歪んだ評価
ここから舞台は、社会人編へ。
場所が変われば、ルールも変わる。
評価も、人間関係も、すべてが“別物”になる世界で――
ツカサの物語は続きます。
そして。
新しい環境には、新しい“歪み”がある。
静寂を支配するのは、規則正しいキーボードの打鍵音だけ。無機質なオフィスで、その音だけがやけに神経を逆なでするように響いていた。
「……終わりました」
俺――本田司は、淡々と資料を差し出した。
この数日間、寝食を削って練り上げた企画書だ。完璧なデータ、精緻な分析。これ以上ない出来だと自負している。
神谷は資料を一瞥すると、手にも取らずにデスクへ弾き返した。
ペチリ、と乾いた音がオフィスに響く。
「……はあ。お前、いつになったら成長するんだ?」
神谷がため息交じりに言い放つ。周囲の視線が一斉にこちらへ集まるのが分かった。
俺は表情を変えない。変えることなど許されないと、この男は知っているからだ。
「この項目、分析が浅いな。論理的じゃない」
「ですが、それはクライアントの意向を反映したもので……」
「言い訳はいらん」
神谷は俺の言葉を遮り、わざとらしく大きく肩をすくめて見せた。
「仕方ない。せっかくの企画が台無しだ。俺が最後まで責任を持って仕上げてやるから、お前はコピー取りでもしてろ」
神谷は周囲に聞こえるように笑ってみせる。「甘いな」と俺を小馬鹿にするように。
そのまま自席に戻ると、俺が徹夜で仕上げた企画書の末尾に、まるで自分の手柄であるかのように堂々と『作成者:神谷』と打ち込んだ。
オフィス中が嘲笑に包まれる。
俺の努力をゴミのように扱い、自分の実績として塗り替える。それを「教育」という名の暴力で正当化する。
誰も何も言わない。言えない。この男は出世コースに乗っており、上層部への顔も利く。そんな神谷の機嫌を損ねれば、自分の立場まで危うくなることを、誰もが知っているからだ。
「……またやってるな」
隣の席から、同僚の高橋が苦々しげに吐き捨てるのが聞こえた。
俺は答えない。ただ、自分の手元に視線を落とす。
怒りよりも先に、胸の奥が冷たく凍りつくような感覚が走る。
――そのときだ。
「葵ちゃん」
神谷の声が、湿っぽく甘く蕩けた。
ターゲットは龍神葵。
「仕事、困ってるだろ? 俺が教えてやるよ。今夜、飲みながらでもどうだ?」
周囲がざわつく。神谷のその誘いは、誰もが知る“口説き”の合図だ。
隣では、高橋が「……またやる気かよ」と、呆れと怒りが混ざった溜息を吐いている。
葵は、一瞬だけ驚いたような顔を見せた後、パァッと花が咲くように顔を綻ばせた。
「……本当ですか? 神谷さん」
その声は、どこまでも純粋で、期待に満ちているように聞こえた。
彼女は一歩、神谷に近づく。
その距離は、明らかに近すぎる。
「私、神谷さんの仕事の仕方、ずっとすごいなって思ってて……。ぜひ、色々と教えていただきたいです!」
神谷の口元が、勝利を確信したように歪む。
葵はその歪みに気づいていないのか、それとも見ないふりをしているのか。彼女は神谷の腕に手を添え、まるで宝物を見るような目で彼を見上げている。
「任せとけ。俺が直々に叩き込んでやるよ」
神谷は葵の肩を抱き寄せ、そのままオフィスを出て行った。
二人の背中が遠ざかっていく。
俺は、ただそれを見つめることしかできなかった。
――おい、葵。
お前、まさか本気じゃないだろうな?
神谷が何を考えているのか、あんな男の何が「すごい」のか。
今の葵の目には、神谷が「頼れる上司」にしか見えていないのか。
胸の奥で、正体不明の熱が暴れる。
神谷に対する怒りなのか。それとも、あんな男にまんまと乗せられている(ように見える)葵への苛立ちなのか。
――数週間後――
「……おい、司」
高橋が俺の肩を叩く。心配そうな目だ。
「あの二人、また飲みに行ってるぞ。連日だよ。お前、あいつのこと……」
俺は高橋の言葉を遮るように、視線をモニターに固定した。
キーボードを叩く指が、微かに震えている。
神谷に情報を抜かれる。
葵が神谷の色香に堕ちて、骨抜きにされる。
そんな未来が、鮮明に脳裏をよぎる。
俺は、そんなことはさせない。
彼女がどうなろうと知ったことか。……いや、違う。
俺は、俺自身が葵を救いたいのか?
それとも、葵が他の男――あんなクズに汚されるのが、耐えられないのか。
葵、お前は一体何を考えているんだ。
その笑顔は、演技なのか。それとも……。
俺は、神谷への憎悪よりも遥かに深い、得体の知れない不安に突き落とされていた。
彼女が明日、どんな顔で出社してくるのか。
俺は、その顔を見るのが怖かった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ここからは社会人編。
大学とは違う“評価の歪み”が、少しずつ表に出てきます。
そして――
この先も、簡単にはいかない。
続きもぜひ、見届けてください。
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