落ちていたもの
読んでいただきありがとうございます。面白いと思っていただけたらうれしいですね
仕事を終えたのはいつもより少し遅い時間だった。
神谷 恒一は、駅から自宅までの道をゆっくり歩いていた。
肩には仕事の疲れが重く沈み込み歩幅は無意識に小さくなる。コンビニの袋が片手で軽く揺れていた。
中身は安い弁当と飲み物。
特別なものはない。今日も昨日の延長で明日も同じように続くはずだった。
夜の街は静かだった。
車の音は遠く、時折通り過ぎる自転車の風切り音だけがやけに耳に残る。
街灯の明かりは等間隔に並んでいるのに、ところどころだけが抜け落ちたように暗い。
(……なんか今日は妙に疲れるな)
そう思っても声には出ない。言葉にしてしまうほどの余裕もなく、その思考はそのまま頭の中で流れて消えていく。
(明日も仕事か……当たり前だけどさ)
ため息すら出ず、呼吸だけが淡々と続く。
交差点を渡り、住宅街に入ると空気の質が変わったように感じた。人の気配が一気に薄くなり、街そのものの音が小さくなる。建物はあるのに、そこに“生活している感じ”が希薄だった。
街灯の数も減り、視界の端がじわじわと暗さに沈んでいく。まるで明るい世界から、少しずつ薄い膜の向こう側に入っていくような感覚だった。
(静かすぎるな……)
その違和感は、まだ確信にはなっていない。
前方に人影が見えたのはそのときだった。
最初は気にしなかった。夜道では珍しくもない。ただの通行人だと頭は自然に処理していた。
だが近づくにつれてその人物に対する情報が妙に曖昧だと気づく。黒いフードを深くかぶっているせいで顔が見えないというだけではなく、輪郭そのものが少しぼやけているような視線が定まらない奇妙な感覚があった。
(……なんか、見えにくいな)
目の疲れかと思いかけるが、違和感は消えない。
(暑くないのかあれ……いや、どうでもいいか)
無理に思考を流して距離を詰める。
(すれ違えば終わりだ)
そう自分に言い聞かせる。
足音が近づくにつれて、なぜか周囲の音が一段薄くなったように感じた。自分の足音すら少し遠くで鳴っているような感覚がある。
(なんか……嫌な感じするな)
理由はない。ただ体のどこかがわずかに緊張している。
すれ違う直前、その人物の肩が小さく動いた。
「……っ」
思考より先に身体が動いていた。神谷は相手の腕を押さえていた。
その瞬間、手の中に冷たい硬い感触が伝わる。
「……は?」
視線を落とすと、そこにはナイフがあった。街灯の光を受けて刃先がわずかに光り、現実のものとしてそこに存在していることだけが強く伝わってくる。
(なんでこんなもんが……?)
理解が一瞬遅れる。
「おい……ちょっと待てって!」
声をかけるが反応はない。こちらの言葉が届いている気配すらない。
相手の動きは止まらない。むしろ神谷の存在を“認識していない”ような不自然さがある。
(話通じてないのか?いや……そもそも見てない?)
ナイフが振られる。
「っ!」
とっさに腕で弾く。鈍い衝撃が骨に響き現実的な痛みが遅れて追いかけてくる。
(痛い……本物だこれ)
「やめろって!何なんだよお前!」
叫ぶが、返事はない。言葉という手段が成立していない。
ナイフは再び振られる。
神谷は後退しながら必死に避ける。呼吸が早くなり、視界の端が少しずつ狭くなっていく。
(なんで……なんで誰も出てこない……!)
住宅街の家には明かりがついている。人がいる気配もあるはずなのに、窓もドアも一切動かない。
「助けてくれよ!誰か!」
声は夜に吸い込まれ、反響すらしない。
(聞こえてるはずだろ……普通……)
だが状況は変わらない。
押し合いの中で足元のバランスが崩れる。
(やばい――)
その瞬間、手元の感覚が一瞬だけずれた。
どちらの動きでもない、わずかな“噛み合わなさ”のようなもの。
(今の……何だ?)
ナイフの向きが変わる。
「え――」
その直後、空気が一瞬だけ静止したように感じた。
相手の動きが止まり、神谷の視線がゆっくりと落ちる。
胸元にナイフが刺さっていた。
「……は?」
理解が追いつかない。
相手は自分の胸を見下ろしたまま、わずかに遅れて崩れ落ちる。
アスファルトに倒れる音が、やけに大きく響いた。
静寂が戻るが、それは先ほどまでの静けさとは違っていた。音が消えたのではなく、最初からそこに“何もなかった”ような空白に近い。
「……おい……」
神谷の声はかすれている。
(俺が……やった?)
手が離れない。現実感だけが少し遅れて追いついてくる。
「いや……違うだろ……」
自分に言い聞かせるように呟くが、状況は整理できない。
スマホを取り出すが、指が止まる。
(これ、どう説明するんだ……?)
画面を見つめたまま動けない。
「……くそ……」
その瞬間、一瞬だけ視線を逸らした。
風の音と、遠くの車の音だけが戻る。
もう一度視線を戻す。
「……は?」
そこには何もなかった。
「……え?」
神谷は数歩後ろに下がる。
「ちょっと待て……どこいった……」
地面には痕跡がない。血も、ナイフも、人も。
(さっきまで確実にここに……)
「なんなんだよこれ……」
そのとき、視界の端に小さなものが落ちているのが見えた。
しゃがんで拾う。
紙幣だった。
「……金?」
二万円。
しかし違和感がある。
「全部……同じ番号?」
裏面に小さく印字されている。
使用済
「……は?」
神谷は動きを止める。
(使用済って……何だよ)
夜の住宅街は静かだった。
だがその静けさは、さっきまでと同じものではない。
何かが確かに、そこから“抜け落ちている”。
神谷はしばらく、その場から動けなかった。




