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第9話 ノルンの聖地


「お姉さま、三日間、寝ていませんよね」


イリスは書斎の扉の前に立って、中にいる姉を見ていた。ルーナは机の上に古文書、手記、地質調査書、災害記録を並べて、その真ん中で頬杖をついていた。髪は乱れ、目の下には濃い隈があり、インクの汚れが頬に二筋ついていた。


「寝ているわ」


「どこでですか」


「ここで。五分ずつ」


「それは寝ているとは言いません」


ルーナは顔を上げて、妹の方を見た。それから、机の端に置かれたカップを掴んで、一口飲もうとした。カップは空だった。三杯目の茶を飲み終えて、四杯目を注ぐのを忘れていた。


「イリス、お茶を」


「もう淹れてあります。三十分前に、お姉さまの隣に置きました」


ルーナは机の反対側の端を見た。そこに湯気の立たなくなったカップがあった。


「……気づかなかった」


「でしょうね」


イリスは書斎に入り、冷めたカップを片付けて、新しい茶を淹れた。ハイラムの館の使用人たちは、この三日間、王女の書斎への出入りを控えていた。ルーナが集中している時に人が入ると邪魔になる、と遠慮していたのだ。実際には、邪魔になるどころか、茶を淹れ直す人間がいなければ、ルーナは脱水症状で倒れかねない状態だった。妹だけが、姉の集中を邪魔せずに世話をできる唯一の人間だった。


ルーナは新しい茶を一口飲んで、長い息を吐いた。


「仮説が立ったわ」


「仮説」


「ノルンの長老に会わなければならない。行きましょう」


ルーナは立ち上がろうとして、椅子の肘掛けに寄りかかった。足に力が入らなかった。


「先に、ご飯を食べてください」


「食べている暇は」


「食べる暇はあります」


イリスは珍しく言い切った。ルーナは妹の顔を見て、少し驚き、それから小さく笑った。


「わかったわ。食べます」


食事の後、ハイラムに案内されて、二人はノルン族の集落へ向かった。馬車ではなく徒歩だった。森の奥の細い道を、一時間ほど歩いた。道中、イリスは何度も足を止めて、森の空気を感じていた。宮廷の悪意とも、辺境の館の「重い水」とも違う、静かで古い感情が木々に染み込んでいた。悪くない感覚だった。痛くはなかった。


集落に着くと、木造の家が十数軒、円を描くように並んでいた。中央に大きな石が据えられていて、石の周りを子どもたちが走り回っていた。大人たちは畑仕事や機織りをしていて、二人の来訪に驚いた様子はなかった。ハイラムは常連らしく、何人かが会釈をした。


集落の奥の一軒から、一人の女性が出てきた。


六十代の後半だろう。白髪を一本の三つ編みにして背中に垂らし、深い青の衣を着ていた。顔には皺があったが、目は若い頃の鋭さを残していた。女性は二人を見て、静かに頷いた。


「ユーリ様、こちらが王都からの」


「聞いています」


ユーリは短く答えて、ハイラムの紹介を遮った。それから、ルーナとイリスの方を向いた。


「茶を淹れました。中へ」


ユーリの家は質素だった。土間に囲炉裏があり、奥に寝床が一つ、壁には機織りの道具が掛けられていた。ユーリは三人分の茶を淹れて、二人の前に置いた。ハイラムには置かなかった。


「ハイラム殿は、外で待っていてくださいますか」


「承知しました」


ハイラムは少しだけ微笑んで、外に出た。扉が閉まると、ユーリは囲炉裏の向こうに座った。


「ハイラム殿に聞かせたくない話は、ありませんよ。ただ、あの人は今、少し距離を取った方が楽になる時です。あの人には、王都の方々と二人きりで話す私の姿が、希望に見えるでしょう」


