第38話『お兄ちゃんの時間』
第38話『お兄ちゃんの時間』
クロードは『石の記録』を閉じると、木箱に残っている石へ目を向けた。
灰色の石と黒っぽい石では、水面の上がり方が違った。
ほかの石なら、どうなるだろう。
気になって一つ手に取ったところで、エリスが声を掛けた。
「クロード、今日はここまでにしましょうね」
「もう一つだけ、駄目?」
「また今度にしましょう。私もイリアの様子を見に行きたいの」
「……そっか」
クロードは手に持った石を見つめた。
ガラス容器は一人で使わないと約束している。
母にも、ほかにすることがあるのだ。
「じゃあ、ぼくもイリアのところに行く!」
「あら、いいの?」
「うん。石は逃げないもん」
エリスは少しおかしそうに笑った。
「それはそうね」
クロードが石を木箱に戻す間に、エリスはガラス容器を片づけた。
『石の記録』も机に置いておけば、続きを調べたいときにすぐ開ける。
クロードは木箱の蓋を閉じ、母と一緒に部屋を出た。
◇
イリアのいる部屋へ入ると、妹はちょうど目を覚ましていた。
寝台の上で小さな足を動かし、口をもぞもぞさせている。
エリスが近づいて声を掛けると、イリアは短く声を出した。
「起きてたんだね、イリア」
クロードも寝台のそばへ行き、妹の顔を覗き込んだ。
イリアは目を開けているものの、何を見ているのかは分からない。
「ぼくだよ。クロードだよ」
返事はなかった。
それでも、クロードはもう少し話してみたくなった。
「今日ね、面白いことがあったんだ」
エリスがイリアを抱き上げ、近くの椅子へ腰を下ろした。
クロードもその隣へ寄る。
「石を水に入れたらね、水が上がったんだよ」
「まあ、そのお話をしてあげるの?」
「うん! 灰色の石は二本くらいで、黒い方は三本くらいだったんだ」
クロードが指を立てて見せると、イリアの小さな手が動いた。
「あ、イリアも手を動かした!」
嬉しくなって、もう一度指を立てる。
けれど今度は、イリアの手は動かなかった。
「……たまたまかな」
「ふふ、どうかしらね」
エリスは笑いながら、イリアの身体を抱き直した。
クロードは少し考える。
まだ生まれて間もない妹には、石の話をしても何のことか分からないだろう。
そもそも自分だって、赤ん坊の頃は何も話せなかった。
「イリア、石って分かる?」
当然、答えは返ってこない。
代わりにイリアは口を開き、小さく息を漏らした。
「まだ分からないよね」
クロードは笑った。
何を話したらいいのだろう。
石の話ならいくらでもできるが、妹が何を面白がるのかはまだ分からない。
ふと見ると、イリアの手がエリスの服の近くで動いていた。
「母さまの服が気になるのかな?」
「どうかしら。まだ自分で上手に手を動かせないものね」
「ぼくもそうだった?」
「ええ。小さな手を一生懸命動かしていたわよ」
クロードは自分の手を見た。
今では石を拾ったり、文字を書いたりできる。
けれど、ずっと前からそうだったわけではない。
「イリアも、いつかいろんなものを触れるようになるんだね」
「そうね。少しずつ、できることが増えていくわ」
クロードは妹の顔へ視線を戻した。
「そしたら、ぼくの好きなものも見せてあげるね」
言ってから、少し考え直す。
「でも、イリアが好きなものも教えてほしいな」
イリアは小さく身体を動かした。
何かを伝えようとしたわけではないのだろうが、クロードはつい笑ってしまった。
「まだ教えてくれないか」
そのうち、イリアのまぶたがゆっくり下がり始めた。
エリスが腕の中でそっと揺らすと、一度目を開けたものの、また閉じてしまう。
「眠くなったみたいね」
クロードはもう少し話したかったが、声を小さくした。
「もう寝ちゃうの?」
「ええ。少し休ませてあげましょうね」
「うん」
エリスがイリアを寝かせる間、クロードはそばで静かに待っていた。
小さな胸がゆっくり上下している。
さっきまで動いていた手も、今はほとんど動かない。
「母さま」
「なあに?」
「イリア、ぼくの話、聞いてたかな?」
「どうかしら。でも、たくさん話してくれたわね」
クロードは眠っている妹を見つめた。
石の違いを調べるのは、やっぱり面白い。
けれど、イリアが何を見て、何を感じているのかを考えるのも楽しかった。
「またお話ししてもいい?」
「もちろんよ。起きたときにね」
「うん!」
元気よく答えかけて、クロードは慌てて声を抑えた。
エリスが口元に手を添えて笑っている。
クロードもつられて笑い、もう一度妹を見た。
木箱の石は、また今度調べればいい。
今は、イリアが目を覚ましたら何を話そうかと考えるだけで、十分楽しかった。




