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普通の夜

警察での事情聴取は、思っていたよりもずっと淡々としていた。


白い蛍光灯の下、無機質な机と椅子。

向かいに座る警察官は、特別厳しいわけでもなく、かといって優しいわけでもない、仕事として処理している顔だった。


「追いかけていた、ということで間違いないですね?」


「……はい。たまたま近くにいて、声を聞いて……そのまま」


「接触はありましたか?例えば、掴んだとか、押したとか」


「……ありました。逃げられそうだったので、止めようとして……押し合いみたいな形にはなりました」


言葉を選びながら、少しずつ出す。


自分の口から出ているはずなのに、どこか現実味がない。


警察官はペンを走らせながら、視線だけを上げた。


「そのあと相手はどうなりましたか?」


神谷は一瞬だけ黙る。


喉の奥が、妙に重い。


「……転びました。バランスを崩して、そのまま後ろに」


「頭を打った様子は?」


「……たぶん、打ってます。音がしたので……でも、そのあとが……」


言葉が続かない。


警察官はペンを止めず、静かに促す。


「そのあと、どうなりました?」


「……気づいたら、いなくなってました」


沈黙が落ちる。


自分で言っていても、説明になっていない。


だが、それ以上どう言えばいいのか分からなかった。


警察官は数秒だけ考えるように黙り、それから小さく頷いた。


「現場の状況を見る限り、そのまま逃走した可能性が高いですね。転倒後すぐに立ち上がって、そのまま走った、というケースは珍しくありません」


「……そう、ですか」


納得はできない。


だが、否定する材料もない。


「あなたに怪我はありませんか?どこか痛むところとか」


「ないです。特にぶつけた覚えもないですし、かすり傷もないと思います」


「分かりました。ご協力ありがとうございました。何かあればこちらからご連絡します」


それで終わった。


あまりにもあっさりしていて、逆に現実味がなかった。


警察署を出ると、夜はさらに深くなっていた。


街灯の白い光がアスファルトを無機質に照らしている。

人通りは減っていて、昼間のざわつきが嘘みたいに静かだった。


(……本当に逃げたのか?)


歩きながら同じことを何度も繰り返す。


倒れた瞬間。

鈍い音。

動かなかった体。


(あれで……普通に起き上がって逃げるか?)


そこまで考えて思考が止まる。


無理やり繋げようとするとどこかで引っかかる。


考えたくない、というより、

考えても答えが出ない場所に入る感覚だった。


マンションに着く。


エレベーターに乗り、無言のまま上へ上がる。

機械音だけが小さく響いてやけに長く感じた。


扉が開く。


廊下を歩く。


その途中でふと気づく。


(……電気、ついてるな)


