連関は境界を結ぶ共鳴か-1
「コラ、奏介!」
とある昼下がり。俺がリビングのソファで寝転がって雑誌を読んでいると、いきなり母がそれを取り上げてきた。
「……何だよ」
「何だよ、じゃない。あんた、夏休みだからってゴロゴロしすぎ」
……また来た、母の小言モード。
……ったく。昨日は昨日で、自分の部屋に籠って涼んでいたら「電気代がもったいない」と言われた。だから今日は、大人しくリビングで涼んでたってのによ。
「別に良いだろ、夏休みぐらい」
「良くない。あんた、課題はやったの?」
「……う」
無論、やってない。やっている訳が無い。
夏休み前にどっさり貰ったプリントの束は、まだほとんど鞄の中に仕舞ったままだ。夏休みは、まだ長い——そう思っているうちに、気付けばとっくに一週間経っていた。……やらないといけないのは分かっているが、それでもいつも、“まだいっか”と思ってしまう。
「部屋も散らかってるし、いつになったら掃除すんの」
「そのうちやるっつってんだろ」
「そのうち、そのうち……って、いつやる気なのよ。あんたの部屋、散らかりすぎて掃除機かけれないんだけど」
「……」
……確かに、俺の部屋は汚いのかも知れない。
床は音楽雑誌に、教本に、CDが散らかっている。机の上はノートや教科書に、よく分からないバンドのフライヤーまでが山積みになっている。更にはペンや付箋や、ギターの備品もあちこちに紛れているから、母から見ればただの“散らかった部屋”にしか見えないのだろう。
けれど、これは決して“散らかしている”訳ではない。
むしろ、これが一番俺にとって“ちょうどいい配置”だからこそ、そこに“置いてある”だけだ。どの雑誌に誰のインタビュー載っているか、とか、どの教本に何が書いてあるとかが、俺にはちゃんと分かっているからこそ、一番手の届きやすい場所に置いてあるだけなのだ。
それなのに、母は片付けろ、片づけろばかり言う。
……まあ、それでも。そろそろ片付けねえとヤベえとは思っていた。足の踏み場が少ないのは事実だし、床に置いてあったCDケースをうっかり踏んで足を痛めたこともある。ペンを探していたら、なぜか雑誌の中から出てきたこともあった。
けれど、一から掃除するとなると、やっぱり面倒臭い。
「……今から片付けたら時間かかるから、明日やる」
俺がそう答えると、母は大袈裟に「ハァ」と溜息をついた。
「あんたね……勉強しない、掃除しないって、良い加減にしなさいよ。だったらせめて、家の手伝いぐらいしたらどうなの」
「は?」
俺がわざと嫌そうな声を出しても、母は構わず続けた。
「ちょうど味噌が切れちゃって。ちょっとスーパー行って買って来て欲しいんだけど」
……はぁ?!マジかよ!? 外、クソ暑いんだぞ!?
「何で今なんだよ。親父が居る時に車で行きゃあ良いだろ」
「駄目なのよ。今晩のおかずが無くなっても良いの?」
……そんなん、味噌使わねえモン作りゃ良い話だろ。
俺が寝転がったまま背中を向けようとすると、母は俺の肩をがっしりと掴んで、顔の前に紙を突き付けて来た。
「はい、これ買い物メモ。余ったお金で好きなの買って来て良いから」
「……え」
その一言に、俺は少しだけ釣られてしまった。
ちょうど今、そろそろピックを買い足したいと考えていたところだった。
この前の対バンまで、毎日のようにギターを弾いていた。そのせいか、ピックの減りがいつもより早かった。家でも、当日、楽屋に入ってからも、同じフレーズを何度も繰り返し練習した。同じ所でミスる度に、何度も止めて、また弾いて——そんなことをしている内に、ピックの先端はいつの間にか削れて使いモンにならなくなる。
だからこそ、そろそろ楽器屋に行かねえとなと考えていた。ただ、毎日暑いし、行こうと思った日に限って夕立になる。そうやって後回しにしているうちに、ピックケースの中身はどんどん寂しくなっていった。
……でも外、クソ暑いんだよな。
「ほら、これお金。遅くならないうちに、さっさと行きなさい」
母は俺の返答を待たずに、金とエコバッグを渡して来た。
俺は買い物メモを手にしたまま、もう一度背を向けようとした。が、またしても母に肩を掴まれて睨まれてしまった。
「奏介」
「……わーったよ。行きゃあ良いんだろ、行きゃあ」
俺は仕方なく立ち上がり、玄関に向かった。ドアを開けようとすると、後ろから母の声が飛んできた。
「あんまり遅くならないでよ」
「うるせえな、分かってるっつーの」
俺はそう吐き捨ててから、強引にドアを閉めた。
「あっつ!!」
外に一歩出た瞬間、思わず叫んでしまった。
8月の真っ昼間の空気は、まとわりつくみたいに重かった。雲一つ無い空を見上げると、ギラギラと煌めく太陽が突き刺すように眩しくて、反射的に目を細める。玄関の庇を出ただけで、肌の皮膚が一気に熱を持った。
しかも、ここは九州だ。俺は本州にはあまり行った事が無いから、本州の事はよく分からない。けれど、少なくとも俺には、ここが日本の中でも余計に暑い場所だという事だけは分かる。
俺は自転車のカゴに鞄を載せ、なるべく日陰に寄りながらスーパーへ向かった。
*
「うわっ、涼し!」
今度はスーパーに入った瞬間、思わず叫んでしまった。
炎天下の中、大量の汗をかきながらチャリを漕いでヘトヘトになった俺にとって、空調の効きまくった店内は、まさに天国そのものだった。汗でベトベトになった首筋に冷たい空気が触れて、身体にぴったりと張り付いたシャツが少しだけ軽く感じた。
俺は早速買い物メモを取り出し、内容をチェックする。
味噌に、醤油に、牛乳に……何か、やたらと重いモン多くねえか?
