追いかけた先に
仕事を終えて会社を出たときには、すでに空は暗くなり始めていた。
ビルのガラスに映る空は、昼の名残をわずかに残しながらも、ほとんどが夜の色に塗り替わっている。
神谷 恒一は、駅へ向かう人の流れから少し外れた道を歩いていた。
スーツ姿の人間たちが同じ方向へ流れていく中で、ほんの少しだけ距離を取るように。
特別急いでいるわけでもない。
ただ、いつもの帰り道だ。
頭の中も、特に何かを考えているわけではない。
仕事の余韻が残っているような、もう抜けているような、曖昧な状態だった。
そのときだった。
「ひったくりよ!!」
鋭い声が、背後から突き刺さる。
空気を切り裂くような、焦りと恐怖が混ざった声だった。
反射的に振り返る。
女性が必死に叫んでいる。
肩で息をしながら、両手を空中で泳がせるように動かしていた。
腕には何もない。
さっきまであったはずのものを失った、その空虚さがそのまま表情に出ている。
「誰か!捕まえてください!!お願い、あっち行ったの、あっちです!!」
震える指が前方を指す。
周囲の人間が一瞬だけ振り向く。
だが、その視線は長く続かない。
何かを察したように、すぐに逸らされる。
関わりたくない。
その空気が、一斉に広がる。
まるで、見えない線がそこに引かれたみたいに。
その中で、女性の視線が神谷に向いた。
「あなた!そこの人!お願いです、追いかけてくれませんか!?このままだと取られたままになっちゃうんです、本当に困ってて……!」
「え……いや、俺……ですか?」
思わず一歩引く。
巻き込まれる。
その感覚が、先に来る。
だがその瞬間、逃げる影が視界に入った。
自転車。
細い背中が必死にペダルを踏んでいる。
無理に速度を上げているせいか少しふらついている。
(……マジかよ)
考えるより先に体が動いた。
「待て……!止まれ!」
声は思ったよりも小さい。
だが、それでも足を前に出していた。
スーツのまま、舗装された道を蹴る。
革靴が地面を打つ音が、やけに重く響く。
「っ……は……っ……!」
すぐに息が上がる。
胸が締め付けられるように苦しい。
(なんでこういうときに限って……!)
心の中で悪態をつきながらも、足は止めない。
距離はほんのわずかにだが縮まっている。
逃げる男は振り返りもしない。
背中だけで「逃げ切る」という意思を見せている。
そのまま、細い路地へと自転車ごと突っ込んだ。
「そっち行くのかよ……!」
神谷も迷わず追いかける。
建物の間に入った瞬間、視界が一気に狭くなる。
外のざわめきが遠のき、別の空間に入ったような感覚になる。
空気が少し冷たい。
「はぁ……はぁ……っ……」
足が重い。
肺が焼けるように痛い。
それでも――
路地の先で、自転車が止まった。
行き止まりだった。
コンクリートの壁が逃げ道を完全に塞いでいる。
「くそっ……なんだよこれ……!」
男が苛立ち混じりに吐き捨てる。
自転車を乱暴に投げるように置き、ヘルメットを外す。
その動きには余裕がない。
焦りがそのまま形になっている。
露わになった顔は――思っていたよりもずっと若かった。
まだ幼さの残る輪郭。
(……高校生くらいか?)
