裏側
周りの視線は変わらない。
それでも、現実は少しずつ動き始めています。
視線が、痛い。
廊下を歩くだけで、空気がざわつく。
「……あいつだよ」
「マジで?」
小声のつもりなんだろう。
全部、聞こえている。
聞こえていても、何も言わない。
言ったところで、何も変わらない。
それはもう、分かっていた。
講義室に入る。
一瞬だけ、視線が集まる。
そして――
スッ、と距離が空いた。
隣の席は空いたまま。
まるで最初から、そこに誰も座る予定がなかったみたいに。
静かに席に着く。
ノートを開く。
ペンを走らせる。
それだけだ。
周りの視線も、空気も、全部無視する。
(……別にいい)
どう思われようと関係ない。
今さら、失うものなんてもうない。
講義が終わる。
誰とも目を合わせず、教室を出る。
そのまま、人の少ない場所へ向かった。
校舎裏のベンチ。
静かで、落ち着く場所。
ポケットからスマホを取り出す。
通知が一つ。
見慣れない企業名。
いや――違う。
何度も調べた、志望先の名前。
画面を開く。
『内定のご連絡』
短い文面。
それだけで、十分だった。
息を吐く。
(……よし)
それだけでいい。
誰にも言わない。
言う必要もない。
ただ、自分のやるべきことをやるだけだ。
画面を閉じる。
静かな時間が、流れる。
――その頃。
「やっべ、単位足りねえかも」
笑いながら言う声。
「マジかよ」
「まあなんとかなるっしょ」
軽い口調。
焦りはない。
「就活とかどうすんの?」
「んー、適当でいいだろ。
どうせ俺、なんとかなるし」
笑い声が広がる。
その隣で、翠も笑っていた。
何も知らずに。
何も気づかないまま。
――それで、よかった。
今は、まだ。
――そして。
少し離れた場所から、その光景を見ている視線があった。
龍神葵。
腕を組み、無言で立っている。
誰かと話すでもなく、ただ見ているだけ。
本来なら、関わるつもりはない。
誰が何をしようと、興味はない。
そういう性格だ。
だが――
視線が、離れない。
(……妙だな)
小さく、呟く。
あの男――本田司。
噂は知っている。
浮気。暴力。
どれも、珍しくはない話だ。
だから普通なら、気にも留めない。
――なのに。
(あの目……)
思い出す。
あの日の、一瞬。
追い詰められていたはずの男の目。
言い訳もせず、取り乱しもせず。
ただ、立っていた。
(……あんな目をするか?)
疑問が残る。
納得がいかない。
理屈が、合わない。
それが、気に入らない。
「……面倒だな」
小さく吐き捨てる。
本来なら、放っておけばいい。
関わる理由はない。
だが――
もう一度、視線を向ける。
誰にも近づかれない場所にいる、その男へ。
(……気持ちが悪い)
この違和感が。
このズレが。
放っておけない自分自身が。
ゆっくりと、息を吐く。
「……調べるか」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
見えているものが、すべてとは限りません。
そして、見ている者もまた、変わり始めています。
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