変わらない距離感
短編になるかもしれませ
神谷 恒一は、昔から人付き合いが得意な方ではなかった。
会話が嫌いというわけではない。
ただ、言葉を選んでいるうちにタイミングを逃し、そのまま沈黙になってしまうことが多かった。
その沈黙を埋めるのも苦手で、結局「黙っていた方が楽だ」という結論に落ち着いていった。
一方で、美香は真逆だった。
誰にでも話しかけるし、距離がやたら近い。
初対面でも平気で踏み込む。
そのくせ踏み込み方に悪意がないから、止めるタイミングもなかった。
家は広くなかった。
二人にそれぞれの部屋なんてものは当然なくて、神谷と美香は同じ六畳の部屋で過ごしていた。
机が壁際に一つ、布団が二つ、タンスが一つ。
それでほとんど埋まっていた。
「兄妹の部屋」というより、「一つの部屋に二人分の生活を押し込んだ場所」という方が近かった。
夜になると、その部屋にはいつも違うリズムが流れていた。
神谷は机に向かって教科書や本を開いている。
一方で美香は、布団の上で足をぶらぶらさせながらスマホをいじっている。
「ねぇお兄ちゃん」
「……ん」
神谷は視線を本から外さないまま返事をする。
「今日さ、学校でさー、うちの担任がさ、急に黒板の前で歌い出してさ」
「……なんだそれ、授業中にか?」
「そうそう、しかも普通に真顔で歌い出すの。クラス全員ぽかーんってなっててさ」
「……やべぇ先生じゃねぇか」
「でね、これがまた結構うまいの。無駄にうまいの。そこが一番腹立つの!」
「意味わかんねぇよ……なんで上手くてムカつくんだよ」
「だってさ、普段あんな地味なのに急に主役みたいなことするじゃん?ずるくない?」
「知らねぇよそんな評価基準」
美香は笑いながらスマホに視線を戻す。
神谷はページをめくる。
その間も、美香は止まらない。
「ねぇ、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるって」
「ほんとに?適当に流してない?」
「流してねぇよ。一応ちゃんと聞いてる」
「じゃあ今の話まとめて」
「……担任が黒板の前で急に歌って、しかも無駄に上手かった」
「そう、それ。雑だけどまあ合ってる」
「雑って言うな」
「だってもっと面白かったもん、実際は」
「お前の説明が雑なんだろ」
「ひど」
そんなやり取りが、毎日のようにあった。
神谷はそれが少し苦手だった。
嫌いではない。ただ、どこで相槌を打てばいいのか分からず、気づけば会話が終わっている感じが落ち着かなかった。
美香は気にしない。返事がなくても勝手に続ける。
「ねぇお兄ちゃんさ、将来なにになるの?」
「……知らん。まだ決めてない」
「えー、もう高校生じゃん。そろそろ決めときなよ」
「今決めるもんでもないだろ。流れでどうにかなる」
「それ絶対ダメなやつじゃん」
「お前に言われたくねぇよ」
「私は決めてるもん」
「……なに」
美香は胸を張って言った。
「アイドルになる」
「勝手にしろよ」
「応援してくれるよね?」
「しない。絶対しない」
「えー!?なんで!?そこはするって言うとこでしょ普通!」
「普通ってなんだよ」
「お兄ちゃんってほんと冷たいよね」
「現実見てるだけだ」
「じゃあ私が有名になっても知らないからね?」
「そのとき考える」
「ひど……でもまあいいや」
それでも笑っている。
その部屋にはテレビもあったが、使われることは少なかった。
父親が帰ってくる時間は遅く、母親は台所にいる時間が長かった。
夕方になると、母がドアの外から声をかける。
「ご飯できたよー」
「今行く」
「お兄ちゃん、ゲームちゃんとセーブしてから来てよ?」
「してない」
「え!?してないの!?ちょっと待ってよそれ死ぬじゃん!」
