EP3知る者は言わず言う者は知らず 第14話 エピローグ
病室の前に立った時点で、エリスはすでに一度、眼鏡を外していた。
廊下の窓に映る自分の顔は、いつも以上に疲れて見えた。まあ事実だろう。昨夜からほとんど休めていない。報告書は増え、確認事項は増え、教会との調整は増え、聖騎士団とのすり合わせは増え、ついでに面倒事に吸い寄せられる問題児たちは全員まとめて施術院送りになった。
確認するまでもなく、碌でもない。
「……確認します」
誰に言うでもなく小さく呟いてから、エリスは眼鏡をかけ直した。
扉の向こうから声が聞こえる。
ノックを二回。
「確認します」
中の空気が一瞬だけ止まるのが分かった。
「入ります」
返事を待たずに扉を開ける。
そして、開けた瞬間に少しだけ後悔した。
ひどかった。
病室は白い。寝台も白い。包帯も白い。
そのせいで寝台の上の四人が、負傷した人間というより、何かの展示みたいに見える。
エリスは黙った。 黙ったまま、眼鏡を外した。
「……確認しました」
「何をだよ」
レインが聞く。
「思った以上にひどい絵面だということをです。まるで雑巾ですね」
「誰が、雑巾…いったぁ……!」
「笑うからです」
「今のはエリスが悪いでしょ」
「事実を述べただけです」
ノエルがじっとエリスを見る。
「副支部長、疲れてる」
「ええ」
否定する意味もないので、エリスはそのまま認めた。
「あなた方のせいで、かなり」
「理不尽だな」
レインがぼそっと言う。
「理不尽ではありません。あなた方が遺跡で半壊したのは事実です。その後の報告と処理と調整が全部こちらに来たのも事実です。確認します。どこが理不尽ですか」
「……すいません」
エリスは書類を抱え直した。
部屋の中央に少しだけ進む。視線を一巡させる。怪我の程度は事前に把握している。今ここで見るべきは、死んでいないことと、会話が成立することと、勝手に動ける程度まで回復していないことだ。
エリスは息を吐きそうになって、やめた。
いけない。ここでため息をつくと、本当に一日が終わった気になる。
「事後処理の報告に来ました」
その一言で、部屋の空気が少しだけ締まる。
包帯だらけの惨状に気を取られていたが、本題はそこではない。
「まず、セプテム遺跡は正式に立入禁止区域へ指定されました。ギルド、教会、聖騎士団の共同管理下です。崩落も進んでいるため、当面の再突入は認められません」
ラヴィニエが表情を少し改める。
「…俺らを襲ったあの女は?」
レインの声は低かった。
「不明です」
即答した。
「該当する既存資料がありません。あれほどの戦闘能力を持ちながら、少なくとも公に確認された存在ではない」
フィアが眉を寄せる。
「それ、かなり気持ち悪いね」
「同意します」
エリスは一枚、紙をめくった。
「なお、依頼者である教会側は、前金に上乗せして報酬を支払う意向です。治療費と見舞金も負担すると」
「金は出すんだ」
フィアが言う。
エリスはそこで言葉を切らなかった。
「教会側は危険な遺物の可能性は認識していなかった、また、あの規模の敵性存在は想定外だったという立場です。現時点で、それを虚偽と断定する材料はありません」
ノエルがぽつりと言った。
「つまり、何も分からない」
「そうですね」
エリスは頷いた。
「ギルド側も正直全貌がつかめていません。当該個体の詳細も、今回の依頼の全貌も」
大きな遺跡があり、意味不明な強敵が現れ、負傷者が出て、金だけが上乗せされ、説明だけが抜けている。整理すればするほど、余計なものが削ぎ落ちて、最後に残るのは“分からない”だけになる。
「最悪だね」
フィアが言う。
「同意します」
つい、少しだけ本音が混じった。
エリスは最後の書類を閉じた。
「今は休んでください。勝手に動くのは、少なくともまっすぐ歩けるようになってからにしてください」
「釘の刺し方が具体的だな」
「あなた方ですので」
特にレインとフィアが何か言い返しかけたが、やめた。
エリスは扉の方へ向かう。もう伝えるべきことは終わった。
この先のことは、少なくとも今日の自分の仕事ではない。
今日の自分の仕事は、この四人が死んでいないことを確認し、無駄に動かないよう釘を刺し、処理を伝えることだ。
それだけ。
扉の前で、一度だけ立ち止まる。 振り返るつもりはなかったのに、振り返ってしまった。包帯だらけで、ひどい顔をしていて、うるさくて、面倒で、扱いにくい。それでも。
「……死ななくてよかったです」
思っていたより静かな声が出た。
部屋の中が一瞬だけ黙る。
ノエルが少しだけ目を瞬いた。フィアは冗談を言いかけてやめた。ラヴィニエは柔らかく目を細める。レインだけが、妙に間の悪い顔でこちらを見ていた。
