第28話『母上と呼ぶ声』
第28話『母上と呼ぶ声』
エリスに抱かれて廊下を通っていると、向こうから聞き覚えのある声がした。
「だから、転んだわけじゃないって!」
「私はまだ、転んだかどうか聞いていないわよ」
声の主はザナンだった。
その前に立っているのは、先日ブラインと話していたクラリッサだ。
ザナンは片方の袖を後ろに隠そうとしていたが、クラリッサの視線はしっかりそこへ向いている。
「じゃあ、何を聞こうとしたの?」
「その袖、どうしたの?」
「庭で走ってたら、木の根っこにつまずいてさ」
「それで?」
「転ばないように手をついたんだ」
「それなら、転びかけたってことでしょう?」
「でも、転んでないよ!」
クラリッサは呆れたように笑い、ザナンの袖をそっと持ち上げた。
布には土がついていて、裾にも薄く汚れが残っている。
「袖だけじゃないみたいね」
「あれ? こっちも?」
「自分で気づいていなかったの?」
ザナンが慌てて服を見下ろしたところで、エリスが二人へ声を掛けた。
「あら、クラリッサ。ザナンもいたのね」
「エリス。ちょうどこの子の服を見ていたところなの」
その声にザナンが顔を上げた。
エリスの腕の中にクロードを見つけると、さっきまでの困った顔がぱっと明るくなる。
「あ、クロード!」
(ザナンだ。相変わらず元気そうだな)
以前、部屋に遊びに来たときも、あちこち動きながら話していた兄だ。
ザナンはすぐに近づき、クロードの顔を覗き込んだ。
「お、前よりこっち向くのが早くなったんじゃない?」
クロードが声の方へ顔を向けると、ザナンは嬉しそうに笑った。
「あぅ」
「ほら、返事もした!」
「ふふ。ザナンの声が分かったのかもしれないわね」
ザナンは得意そうに手を伸ばしかけたが、その途中でクラリッサに呼び止められた。
「ザナン、その手を見てごらんなさい」
「え?」
広げた手のひらには、まだ土が残っていた。
「あっ」
「クロードに触るなら、先に洗ってきましょうね」
「分かった。じゃあ、すぐ洗ってくる!」
ザナンは手を引っ込め、踵を返しかけてからクラリッサを振り向いた。
「母上、洗ったらまたクロードのところに行っていい?」
「ええ。でも、服も着替えてからよ」
「ええっ、着替えも?」
「もちろん」
(……母上?)
クロードはザナンとクラリッサを見比べた。
あのとき、ブラインもクラリッサを同じように呼んでいた。
ブラインの母親がクラリッサで、今度はザナンも彼女を母上と呼んでいる。
(そうか。ブラインとザナンは、同じ母親なのか)
アルトはセレナを母さまと呼んでいた。
自分の母親はエリスだ。
兄たちの名前だけでなく、誰が誰の母親なのかも少しずつ分かってきた。
「じゃあ、行ってくる!」
「走らなくてもいいのよ、ザナン」
「うん!」
返事だけは元気だったが、ザナンは今度は駆け出さずに廊下を歩いていった。
クラリッサはその背中を見送り、エリスと顔を見合わせて笑う。
「ブラインが帰ってきたと思ったら、今度はこの子の服よ」
「ふふ。ザナンは外で遊ぶのが好きですものね」
「そうね。元気なのはいいことだけれど」
クラリッサの口元には、まだ笑みが残っていた。
クロードは遠ざかるザナンの足音を聞きながら、二人の兄を思い浮かべる。
ブラインには少し休むように言って、ザナンには手を洗うように言う。
同じ母親でも、子どもとの話し方はそれぞれ違うらしい。
(家族のことも、まだまだ知らないことがあるな)
エリスの腕に身を預けながら、クロードはもう一度クラリッサの顔を見上げた。