ルーナは頷いた。ユーリは続けた。


「あなたは賢い人だと、聞いていました。しかし、賢いだけでは、ここには来られなかったでしょう。賢い者は、これまでも何人かいました。みな、迷信と切り捨てて、山に登り、聖地の入口で迷い、帰れなくなりました。あなたが違うのは、妹さんを連れていらしたことです」


「私は妹と来ました。妹が感じないことは、私には見えないのです」


ユーリはイリスの方を向いた。


「あなたは、痛みを感じる娘ね。ここは痛いでしょう」


イリスは少し考えてから、答えた。


「はい。でも、この痛みは、……知りたい痛みです」


ユーリの目が少しだけ細まった。笑ったわけではなく、目の奥で何かを測るような動きだった。


「良い返事だわ。痛みを避ける娘では、聖地に立てません。痛みを知ろうとする娘でなければ」


ユーリは茶を一口飲んで、囲炉裏の炭を見た。


「聖地にご案内します。ただし、一つだけ、約束してください。聖地で見たものを、ハイラム殿にも、村の衆にも、まだ伝えないこと。伝えるのは、対策が立ってからです。伝えるのが早すぎると、人は混乱します。混乱は、四百年続いた信仰を壊すには、最も悪い形です」


「約束します」


「では、参りましょう」


ユーリは立ち上がった。


集落の裏手から、細い山道が続いていた。岩がちで、木の根が絡み合った道だった。三十分ほど登ると、視界が開けた。崖の縁に出たのだ。崖の下を見下ろして、イリスは息を止めた。


崖の下に、小さな谷があった。


谷の底には、石造りの集落があった。十数軒の家が整然と並び、畑が広がり、家畜の小屋が見え、泉のほとりに小さな広場があった。人の姿もあった。十数人、いや、もっといた。数えるのが難しかった。みな、穏やかに畑を耕し、洗濯をし、子どもの手を引いて歩いていた。


イリスはしばらく声が出なかった。ルーナも、古文書を抱えたまま、目を見開いて立ち尽くしていた。


「……生きている」


ルーナがそう呟いた。


「生きております」


ユーリが答えた。


「差し出された若者たちは、殺されてはおりません。この谷で暮らし、この谷で年を取り、この谷で静かに世を去ります。子もなす者もあります。あそこにいる子どもたちの何人かは、ここで生まれた二代目、三代目です」


イリスは崖の縁にしゃがみ込んで、谷の底を見つめた。人々の感情が、遠くから肌に届いた。驚いたことに、痛くなかった。諦めも、絶望も、怒りも、悲しみも、そこにはなかった。代わりにあったのは、静かな充足と、日々の営みに特有の穏やかな疲労だった。幸福、とまでは言えないかもしれない。けれど、不幸ではなかった。


「ユーリ様、……この方々は、外に出たいとは思わないのですか」


「思う者もおります。思わない者もおります。思った者は、最初の数年で強く思います。しかし外に出る道を知らず、また、出た後のことを考えると足が止まる。家族は自分を死んだものとして諦めている。故郷に戻っても居場所はない。そう考えて、やがて、谷での暮らしに馴染んでいきます」


「馴染まない者は」


「稀にです。私の祖母の代に一人、母の代に一人。二人とも、結局、この谷で一生を終えました」


ユーリは崖の縁に立って、谷を見下ろしたまま、話を続けた。


「四百年前、大地が揺れ、山が火を噴き、川が枯れました。祖先たちは、山を鎮めるために人を捧げました。最初は死を伴う儀式だったかもしれません。記録は曖昧です。しかし、ある時期から、捧げられた者は死なず、この谷に送られるようになりました。生かして山に留める方が、山を鎮める効果があると、昔の誰かが気づいたのです」


「気づいたのではなく」


ルーナが口を開いた。三日間の読書と思索で辿り着いた仮説を、ついに口に出す時が来ていた。


「偶然、発見されたのでは」


ユーリは振り返って、ルーナを見た。


「続けてください」


「あの谷の、泉です」


ルーナは崖の下の広場を指差した。小さな泉が、広場の中央で光を反射していた。


「私は地質調査書を読みました。この地方の土壌は、特殊な地下水脈の上にあります。水脈の要がいくつかあり、その一つがあの泉です。泉の周辺の植生、水量、水質を一定に保つことで、山全体の土壌が安定する。具体的に言えば、土砂崩れと地滑りを防ぐ役割を、あの泉が果たしているのです」


