第9話『大きな手』
第9話『大きな手』
クロードという名前を聞くようになってから、どれほど時間が経ったのだろう。
眠っている時間の方が長く、目を覚ましたと思えば腹が減って泣く。
身体が思いどおりに動かないのは相変わらずだが、何度も聞く声なら少しずつ区別できるようになってきた。
中でも、優しく抱いてくれる女性の声はすぐに分かる。
「クロード、今日はご機嫌ね」
顔を覗き込まれて、クロードは小さく口を開いた。
聞きたいことは山ほどある。
ここはどんな国で、自分はどんな家に生まれたのか。
何より、目の前の人に名前を尋ねてみたい。
「あぅ」
「ふふ、何かお話ししたいの?」
伝わったのは、話しかけたい気持ちだけらしい。
それでも女性は嬉しそうに笑い、ずれていた布を直してくれた。
手足を動かすたびに様子を確かめ、落ち着くとまた優しく抱き直す。
こうして世話をしてもらうことに、少しずつ慣れてきた自分がいた。
「エリス、少し休んだらどうだ」
近くから低い声がした。
生まれたときにも聞いた、あの男性の声だ。
(エリス、という名前なのか)
一つ分かったことが嬉しくて、クロードは声の方を見ようとした。
だが首はまだ自由に動かず、視界の端に大きな影が入っただけだった。
「ありがとう」
「でも、あなたもこちらへ来ませんか?」
「……ああ」
男性は近づいてきたものの、少し離れたところで足を止めた。
ぼんやりした視界でも、随分と身体の大きな人だと分かる。
こちらをじっと見ているのに、なかなか手を伸ばしてこない。
「抱いてみます?」
「いや、俺は……」
「さっきからずっと見ているでしょう?」
「……見ているだけで十分だ」
エリスがくすりと笑った。
「そんなことを言わずに」
「クロードだって、お父様に抱いてもらいたいわよね?」
父親。
なるほど、この人が自分の父親らしい。
クロードが確かめるように腕を動かすと、男性がわずかに身を乗り出した。
「ほら、手を伸ばしていますよ」
「……そうなのか?」
いや、今のはたまたまだ。
そう答えたくても、口から出るのはまた小さな声だった。
「あぅ」
結局、男性はエリスに促されてクロードを受け取った。
大きな腕が身体の下へ回り、ふわりと持ち上げられる。
ところが、そのままぴたりと動きが止まった。
腕にも肩にも力が入り、男性は息まで詰めているようだった。
「あなた、首を支えてあげて」
「支えている」
「そう、もう少し楽にして大丈夫ですよ」
「……難しいな」
真剣そのものの声に、クロードは笑いそうになった。
これだけ大きな人が、こんなに小さな自分を抱くのに苦労している。
もっとも、その腕は決して乱暴ではなかった。
少し位置を変えるたび、落とさないよう慎重に支え直している。
「ガルディオ、そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
「……慣れんものは慣れん」
クロードが小さく声を漏らすと、男性はすぐに顔を近づけた。
「どうした?」
答えられるはずもない。
だが、もう一度「あぅ」と声を出すと、硬かった口元がほんの少し緩んだ。
エリスもその顔を見て、楽しそうに笑っている。
まだ知らないことばかりだが、この二人のそばなら、少しずつ覚えていけそうだ。
クロードは大きな腕に支えられながら、ゆっくりと目を閉じた。