神谷は息を整えながら、一定の距離を保つ。
近づきすぎれば危険だと、本能が告げていた。
「……おい」
声をかける。
少し低く、落ち着かせるように。
「それ、返せ。今ならまだ間に合う。大ごとにする必要ないだろ」
「うるせぇよ……」
少年はバッグを抱え直す。
腕に力が入りすぎて、指が白くなっている。
「返すわけねぇだろ。こっちは遊びでやってんじゃねぇんだよ……マジで必死なんだよ!」
「必死なのは分かるけどな、それでも人のもん盗っていい理由にはならねぇだろ」
「うるさいって言ってんだろ!」
声が裏返る。
怒鳴り声なのに、どこか弱い。
怒りよりも、焦りと恐怖が混ざっている。
神谷はゆっくり一歩踏み出す。
「いいから落ち着けって。警察には言わないって言ってるだろ。だからそれ置いていけ。今ならまだ引き返せる」
「黙れ!!」
少年が一気に距離を詰めてくる。
迷いのない突進だった。
「……っ!」
反射的に受け止める。
肩と肩がぶつかる。
衝撃が体に伝わる。
押し合いになる。
力の差はある。
だが、少年も全力で食らいついてくる。
「離せよ!いいから離せって!!」
「だから落ち着けって言ってんだろ……!こんなことしても余計に――」
言い終わる前に、体がぶつかる。
壁に肩が当たる。
足元が、わずかに滑る。
ほんの少しのズレ。
それだけだった。
バランスが崩れる。
「……っ!」
次の瞬間――
少年の体が、後ろへ倒れた。
「待っ……!」
手を伸ばす。
掴めそうで、届かない。
そのまま――
頭から、地面にぶつかった。
鈍い音が、路地に響く。
乾いた、嫌な音だった。
空気が止まる。
時間が一瞬だけ切り取られたみたいに動かなくなる。
「……おい」
動かない。
「……おい、ちょっと待てよ……冗談だろ……」
反応がない。呼吸も、聞こえない。
「……嘘だろ」
喉が乾く。
心臓の音だけがやけに大きく響く。
(俺が……やったのか?)
時間の感覚が曖昧になる。
数秒なのか、それとももっと長かったのか分からない。
ただその場に立ち尽くしていることしかできなかった。
そのとき――
「お巡りさん!こっちです!」
現実を引き裂くように、声が響く。
さっきの女性だ。
「ここです!この路地です!さっき追いかけてた人がこっちに入っていって、そのまま……!」
足音が近づく。
複数の靴音が、狭い空間に反響する。
警察官が二人、路地に入ってくる。
「大丈夫ですか!?ケガはありませんか?」
「君、ここで何があったんだ?ひったくりの犯人はどこにいる?」
神谷は一歩下がる。
「あ……いや、その……今……ここに……」
言葉がまとまらない。
頭の中が、まだ整理できていない。
「犯人はどこだ?まだ近くにいる可能性がある。見た方向は?」
警察官が周囲を見回す。
神谷は、ゆっくり視線を落とした。
――さっきまで、確かに倒れていた場所。
「……は?」
何もない。
血もない。
少年の姿もない。
ただ――
倒れた自転車と、転がったヘルメット。
そして、バッグだけが、ぽつんと残っている。
「……いや、ちょっと待ってください……今ここにいたんです、倒れて……頭打って……動かなくて……」
自分でも分かる。
言葉が現実を説明できていない。
「犯人、逃げたみたいですね」
警察官が淡々と言う。
「え……いや、違う……逃げたとかじゃなくて……」
否定しながら、言葉が弱くなる。
女性も不安そうに周囲を見ている。
「さっきここで音がしたんです……何か倒れるような、ゴンって……だからてっきり……」
「音、ですか?」
警察官が眉をひそめる。
神谷は言葉を失う。
(……音、したよな)
確かに。
あの鈍い音。
あれは確かに――
「……」
喉の奥で言葉が止まる。
現実が微妙に噛み合っていない。
まるで一部だけ切り取られて消えたみたいに。
「とりあえず、詳しい事情を聞かせてもらえますか。落ち着いてでいいので、最初から順番に説明してもらえますか」
警察官の声が現実に引き戻す。
神谷は小さく頷くことしかできなかった。
だが頭の中では同じ疑問だけが繰り返されていた。
(……今の、なんだったんだよ)
さっきまで“確かにそこにいたもの”が、
最初から存在しなかったみたいに消えている。
その違和感だけが、妙にはっきりと残っていた。
神谷 恒一はもう後戻りできないかもしれない




