序の鬼 濃い鬼と、薄い鬼
鬼というものが、人を喰らうために存在していると思っているなら、それは人間の側の思い込みである。
鬼は、喰らうために人里へ下りるのではない。討たれるために下りるのだ。
この理屈を人間に説いて聞かせたところで、まず信じる者はいない。討たれたくて山を下りる化け物がどこにいるのか、と笑うだろう。
しかし、鬼の側からすれば、人間が日々の糧を求めて田畑を耕すのと、鬼が己の存在を保つために討たれに行くのとは、何ら変わるところのない、当然の営みなのである。
鬼は、そのままにしておけば薄れて消える種族だった。
生まれたばかりの子鬼は、輪郭がはっきりとしていて、角の根もとまで色濃く、声もよく通る。
ところが、人間に恐れられることなく、討たれることもなく、ただ山奥でひっそりと年を重ねていくと、その身体は少しずつ透けていく。色が抜け、輪郭がぼやけ、やがて声も届かなくなり、誰の目にも留まらないまま、空気に溶けるように消えてしまう。
鬼にとって最も惨めな最期とは、喰い殺されることでも、討ち取られることでもなく、誰にも知られずに薄れて消えることだった。
では、どうすれば消えずに済むのか。
答えは単純で、人間に討たれればよい。
人間に恐れられ、立ち向かわれ、見事に討ち取られた鬼は、その瞬間に人間たちの語りの中へ固定される。
酒を好む鬼として、腕を斬り落とされた鬼として、針の刀で腹を刺された鬼として、人間の物語の中に役を与えられ、名を刻まれる。
そうして語り継がれる限り、鬼は薄れることがない。語られるたびに輪郭が濃くなり、何百年でも、何千年でも、鬼であり続けることができる。
討たれることは、鬼にとって死ではなかった。
それは、永遠を手に入れるための、ただひとつの方法だった。
だから鬼の社会では、いかに見事に討たれるかが、その鬼の一生の格を決めた。
無様に逃げ惑って斬られた鬼は、臆病な鬼として軽んじられる。
堂々と人間に立ち向かい、英雄に相応しい強敵として討たれた鬼は、語りの中で大きく扱われ、子々孫々まで誇りとして語り継がれる。
鬼の親は子に向かって、立派に討たれる鬼になれ、と繰り返した。お前の角が一番濃いうちに山を下り、名のある英雄の刀にかかって、永遠に残る鬼になりなさい、と。
それが鬼にとっての、子への最も深い愛情の言葉だった。
山には、すでに討たれて永遠を得た鬼たちの逸話が満ちていた。
大江山の酒呑童子は、鬼の中の鬼として語り草だった。
源頼光に酒を飲まされ、寝込みを襲われて首を斬られたが、斬られた首が宙を飛んで頼光の兜に噛みついたという。その最期の見事さによって、酒呑童子は鬼社会において最高位の存在となった。
討たれてなお人間に一矢報いたその姿は、すべての鬼の憧れであり、目標だった。
茨木童子もまた、名高い鬼だった。
渡辺綱に腕を斬り落とされながらも、後に老婆に化けてその腕を取り返したという逸話を持つ。
腕を一本失ってでも物語の中で動き続けたその執念は、鬼たちの間で語り継がれ、茨木童子の名は決して薄れることがなかった。
桃太郎に討たれた鬼ヶ島の鬼たちも、近年では格の高い存在として扱われるようになっていた。
英雄に率いられた犬と猿と雉に攻め込まれ、宝を奪われて降伏したその物語は、子供たちの寝物語として国じゅうに広まった。広まれば広まるほど、鬼ヶ島の鬼たちは濃くなり、薄れる心配のない安泰な永遠を手に入れた。
こうした逸話を聞かされて育つ子鬼たちは、皆、早く立派に討たれたいと願った。
山を下りる日を心待ちにし、どの英雄の刀にかかるのが最も名誉かを夢想し、自分がどんな鬼として語り継がれるのかを想像して胸を躍らせた。
その中に、一匹だけ、討たれたくないと考える鬼がいた。
名前は、ない。
鬼に名がつくのは、討たれて物語に固定された後のことである。
酒呑童子も、茨木童子も、討たれて語り継がれるようになって初めて、その名で呼ばれるようになった。
まだ討たれていない鬼には、名がない。
山にいる無数の子鬼たちと同じように、この鬼にも名はなかった。そして、この鬼は、これから先も名を持つつもりがなかった。
なぜなら、名を持つということは、ひとつの役に縫い付けられるということだったからだ。
酒呑童子は、永遠に酒を飲んで討たれる鬼であり続けなければならない。
茨木童子は、永遠に腕を斬られて取り返す鬼であり続けなければならない。
語り継がれるとは、ひとつの物語の中に固定され、二度とそこから動けなくなることだった。
この名のない鬼には、それが永遠の栄誉ではなく、永遠の牢獄に見えた。
濃くなって、ひとつの役に縛られて、何千年も同じ物語を繰り返すくらいなら。
薄くなって、誰にも知られず、何者でもないまま消える方がいい。
そう考える鬼は、山にただ一匹だけだった。