自分の部屋のドアの隙間から、柔らかい明かりが漏れていた。


朝は確かに消したはずだ。


鍵を回す。


ガチャ。


「おっかえり〜。ずいぶん遅かったね、お兄ちゃん」


軽い声が、いつもの調子で飛んできた。


神谷は一瞬だけ立ち止まる。


部屋の中には生活の匂いがあった。


油の香りと少し焦げたような匂い。

人がいる空気。


「……何してんだよ、ほんとに」


靴を脱ぎながら言う。


美香がキッチンから顔を出した。


「ご飯作ってたの。ちょうど今できたとこだから、タイミング完璧じゃない?」


「いや、なんでそうなるんだよ。普通勝手に人の家で料理しないだろ」


「えー、でもお腹すいたしさ。それにどうせならお兄ちゃんの分も作っとこうかなって思って」


「ついでみたいに言うな」


「実際ついでだよ?」


あっさり言い切る。


テーブルには皿が並んでいた。


「チャーハン」


「見れば分かる」


「どう?見た目だけなら、まあまあ良くない?ちゃんとパラパラしてるでしょ」


「見た目はな……とりあえず食わせろ」


神谷は席に座る。


スプーンを手に取る。


一口食べる。


「……あれ」


思わず手が止まる。


「どう?なんか変な味しない?しょっぱすぎたりしてない?」


「いや……普通にうまい。想像よりちゃんとしてる」


「でしょ?ちゃんと動画見ながらやったもん」


「そこまでやるのかよ……適当に作るタイプかと思ってたわ」


「失敗したくなかったしね。せっかくならちゃんとしたの出したいじゃん」


「誰にだよ」


「自分に、かな」


さらっと言う。


神谷はもう一口食べる。


「これ普通に店で出せるレベルじゃねぇの……?」


「じゃあ家賃として毎日出すから、ここ住んでいい?」


「それはやめろ、絶対やめろ」


少しだけ肩の力が抜ける。


さっきまでのざわつきが、ほんの少しだけ遠のく。


食事が終わる頃には、空気は完全にいつものものに戻っていた。


「皿、あとで洗うよ」


「いいよ、私やるから。作ったし」


「いや、作ったやつに全部やらせるほど鬼じゃねぇよ。そこまで腐ってない」


「なにその言い方」


軽く笑いながら、神谷は立ち上がる。


水を流す。


皿に当たる音が、妙に落ち着く。


(……普通だな)


さっきまでのことが、嘘みたいに遠い。


風呂に入る。


シャワーの音が狭い空間に響く。


湯気がゆっくりと広がっていく。


目を閉じる。


(あれは……)


(俺が押した)


(でも……)


そこから先が続かない。


倒れたはずの体が、

今は“なかったこと”みたいに消えている。


「……なんなんだよ、ほんとに」


小さく呟く。


水音に紛れて消える。


風呂から出ると、美香はソファでテレビを見ていた。


バラエティ番組の笑い声が、部屋の静けさに少しだけ軽さを足している。


「お兄ちゃんさ、ちょっと長くなかった?普通に30分くらい入ってた気がするんだけど」


「そんな入ってねぇよ。ちょっとぼーっとしてただけだ」


タオルで髪を拭きながら答える。


「ほらやっぱり。ぼーっとしてる時点でなんかあったでしょ今日」


「だから何もねぇって。普通に仕事してただけだよ、いつも通り」


少しだけ言い方が固くなる。


美香はリモコンを持ったまま、じっと神谷を見る。


「その“何もない”って言い方さ、昔から分かりやすすぎるんだよね。なにか隠してるときのやつ」


「うるせぇな……いちいち人の言い方分析すんなよ」


「別に分析してるつもりないんだけどなー。なんとなく分かるだけ」


軽く肩をすくめる。


「まあいいや。無理に聞くつもりもないしさ」


それ以上踏み込んでこない。


その距離感が少しだけ助かる。


神谷はそのままベッドに倒れ込む。


スマホを手に取って、適当に画面をスクロールする。


ニュースもSNSも、全部いつも通りだった。


(……あの少年)


目は画面を追っているのに、意識は別のところに引っ張られている。


そのときだった。


ドン、と背中に重みが落ちてくる。


「うわっ!?おい、何すんだよ急に!」


「えへへ、ちょっと乗ってみただけ」


「重っ……いや普通に重いってこれ」


「ひどくない?そんな言い方されるほど重くないでしょ」


「体感で言ってんだよ、体感で」


「なにその雑な基準」


笑いながら、そのまま横に転がる。


ベッドが小さく軋む。


「いいじゃん、こういうの。昔からやってたしさ」


その言葉で、神谷は少しだけ黙る。


確かにそうだった。


同じ部屋で、こうやって騒いでいた。


何も変わっていない。


……はずなのに。


「お兄ちゃんさ」


「なんだよ」


「今日ちょっと変だよね。ずっと別のこと考えてる感じする」


図星だった。


だが、認める気にはならない。


「気のせいだろ。そんな大したことじゃねぇよ」


「そっか。ならいいけど」


あっさり引く。


それ以上は聞いてこない。


電気を消す。


部屋が暗くなる。


テレビの音も消えて、静けさだけが残る。


神谷は目を閉じる。


(……俺は誰も殺していない)


そう思おうとする。


だが――


ポケットに入れたままの財布がやけに気になる。


中にあるはずの二万円。


まだ使っていない、もう一枚。


(……まだあるよな)


確認する気にはなれない。


なのに、“そこにある”感触だけが妙にリアルだった。


意識がゆっくり沈んでいく。


その夜は何も起きなかった。


少なくとも――


表面上は。


神谷 恒一はもう後戻りできないかもしれない

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