072⚫️境界線という名の鏡
ゴキブリに対する「これは差別や偏見なのだろうか」という問いに対して、認知科学や社会心理学の観点から答えるならば、結論は明確に「その通り」となる。ヒトがゴキブリやクマなどの害虫・害獣に向ける激しい嫌悪や敵意のメカニズムは、特定の人間集団に向ける差別や偏見の心理構造と、驚くほど完全に一致している。
ヒトが他者を排斥するとき、最も強力に駆動する感情は「嫌悪感」である。歴史上の悲惨な人種差別や階級差別において、マジョリティの支配層は常に、排除したいマイノリティ集団を「不潔だ」「病気を媒介する」「汚れている」と表現してきた。相手に「汚穢」のレッテルを貼ることで、良心の呵責なく排除できるようにする心理操作だ。さらに、相手を自分と同じ感情を持つ存在だと認めない「非人間化」のプロセスにおいて、決まって他者を「虫ケラ」や「ドブネズミ」などに例えてきた。つまり、害虫・害獣に対する情け容赦ない敵意のシステムは、ヒトがヒトを徹底的に差別する際の思考の原型として機能している。
では、私たちはあらゆる対象に対して、こうした差別や偏見を遍く退ける聖人君子になれるのだろうか。結論から言えば、それを完全にゼロにすることは不可能である。人間の脳には、生存確率を上げるために「敵と味方」「安全と危険」を瞬時に見分けるカテゴリー化のシステムが生まれつき備わっている。未知のものや異質なものを警戒し、拒絶するのは、遺伝子に刻まれた根源的な自己防衛本能だからだ。ヘビの模様を見ただけで瞬時に脳が恐怖のアラームを鳴らすように、「苦手だ」「無理だ」と感じる身体的拒絶そのものは、命を守るための正しい生存戦略である。
しかし、「偏見を抱くこと」と「それに基づいて差別や攻撃をすること」は全くの別物だ。人間には、本能の暴走を抑え込む「理性」という“もう一つのシステム”がある。 例えば、ヘビを本能的に恐れる人がいる一方で、その生態や安全性を正しく理解し、首に巻くほど愛する人がいる。他者への正しい理解は、「理解不能だから排除する」という本能の暴走を止め、認知を上書きする可能性を秘めている。
ただし、理解がもたらす最大の価値は、「嫌い」を無理に「好き」に変えることではない。重要なのは、理解によって「嫌いだから全滅しろ」という攻撃から、「自分には合わないが、彼ら彼女らには生きる権利がある」という「住み分け(テリトリーの尊重)」へと、感情の質を変化させることにある。
だからこそ、私たちは野生のクマに出会ったとき、理解や共感といった机上の空論をすべて放り投げて、まず逃げなければならない。それ以外の選択肢は存在しない。それは差別でも偏見でもなく、異なるルールで生きる強者への正しい認識であり、命を守るための正当な生存本能である。逃げ切った安全な場所で初めて、私たちは再び理性を取り戻し、「では、どうやって住み分けるか・他の対応が必要なのか」というヒトの都合でのルールを話し合うことができる。
ヒトは地球全体の代表者でもなければ、全生物から委託を受けた執行官でもない。ただ自分たちの都合に振り回され、本能と理性の間で葛藤しながら、生きるためのルールを書き換え続けている。 「それでもやっぱり苦手だ」という本能的な拒絶を抱える自分を責める必要はない。大切なのは、自らの中に潜む身勝手さと、牙を持った野生の前ではあまりに脆弱な一介の生き物に過ぎないという「境界線という名の鏡」に映る現実を深く自覚することだ。その冷酷なまでの傲慢さに気づくことこそが、ヒトがこの地球上で、他の命と真に向き合うための唯一のスタートラインなのである。
「キャ〜! ビリ〜! 助けて〜!トカゲだけは絶対にムリなの〜っ!!」
ヤオは悲鳴を上げて、慌ててカレの背中に飛びついた。




