障壁が孕む連関の長い日-5
翌朝、教室の空気はいつもと違っていた。
まず、黒板に大きく書かれた時間割が異様な存在感を放っている。そして、普段なら朝から騒いでいる連中も、切羽詰まった様子で問題集のページを行ったり来たりしていた。
俺はイヤホンを付けたままノートを取り出し、机の上に開いた。見慣れた自分の字が、今日だけは不思議と頼もしく感じる。
701年、大宝律令。708年、和同開珎。710年、平城京——。
順に数字を追っていると、隣からポンと肩を叩かれた。
「立花君、おはよ」
顔を上げると、黒田が鞄を机の横に掛けていた。手には教科書が一冊挟まっている。
「……おう」
俺がイヤホンを外すと、黒田は席に腰を下ろしながら聞いてきた。
「日本史はどう?」
俺は開いたノートをパラリと捲る。
「……まあ、赤点は回避しねえとな」
そう言うと、黒田は小さく笑った。
「そうだね」
俺はもう一度、ノートに視線を戻した。
テスト初日、1限目は——日本史だ。ここで、俺は何としてでも赤点を回避しなければいけない。
俺はゴクリと唾を飲んでから、イヤホンを耳に戻した。
*
HRが終わると、いよいよテストが始まった。
教室の前の扉が開き、試験監督の教師が入ってきた。腕には分厚い答案用紙の束を抱えている。
「今から答案用紙と解答用紙を配ります」
教師は腕に抱えた紙の束を置き、前の列から順番に配り始めた。静まり返った教室に紙の擦れる音だけが響き渡る。
やがて俺の所にも用紙が回ってきた。俺は、まだ裏返されたままの紙をそっと置いた。
周りの奴らは、黒板の方を向いてじっと座ったまま動かない。教師は腕時計をちらちら見ながら時間を確認している。
……この“空白の時間”がやたらと焦らしてくるようで、忌々しい。
俺は視線を落とし、問題用紙の「日本史」の文字をじっと見つめた。
——その時だった。
突然、チャイムが学校中に響いた。
「それでは始めて下さい」
その声と同時に、教室のあちこちで紙を捲る音が重なった。俺も問題用紙を裏返し、しっかりと名前を書く。
そして、最初の大問に目を落とした。
そこには、6枚の仏像の写真が並んでいた。
……はい出た、仏像問題。
麻生が大好きな仏像の名前を答えさせる問題だ。黒田が言うには、正答率が低いのに配点も低い問題。
俺は写真を一通り見たが、やはりどれも同じに見える。
……って事で、飛ばす。
俺は適当な名前を書き込み、すぐにページを捲った。……仏像なんか、どうせ分かんねえし。
次の問題は小問集合。さっきの仏像問題とは違って、ここは落としたくない。
俺は持っていたペンをギュッと握り直し、設問に目を通した。
《1.藤原不比等の4人の息子のうち、南家の祖に当たる者は誰か。》
……初っ端から訳分かんねえこと聞きやがって。何だよ、南家って。
……少し考えてみても、全く見当がつかなかった。仕方無くここも適当な名前を書いて、潔く次の設問に移ることにした。
《2.橘諸兄が政治顧問とした人物を2人挙げよ。》
——橘諸兄、橘諸兄……。
まず、頭の中でノートを再現させる。そして、問題文のキーワードを手掛かりに、記憶の中を必死に探る。そして、それらしい名前を答案用紙に書き込んだ。
俺はそれを何度も繰り返しながら、順番に問題を解いていった。
——おっ。
途中で、ふと目が留まった。
《12.大宝律令が制定されたのは何年か。》
——よし来た。
年号の問題なら楽勝だ。
俺は大きく解答欄に701と書き込んだ。その時、僅かにニヤリと口角が上がったのを感じた。
俺はその調子で、少しずつ問題を解いていった。黒田の言う通り、本当に年号の問題が頻繁に出題されていた。俺はその度にニヤついて、解答欄いっぱいの大きさで数字を書き込んだ。
……まさか、俺が日本史のテストでニヤつく日が来るとはな。
勿論、年号以外では分からない問題や自信の無い答えなど、たくさんあった。正直、分かる所だけ取れれば良い——初めはそう思っていた。
けれど、いつの間にか“分かる所は、確実に取ってやる”という気持ちが強くなっていた。
“取れれば良い”ではなく、“確実に取る”。そんな意識の変化がハッキリと分かった。
そして気が付けば——中間よりは、確実に取れた。そんな手応えを、うっすらと感じていた。
*
日本史の後も、テストは続いた。現代文に、数学に、英語に——幾つもの科目のテストを受けた。
午前中だけで終わる日が何日か続き、教室はいつもより早く空になった。昼間に乗る帰りの電車はいつもより空いていて、少し新鮮だった。
そして、金曜日。遂に最後のテストが終わった。
