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理由

朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。


薄く白い光が床に落ちて、まだ完全に起ききっていない部屋の輪郭だけをぼんやり浮かび上がらせている。


神谷 恒一は、リビングのテーブルに肘をついたまま、ぼんやりとコップの水を見ていた。


頭は起きているようで起きていない。

昨日の疲れが残っているのか、それとも別の何かのせいなのか、自分でもよく分からなかった。


そこへ、キッチンの方から軽い声が飛ぶ。


「お兄ちゃん」


「……ん、起きてる」


返事だけが遅れて出る。


美香は冷蔵庫を勝手に開けて、昨日入れたペットボトルを当然のように取り出していた。


「ねえさ、私がここに住んでる理由、ちゃんと聞きたい?」


神谷は一瞬だけ目を細める。


「……今さらそれ聞かせる気なのか?」


「今さらでもいいじゃん。タイミングってあるでしょ、こういうの」


「いや普通は最初に言うやつだろ。順番おかしいんだよ」


美香は軽く肩をすくめて、ジュースを一口飲む。


「それは分かってるんだけどさ、なんかそのまま流れで来ちゃったというか」


「流れで人ん家住むなよ」


「人生ってさ、だいたい流れでできてない?」


「無理やりそれっぽく言うな」


神谷はコップの水を一口飲む。


味のない水が、やけに落ち着く。


美香は向かいの椅子に座り、足を軽く揺らしながら続ける。


「最初はね、普通にお兄ちゃんに会いたかったから来たんだよ」


「……いや、それ本気で言ってる?」


神谷の動きが止まる。


「うん、割と本気」


「いや絶対違うだろ。お前そういうタイプじゃねぇし」


即答だった。


美香は少しだけ笑う。


「やっぱバレるか。さすがにそこは通用しないよね」


「当たり前だろ。もっとマシな理由考えてこい」


「えー、じゃあちょっとだけ本当のこと言うね」


神谷は小さくため息をつく。


「……最初からそれ言えよ」


美香は視線を少しだけ逸らしてから、続ける。


「お母さんにさ、住所聞いたらさ」


「うん」


「私の大学から、電車でそんな遠くなかったの」


「……ああ、それはまあ分かるな。距離的に来れなくはない」


神谷は少しだけ納得する。


「あとさ」


「まだあるのかよ。なんか小出しにしてくるな」


美香は一瞬だけ黙って、それから軽く笑った。


「……普通に、久しぶりに会ってみたかったし」


その言い方だけ、少しだけ温度が違った。


神谷はすぐに返せなかった。


(……そういうの、急に入れてくるなよ)


気まずさをごまかすように、水をもう一口飲む。


「だったら事前に連絡くらいしろよ。いきなり来るな」


「連絡したらさ、来ていいって言う?」


「言わないな。たぶん断る」


「でしょ?だから先に来たの」


「ほらねじゃねぇよ、それただの強行突破だからな」


やり取りは、昔とほとんど変わっていない。


むしろ、距離だけが少し不自然に近い。


神谷はそこでふと、昨日のことが頭をよぎりかけて、すぐに止めた。


(やめとくか……朝から考えるもんじゃねぇ)


ナイフ。

倒れた男。

消えた痕跡。


そして、残った二万円。


美香の声が再び戻ってくる。


「ねえお兄ちゃん」


「なんだよ、まだなんかあるのか」


「今日って仕事?」


「ああ、普通にある。いつも通り」


「帰り遅くなりそう?」


「まあ、たぶんな。定時で帰れたらいいけど期待はしてない」


美香は立ち上がる。


「じゃあ私、適当に出かけてくるね」


「その“適当”ってのが一番信用ならねぇんだよ」


「ちゃんとした予定ある人の顔してる?」


「してないな。むしろ暇そうにしか見えない」


「でしょ。だから適当でいいの」


「開き直るな」


美香は笑いながら玄関に向かう。


途中で振り返る。


「いってらっしゃい、お仕事がんばってね」


「お前が出る側だろそれ。使い方間違ってる」


「細かいこと気にしすぎ。そういうとこ昔からだよね」


「うるせぇよ」


美香はそのままドアを開ける。


「じゃ、いってきまーす」


ガチャ。


軽い音がして、部屋が一段階静かになる。


神谷はしばらくそのまま座っていた。


(……なんだこれ)


昨日までの一人暮らしが、もう思い出しにくい。


静かだったはずの部屋に、最初から誰かいたような錯覚すらある。


そのときだった。


テーブルの上に、視線が止まる。


二万円。


昨日と同じ紙幣。


神谷は無意識に手を伸ばし、指で軽く押さえる。


紙の感触は、ただの紙だ。


なのに妙に“そこにあるべきじゃない感じ”が残る。


(……昨日これ、ポケットに入れて帰ったよな)


確かにポケットに入れたはずだった。

そのまま部屋に戻って、机に置いた記憶もある。


なのに、今ここにある。


神谷は小さく息を吐く。


「……ほんとに何なんだよ、これ」


声は誰にも届かない。


外からは普通の朝の音がする。


車の音。

遠くの話し声。

日常そのもの。


それなのに、この部屋の中だけが、少しだけ噛み合っていない。


神谷は立ち上がり、財布を確認する。


中には、入っていない。


(……やっぱりな)


もう一度、二万円を見る。


理由は分からない。


ただ一つだけ確かなのは、


昨日の出来事は、終わっていない。


そして――


それは、確実に「ここ」に繋がっている。


神谷はゆっくりとその金を見下ろしたまま、動かなかった。


神谷 恒一はお金に目がない

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