エリスは静かに扉を閉め、廊下へ出た。
そこでようやく、もう一度だけ眼鏡を外して目頭を押さえる。
「……本当に、碌でもない」
けれど、その呟きは昨日までより、ほんの少しだけ軽かった。
*
午後になって、痛み止めがもう少し効いてきた頃、レインはようやく起き上がった。いや、正確には、一度失敗して、二度目で成功した。
「どこ行くの」
ノエルが聞く。
「……ちょっとな」
フィアが寝台に寝転がったまま片手を振る。
「セシルのとこ?」
「そうだよ」
壁に手をつきながら廊下に出る。
廊下は静かだった。遠くで水の音がし、誰かの咳がして、薬を煎じる匂いがかすかに流れてくる。白い床がやけに長い。
セシルは奥の個室にいた。
扉は半開きで、中を見ればすぐ分かる。上体を少し起こし、右腕を吊ったまま、左手で紙を押さえて読んでいる。
「……何してる」
レインが言うと、セシルが顔を上げた。
「起きていたのですか。私が休んでいた間の報告を読んでいます」
「病人が真っ先にやることじゃねえだろ」
セシルは少しだけ視線を外した。
「落ち着かないのです」
意外に人間っぽい返答だった。
レインは扉枠にもたれた。
「あの時、なんで庇った」
セシルは、すぐには答えなかった。
紙を伏せ、静かに息を整える。
「守るべき位置にいたからです」
やはり、最初の返答はそれだった。
レインは半眼になった。
「それだけか」
少しだけ沈黙が落ちる。
窓の外で風が鳴る。
セシルは一度だけ目を伏せ、それから低く言った。
「あなたが、皆を守ろうとしていたからです」
「……」
「あなたも、無茶をしすぎます」
「お前に言われたくないな…まあ、死んでなくてよかった」
「あなたも」
セシルは少しだけ言葉を選んでから続けた。
「……本当に」
レインは返事の代わりに片手を上げて、部屋を出た。
*
テスラは、もう少し広い病室にいた。
広いだけで、空気は悪かった。
「……なんだ」
扉を開けた瞬間、それだった。テスラは上半身を包帯で固められたまま、寝台に半身を起こしていた。右肩から胸にかけては特にひどく巻かれ、髪の焦げた部分も少しだけ切られている。
「見舞いだよ」
レインが言う。
テスラは鼻で笑った。
「似合わねえな」
「お互い様だろ」
「……そうだな」
妙にあっさり返ってくる。
レインは椅子を引いて座った。
「中央行ったのは、間違いだったと思ってねえんだろ」
「ああ」
テスラは即答した。
「危険度が高いなら、経験ある俺たちが正面を押さえる。それが一番合理的だ。お前らの実力を、俺はあの時点で目で見てねえ」
「だろうな」
「だから、判断自体は間違ってねえ」
テスラはしばらく黙っていた。
窓の外へ視線をやってから、低く言う。
「……だが」
一拍。
「お前たちを、もう少し信頼すべきだったかもな」
レインは鼻を鳴らす。
「次は勝手に決めるなよ」
「次がある前提か」
「あるだろ。お前、引退しねえし」
「……お前もな」
「俺はまだ若い」
「そういう問題じゃねえ」
テスラが小さく咳いた。
レインが顔をしかめる。
「病人らしくしろ」
「お前が言うな」
そこは少しだけ、昔からの知り合いみたいなやり取りになった。
レインは立ち上がる。 扉に手をかけた時、テスラが低く言った。
「レイン」
「なんだ」
「……あの嬢ちゃんは、今までのどれとも違う」
「…あぁ」
「次はもっと考えろ」
「お前に言われたくない」
「そうだな」
その“そうだな”は、思ったより柔らかかった。
レインは何も返さず、扉を閉めた。
廊下に出ると、さっきより少しだけ日が傾いていた。窓から差し込む光が白い床の上に伸び、病室の扉や壁の角を、淡く染めている。
静かだった。
薬草の匂い。遠くの水音。誰かが小さく笑う声。
昨日まで、あの遺跡の奥で耳を焼いていた轟音が嘘みたいに、世界は何事もなかったような顔をしている。
けれど、何も終わっていない。
あの女が何者だったのか。
なぜ、あそこにいたのか。
誰が、何を知っていて。
誰が、何を黙っているのか。
分からないことばかりだった。
「……面倒くせえな」
呟くと、胸の奥が少し痛んだ。怪我のせいか、それ以外の何かなのかは分からない。
それでも、足は止まらなかった。
病室の方から、フィアの文句と、ノエルの淡々とした声と、ラヴィニエの穏やかな笑い声が聞こえてくる。
レインは扉の前で一度だけ息を吐き、乱暴にならないように、そっと取っ手に手をかけた。
知る者は言わず、言う者は知らず。
ならばきっと、自分たちはまだ、何も知らない側にいる。
けれど。
知らないままでは、終われない。
夕刻の鐘が、遠くで一つ鳴った。




