帰宅
■神谷 恒一
普通の会社員。
昨日までは。
部屋に戻ったとき、外の夜はすでにかなり深く沈んでいた。
玄関の鍵を回して閉める音が、やけに硬く響く。
それだけの音なのに、外の世界との境界線がそこで切り離されたような感覚があった。
「……はぁ」
靴を脱ぎながら、その場に少し立ち尽くす。
身体は帰ってきているのに、意識だけがまだあの住宅街に残っている。
ナイフ。
倒れた感触。
そして、何もなかったように消えた“痕跡”。
(……あれは、確かに……起きたはずだ)
思い出そうとすると、映像の途中だけがぼやける。
手の感触だけが妙に鮮明で、それ以外が抜け落ちている。
「……忘れろ。今は考えてもどうにもならないだろ」
小さく呟いて、思考を強制的に切る。
コンビニ袋をキッチンに置き、冷蔵庫に放り込む。
弁当の存在がやけに現実的で、逆に気持ち悪かった。
(今これ食う気は起きないな……胃が受け付けない)
そっと扉を閉める。
時計を見ると、日付はもう変わりかけていた。
(明日も仕事か……いや、当たり前なんだけどな)
当たり前のはずの言葉が、今日は少しだけ重い。
「……寝るしかないか。変なこと考える前にさっさと寝ちまった方がいい」
ベッドに腰を下ろし、そのまま後ろに倒れ込む。
天井を見上げると、部屋の静けさが逆に耳に刺さる。
「ほんと……何も考えたくないんだけどな。こういう時に限って、頭が勝手に動くんだよな……」
目を閉じかけた、その瞬間だった。
ピンポーン。
玄関のチャイム。
「……は?」
神谷はそのまま固まる。
一拍遅れて、心臓が跳ねる。
(この時間に……誰だよ。こんなタイミングで来るやつなんてロクでもないだろ)
警察という単語が浮かぶが、すぐに別の嫌な想像に上書きされる。
(いや、まさか……警察じゃないよな……)
ゆっくり立ち上がる。
「……頼むから、やめてくれよこういうの。今日これ以上はマジで勘弁してくれ」
誰に向けたでもない小声が出る。
足音を抑えるつもりもないのに、やけに静かに響く。
玄関に近づき、覗き穴を覗く。
「おにーちゃん、起きてる~?」
軽すぎる声だった。
場違いなほど明るい。
神谷は一瞬フリーズする。
(……え?今の声……)
もう一度覗く。
そこに立っていたのは見覚えのある顔だった。
「……は?」
神谷 美香 21歳。
思わず声が漏れる。
神谷はすぐに鍵を外し、ドアを少しだけ開ける。
「……ちょっと待て。なんでお前がここにいるんだよ、こんな時間に突然」
美香は悪びれもせず、軽く手を振る。
「えー、そんなに警戒しなくてもいいじゃん。普通に来ただけだし、そんな変なことしてないよ?」
「いや、“普通に来ただけ”で済む距離じゃねぇだろここ。何時間かかって来てんだよ」
「うーん、電車何本か乗ったけど、そんな大したことなかったよ?意外と近かったし」
「近いわけあるか。距離の感覚どうなってんだよお前……」
神谷は額を押さえる。
「てかさ、そもそもなんで俺の住所知ってんだよ。教えた覚えないんだけど」
「あー、それ?お母さんに聞いたら普通に教えてくれたよ。“あの子なら大丈夫でしょ〜”って」
「……あぁ、もう最悪だな。あの人ほんとに何でも喋るな……」
思わず本音が漏れる。
美香は気にせず続ける。
「でさ、話変わるけど、今日からしばらくお世話になるからよろしくね」
「……は?いや待て、今なんて言った?」
「だから、しばらくここ住むって話。ちゃんと今言ったじゃん」
「聞いてねぇよそんな話!許可もしてないし、そもそも急すぎるだろ!」
「でももう荷物は置いてきたよ?ずっと持ってるの重いし、先に下ろしといた」
「置いてきた!?どこにだよそれ!」
美香は当然のように後ろを親指で指す。
「ほら、玄関の横あたり。邪魔にならないとこ選んだから安心して」
「“あたり”じゃわかんねぇんだよ……なんでそんな雑なんだお前……」
神谷は深く息を吐く。
「いやほんと……今日どうなってんだよ。さっきから意味わかんねぇことしか起きてねぇぞ……」
その言葉はほぼ独り言だった。
(さっきのあれも意味わかんねぇし……今これもかよ)
美香は靴を脱ぎながら、普通に話を続ける。
「ねぇねぇ、おにーちゃんの部屋全然散らかってないじゃん。もっと汚いと思ってたのに」
「今そういう評価いらないんだけど……てか勝手に上がるなってまだ言ってる途中だろ」
「冷蔵庫使っていい?お腹すいたし、なんか入ってない?」
「勝手に決めるなって言ってるだろ。人の話ちゃんと聞けよ」
「じゃあ使うね~。あとでちゃんと許可取ったってことにしといて」
「そういう問題じゃねぇっての……」
だが美香はすでに半分部屋に上がっている。
神谷は玄関に立ったまま、その背中を見ているしかなかった。
(なんでこうなるんだよ……今日一日で現実感バグりすぎだろ)
さっきの“非現実”がまだ頭の中に残っている。
そこに、あまりにも普通すぎる妹の侵入が重なってくる。
「おにーちゃん、この部屋ちょっと寒くない?エアコンちゃんと効いてる?」
「知らねぇよ……さっき帰ってきたばっかなんだから分かるわけないだろ……」
後ろから聞こえる声だけが、やけに現実的だった。
そしてその“普通さ”が、逆にさっきの異常をじわじわと引きずり出してくる。
(今日は何もかも変だ……)
神谷はゆっくりドアを閉めた。
カチリ、と鍵がかかる音が、やけに大きく響いた。
神谷 恒一は美香の登場に混乱している!




