使える金
この作品面白いと思っていただけたらうれしいです( ノД`)
朝のオフィスは、いつも通りの空気だった。
キーボードの音が規則正しく響き、コピー機が低く唸る。
コーヒーの匂いと、まだ眠りきっていない人間の気配が混ざっていた。
神谷 恒一も、その中に紛れている。
席に座り、パソコンを起動する。
立ち上がりを待つ数秒が、妙に長く感じた。
(今日も、これか……)
昨日のことは、どこか遠くの出来事みたいに現実感が薄い。
「神谷さん!」
後ろから声が飛んできた。
振り向くと、同僚の佐藤 和馬が立っていた。
「おはようございます!昨日ほんとすみませんでした!仕事、ほぼ丸投げみたいになっちゃって」
「丸投げってほどでもないだろ。あのくらいなら普通に終わるし」
神谷は軽く肩をすくめる。
佐藤は苦笑いしながら頭をかいた。
「いやー、神谷さんだからですよそれ。自分だったら普通にパンクしてましたって、あれ」
「それはお前の処理能力の問題だろ」
「うわ、地味に刺さるやつ来た……」
少しだけ肩を落としつつも、どこか楽しそうに笑う。
「でもほんと助かりました。今度なんか奢りますよ」
「別にいらん。そういうの気使うくらいなら、最初から自分で終わらせろ」
「それができたら苦労してないんすよ……」
軽いやり取りを残して、佐藤は自分の席へ戻っていった。
神谷はモニターに視線を戻す。
(……いつも通りだな)
仕事も、人も、空気も変わらない。
ただ一つだけ違うのは――ポケットの中の“それ”。
(……まだあるんだよな)
二万円。
財布に入れてもいいはずなのに、なぜかそのままにしている。
理由ははっきりしない。
ただ、“混ぜたくない”という感覚だけがあった。
午前中は淡々と過ぎた。
資料の修正をして、軽い会議に出て、メールを返す。
やることは全部いつも通り。
それなのに、ふとした瞬間に頭をよぎる。
(……あの金)
昼前、神谷は席を立った。
「ちょっと外出てくる」
誰に言うでもなく呟き、そのままオフィスを出る。
外の空気は少しだけ冷たい。
会社の近くには、自動販売機が並ぶ細い通りがある。
飲み物だけじゃなく、軽食も売っている場所だ。
人通りは少なく、昼なのにどこか静かだった。
神谷はその前で足を止める。
(……試してみるか)
ポケットに手を入れる。
二万円。
(普通に使えるなら、それで終わりだ)
財布から一万円札を取り出し、自販機に差し込む。
「……入るな」
当たり前のように吸い込まれる。
ランプが点灯する。
神谷は少し迷ってから、カツサンドのボタンを押した。
「まあ、これでいいか……」
ガコン、と音がして箱が落ちてくる。
取り出すと、ほんのり温かい。
お釣りも問題なく出てきた。
「……使えたな」
箱を軽く振る。
中身も、どう見ても普通のカツサンドだ。
「なんだよ……もっとこう、なんかあるかと思ったのに」
思わず小さく笑う。
拍子抜け、という感覚が一番近い。
会社に戻る途中、歩きながら箱を眺める。
(見た目も使い方も、ただの金だな……)
それ以上でも、それ以下でもない。
オフィスに戻ると、また佐藤が話しかけてきた。
「お、神谷さん。それ昼っすか?いいっすね、なんか当たり引いた感じじゃないですか」
「ああ、さっきの自販機で買ったやつ」
「やっぱり!あそこ地味にうまいんすよ。なんか昔からあるっぽい感じで」
「そうなのか?見た目は普通だけどな」
「いや、普通なんすけどね。その普通がいいっていうか。変に凝ってないっていうか」
「微妙に分かるような分からんようなだな、それ」
「いやほんと食べてみてくださいって。コンビニより好きな人、結構いますよ」
「へぇ……」
神谷は箱を机に置く。
「お前、あそこよく使うのか?」
「いや、頻繁ではないですけど。外出るの面倒なときとかにたまに」
少しだけ声のトーンが落ちる。
「あと……あそこ、人少ないじゃないですか」
「まあ確かに」
「なんか落ち着くんすよね。ああいう場所って。ちょっとだけ現実から離れる感じで」
神谷は一瞬だけ、その言葉に引っかかる。
(……現実から離れる、か)
だが、それ以上は何も言わなかった。
午後も仕事は順調に進む。
トラブルもなく、ただ時間だけが過ぎていく。
それでも、頭の片隅には残り続ける。
(……もう一枚あるんだよな)
まだ使っていない二万円。
ポケットの中に、確かにある。
夕方。
佐藤がまた声をかけてきた。
「神谷さん、今日残業します?」
「たぶんな。ちょっと片付けたいのがある」
「じゃあ自分も残りますよ。ひとりだとなんかサボりそうなんで」
「終わってるなら帰れよ。無理して残る意味ないだろ」
「いやーでも、誰かいるとやる気出るんすよ。たぶん自分、そういうタイプなんで」
「知らんけど……まあ好きにしろ」
「冷たいっすねー」
笑いながら自分の席に戻っていく。
その背中を見ながら、神谷は小さく息をつく。
(……距離近いな、こいつ)
嫌ではない。
ただ、少しだけ慣れない。
帰り際。
ポケットに手を入れる。
紙の感触。
(……まあ、とりあえず使えるのは分かったか)
それだけで、十分な気もする。
夜の街へ出る。
昨日と同じ道。
ポケットの中の二万円も、ただの紙みたいに軽い。
――少なくとも、“今はまだ”。
神谷 恒一はサンドイッチ買えて満足している




