴィニエは静かに微笑んでいた。

「帰ってきてくださいね」

「依頼だ。終わったら戻る」

「そうではなく」

 彼女は少しだけ首を横に振った。

「誰かを連れて帰れなくても、あなたたちは帰ってきてください」

 その言葉は、思ったより重かった。

 少年の顔がよぎる。

 救えなかった少年。

 届かなかった手。

 燃え残った問い。

 レインは一度だけ目を伏せた。

「……分かってる」

 今度の「分かった」は、軽くはなかった。

 ラヴィニエはそれを聞いて、ようやく少し安心したように笑った。

「では、行ってらっしゃいませ」

 ギルドの扉を開けると、外の光は少し傾き始めていた。

 昼はまだ終わっていない。

 だが、どこかで夕暮れの色が、もう王都の端に触れている。

 レインは東へ向かって歩き出した。

 白衣の先生を追って。

 失踪した誰かを追って。

 そして、まだ名前も知らない夜の入口へ向かって。


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