「クソッ、やりやがったな……」
余った金で好きなモン買って良い、なんて甘い言葉に少しでも釣られた俺が馬鹿だった。母は多分、最初から俺を重たい荷物持ちにする気だったのだろう。
けれど、ここまで来た以上、何も買わずに帰る訳にはいかない。帰ったところで、母にもう一度送り出されるだけだ。
「……めんどくせ」
俺はそう呟いてから、店内を回ってさっさと買い物を済ませた。
「ありがとうございました」
店を出ると、またしても暑い日差しが肌を突き刺してきた。
さっきまで涼しい店内に居たせいで、余計に外の暑さが身に堪える。手に提げたエコバックは想像以上に重くて、すぐに腕と手のひらに汗が滲んだ。
俺は自転車のカゴにエコバックを突っ込み、その場で財布の中身を確認した。
……一応、ちゃんと余ってる。
俺がちゃっかりジュースとポテチも買ったにも関わらず、思いの外、財布の中身はちゃんと残っていた。
——それを見た瞬間、俺はピックの事を思い出した。
炎天下の中、重い荷物を持ってチャリを漕ぐのは億劫だ。正直、このまま家に帰って、冷房の効いたリビングでジュースを読みながら雑誌の続きを読みたい気持ちもある。けれど、折角ここまで来て何も買わずに戻ったら、またしてもズルズルと先延ばしにしてしまう未来が見える。
それに、もしこのまま何も買わずに家に戻って、「使ってないなら返して」と余った金を回収されるよりは、ちゃんと使っておく方がよっぽど良い。
俺は財布を鞄に仕舞い、ハンドルを握った。
——だったら、ちょっと寄り道すっか。
そう思って、俺は自転車に跨り、ペダルに足を掛けた。
“あそこ”は、スーパーから少し離れた所にある。
俺は、大通りから少し外れた道に入った。行きの時よりも更に強く踏み込まないと、前に進めない。ペダルを踏む度にカゴの中のエコバックがどさりと揺れて、暑さと相まってバランスが取りにくくなる。
細い道に入ると、建物の影が道に落ちていて、ほんの少しだけ涼しくなった。けれど、背中には相変わらず汗が溜まり、シャツが肌にぴったりと張り付く。どこからか聞こえる蝉の鳴き声は、道を進むに連れてどんどん大きくなって、耳と頭の奥をしつこく突き刺してきた。
俺はうるせえな、などと考えながらチャリを漕いでいると、ようやく目的地の看板が見えてきた。
白地におしゃれな斜体で書かれた文字は——山村楽器。そう、あの山村が個人で経営している楽器屋だ。
エレキギターとエレキベースに特化した、小さな楽器屋で、管楽器などといったモノはほとんど置いていない。
俺のギターも、この店で買った。
子供の頃、父に連れられて初めて訪れた時の事は、今でも覚えている。壁一面に吊られたギターを見上げて、どれが良いのかも分からないまま、俺も父もただ黙って立っていた。
そんな時、山村は楽しそうにあれこれ説明してくれた。
この形は持ちやすいとか、こっちの方が初心者向けだとか。正直、当時の俺にはほとんど良く分かっていなかった。きっと、父も同じだったに違いない。けれど、山村が“一番のオススメ”と言って渡してくれた紫のギターが、俺の相棒になった。
それから、何だかんだでよく通うようになった。
弦を買う時も、ピックを買う時も、修理を頼む時も、必ず山村楽器に来る。父の友人だからと言って、たまに少し安くしてくれる。山村曰く“身内割”らしいが、この店の経営は大丈夫なのかと、たまに疑問に思う事もある。
俺は店の前に自転車を停め、カゴからエコバックを取り出し、肩に掛けた。流石に牛乳を炎天下に晒しておくのは、マズい気がしたからだ。
入り口のドアを開けると、カランカランと温かいベルが鳴った。
中に入ると、まるで外とは切り離されたような世界に足を踏み入れたような気分になった。アンティークな内装に、大量のギターとベースがずらりと並んでいる。棚の位置も、レジ横の置物も、いつもとほとんど変わらない。
——そこまでは、いつも通りだった。
今日は、なぜか山村の姿が見当たらなかった。
「……あれ」
いつもなら、俺が店に入ってきた時点で「いらっしゃい」と言いながら出迎えてくれる。あるいは、レジの椅子に座って、新聞を読んでいる事が多い。ベルが鳴った途端、新聞を置いて「今日はどうした」なんて聞いて来る。
なのに、今日は違った。
店の奥のレジに立っていたのは、山村ではない。小柄な若い男が、レジの中で伝票らしき紙を揃えていた。こちらの気配に気付くと、少し不慣れな様子で「いらっしゃいませ」と声を掛けてきた。
……誰だ、あれ。
俺は入り口の所で、少しだけ足を止めずにはいられなかった。
実はこのお話を書く際に、2008年8月の気温を調べたのですが…今とは全然違ってビックリしました。
福岡の場合、20年で月平均最高気温が3℃程上がっていたのです。
思わず「え、31℃!?涼しっ!?」と叫んでしまった自分にもビックリです。
地球温暖化を感じますね…。