試験監督の教師が教室を出て行くと、教室のあちこちで椅子を引く音が響いた。
「終わったー!」
そんな声が、次々と飛び交う。
誰かが大きく伸びをし、後ろの方から「英語マジで無理だった」とぼやく声が聞こえる。
張り詰めていた空気が一気に解け、いつもの騒がしさを取り戻していた。
「やっと終わったね」
筆箱にペンを仕舞っていると、黒田が声を掛けてきた。
「……だな」
俺は手元に残った解答用紙をぼんやりと眺めながら答えた。
ここ数週間、ギターにも触れず勉強ばかりしていた。だからこそ、急にいつもの“自由な日常”に戻るとなると、かえって違和感を感じそうだ。
けれど、とりあえず——終わった。
あとは、結果を待つだけだ。
*
週が明けると、教室はまたいつもの空気に戻っていた。
休み時間には馬鹿みたいに騒ぐ声が戻り、廊下には走り回る音が響く。テスト前の張り詰めた緊張感は、もうどこにも残っていない。
ただ一つ違うのは、授業が始まる度に生徒達の視線が教卓に集まる事だった。
それは、答案返却。どの授業も、まず最初にテストを返してくる。だからこの時期は、ちょっとした“答案返却祭り”になる。
そして、日本史の時間。
教室の前の扉が開くと、麻生がズカズカと入ってきた。腕には大きな分厚い封筒が抱えられている。
「今日は、テストを返す」
開口一番、麻生はハッキリと言った。
「このクラスの平均点は……丁度50点だ」
麻生は黒板にデカデカと50と書く。
……50点、か。
この学校のルールでは、平均の半分未満だと赤点になる。つまり俺は、最低でも25点を取らなければいけない。
「それじゃあ、返すぞ」
麻生は封筒の中から答案の束を置くと、出席番号順に名前を呼び始めた。
「青山ァ―、浅田ァ―……」
答案が一人ずつ配られていく。
「黒田」
「はい」
黒田が呼ばれ、前に出て答案を受け取った。
「今回もよく出来てたぞ」
麻生はそう言うと、黒田は嬉しそうに「ありがとうございます」と言って席に戻ってきた。
「……お前、何点だったんだよ」
俺が黒田に尋ねると、黒田は黙ったままチラリと答案を見せてきた。
「……マジかよ」
そこには赤い字で95と書かれていた。
黒田は満足そうにえへへと笑う。
……やっぱコイツバケモンだわ。つか、残りの5点どこで落としたんだよ。
「立花」
俺が黒田に感心していると、突然麻生に呼ばれた。
……いよいよか。
俺は椅子を引いて立ち上がり、教卓へ向かった。
すると、麻生は紙を差し出しながら言った。
「立花、やるじゃないか」
——は?
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
俺は答案を受け取り、そのまま席に戻った。そして、紙を裏返して、点数を見た。
すると——。
《51》
……ギリギリだけど、平均超えてる。
「えっ、凄いじゃん!」
黒田が横から覗いてきた。
「ホント良かったよ~。あれだけやってたもんね」
黒田は満足そうに笑っている。まるで、自分の点数みたいに嬉しそうだ。
……コイツ、本当に変な奴だ。
俺の点数なのに、なんでお前がそんな顔してんだよ。
けれど——今回ここまでやれたのは、間違いなく黒田のおかげだった。
もしも黒田が勉強を教えてくれなかったら、俺は今頃きっと赤点を喰らっていた。
——701、708、710……。
ふと頭の奥に浮かぶ数字の並びも、全部、黒田に付き合って貰った時間の名残だ。
「……だな」
俺はそう答えた。
教室では、あちこちで点数の話が飛び交っている。喜ぶ声も、落ち込む声も入り混じっている。
俺はそんな賑やかな周りを横目に、答案を机の上に置いた。
「……ありがとな、黒田」
俺がそう言うと、黒田は眼鏡の奥でにっこりと表情を緩めた。
*
その日の夜。俺は家でギターを弾いていた。
数週間ぶりに触る相棒は少しだけ重たく感じたが、ネックを握った瞬間、手の中にすっと馴染んだ。
「……待たせたな」
アンプにヘッドフォンを繋げて、軽くコードを鳴らす。すると、耳の中に久しぶりの音が広がった。
……やっぱり、気持ち良い。
弦を弾く度にピック越しに伝わる振動が、少しだけ懐かしい感覚と共にゆっくりと身体に戻ってきた気がした。
——対バンまで、残り1か月を切った。
俺はもう一度弦を鳴らすと、鮮やかな音色が夏の夜風に重なっていった。
大変お待たせしました!次回、いよいよ対バンです!!
新キャラ登場の予感…?
また、活動報告では作品の解説も行っているので、もしご興味があればそちらもよろしくお願いします!