「お前が話しかけるからだろ」
「私のせい!?」
「どう考えてもお前のせいだろ」
「じゃあ責任取ってレベル上げ手伝ってよ!」
「やらねぇよ」
そんな雑な会話が日常だった。
やがて神谷が高校を卒業する頃、少しずつ「外に出たい」という気持ちが強くなった。
決定的な出来事があったわけではない。
ただ、同じ部屋、同じ時間の繰り返しの中で、自分だけが動いていないような感覚があった。
夕食のあと、神谷は言った。
「俺、都会で働くわ」
母は一瞬箸を止めた。
「どうしたの急に。珍しいじゃない、自分からそういうこと言うの」
「急でもない。前からなんとなく考えてた」
「ちゃんと考えてたの?」
「まあ……ちゃんとってほどじゃないけど」
父はテレビを見たまま短く言う。
「そうか。ならいいんじゃないか」
それだけだった。
少しの沈黙のあと、母が笑う。
「ちゃんとご飯食べていけるの?」
「それくらいはどうにかする」
「なら安心だけど」
美香は味噌汁を飲みながら言った。
「ふーん……じゃあ私も行く」
「来るなって言ってんだろ」
「なんで?一緒に住めばいいじゃん」
「無理に決まってんだろ。絶対うるせぇし」
「ひど!そんなことないし!」
「ある」
「じゃあ遊びに行くから」
「それも頻度による」
「毎週行く」
「来るな」
「じゃあ毎日電話する」
「やめろ」
「なんでそんな嫌がるの!?」
「静かに暮らしたいんだよこっちは」
「えー、つまんな」
そのやり取りに、母が軽く笑った。
「ほんと仲いいわね、あんたたち」
「よくない」
神谷は即答した。
それから数年。
神谷は都会で一人暮らしを始めた。
静かで、誰にも話しかけなくていい生活。
最初はそれが妙に楽だった。
余計な会話も、返しを考える時間もいらない。
(これでいい)
そう思っていた。
はずだった。
「お兄ちゃん」
現実に引き戻す声がした。
神谷はリビングの方を見る。
そこには、当然のように家の中を歩いている美香がいた。
「……なんでお前、そんな当たり前みたいな顔でいるんだよ」
「え?だってもうここ私の家みたいなもんでしょ?」
「いつからそうなったんだよ」
「ついさっきからかな」
「説明になってねぇんだよ」
美香は気にせず冷蔵庫を開ける。
「ねぇお兄ちゃん、この冷蔵庫ちゃんとしてるじゃん。もっとこう、飲み物しかないと思ってた」
「何だと思ってたんだよ俺の生活」
「水道水とカップ麺だけの世界」
「偏見がひどすぎるだろ」
ペットボトルを取り出して、普通に飲む。
「ねぇ、あとでお風呂入るから覗かないでね?」
「覗くわけねぇだろ。誰がそんなことするか」
「ほんとに?ちょっとくらい好奇心とかないの?」
「ねぇよ」
「ふーん……じゃあ信じるけど」
そのままタオルを持って浴室の方へ向かう。
神谷はその背中を見ながら、深く息を吐いた。
(なんで普通にいるんだよ……)
昨日までの出来事と、今この日常が同時に存在していることが、どうにも整理できない。
そこへ、美香の声がもう一度飛んでくる。
「ねぇ」
「なんだよ、まだなんかあるのか」
振り返ると、扉の前で止まっていた。
「お兄ちゃんさ」
「うん」
「昔からさ、ほんと変わんないよね。こういうとこ」
「どの口が言ってんだそれ。お前の方がよっぽど変わってねぇだろ」
「そういうとこだってば」
「だからどこだよ、ちゃんと説明しろ」
美香は少しだけ笑って、
「ま、いっか。そういうとこ含めてお兄ちゃんだし」
と言った。
「じゃ、いってきまーす」
ドアが閉まる。
ガチャ。
静かになる。
神谷は一人残されたリビングで、しばらく動かなかった。
(……変わってないのは、どっちだよ)
その言葉だけが、部屋の中に静かに残っていた。
神谷 恒一は思いとどまっている