ユーリの目が、さらに細くなった。


「続けてください」


「泉は、放置すれば土砂で埋まります。周辺の草木が根を張らなければ、水脈の流れが変わります。家畜を適切に配置しなければ、泉の周りの土壌が痩せます。つまり、あの泉を維持するには、常に一定数の人間が泉の周りで暮らし、畑を耕し、家畜を飼い、水を汲み、草木を手入れし続ける必要があるのです。四百年前、捧げられた若者たちが偶然、あの谷で暮らし始めた時、山の災害が減りました。人々は若者の犠牲が山を鎮めたと信じました。実際には、若者たちが泉を維持したことで、山が安定したのです」


ユーリは長く沈黙した。囲炉裏の炭がはぜるような音が、どこか遠くで聞こえた。いや、それは音ではなく、ルーナの頭の中でページがめくれる音だった。


「証明できますか」


ユーリがゆっくり尋ねた。


「過去二百年の災害記録と、谷の人口記録を照合しました。二つの数字には明確な相関があります。谷の人口が二十人を切った時期に、山の麓で三度、土砂崩れが起きています。人口が三十人を超えた時期には、小さな崩れすら起きていません。統計的に、まず偶然ではありません」


ユーリは囲炉裏の炭を見ながら、長い息を吐いた。


「……つまり、若者は捧げられなくても良いのですか」


「捧げられる必要はありません。ただし、一定数の人間が、あの谷で泉を維持し続ける必要があります。それは絶対条件です。そこだけは譲れません」


ルーナは一度、言葉を切った。そして、続けた。


「ですから、私は提案したいのです。捧げる、という形を、就く、という形に変えませんか」


ユーリは顔を上げた。


「志願者を募ります。十年、あるいは五年の任期制にします。任期が終われば、谷を出て故郷に戻れる。新しい志願者が代わりに就く。常に一定数の人間が谷にいれば、泉は維持される。山は安定する。若者は失われない。家族は泣かない。信仰は、形を変えて続く。迷信を否定するのではなく、迷信の中にあった真実を、新しい形で受け継ぐのです」


ユーリは長く沈黙した。


その沈黙は、第1章で老侍女マルタが語った沈黙に似ていた。けれど質が違った。マルタの沈黙は二十年分の罪悪感だった。ユーリの沈黙は、もっと古くて、もっと深いものだった。四百年分の迷いと、何世代にもわたって語り継がれてきた秘密と、一人で抱え続けるには重すぎる知恵の沈黙だった。


やがて、ユーリは小さく頷いた。


「考えたことは、ありました」


ルーナもイリスも、声を出さなかった。


「考えたことは、ありました。私の祖母も、母も、私も、代々、考えてきました。若者を帰せないか。信仰の形を変えられないか。しかし、私たちは考えるだけでした。実行する力がありませんでした。ノルンの長老は助言する者です。村の衆を説得する者ではありません。辺境伯家は送り出す役です。信仰を変える役ではありません。誰も、変える役を担っていなかったのです」


ユーリはルーナを見た。


「あなた方が来てくれたなら、話は別です。王都の権威があり、天才の論理があり、痛みを分かつ妹さんがある。私一人ではできなかったことが、あなた方となら、できるかもしれません」


イリスは崖の縁に立ったまま、ユーリの感情を肌で感じていた。四百年分の重みが、ユーリの肩から少しずつ降りていくのを、イリスは感じた。完全には降りなかった。けれど、ほんの少し、軽くなった。


ルーナは古文書を閉じて、胸に抱いた。


「しかし、問題は残ります」


ルーナは静かに言った。


「この形を実現するには、二つの同意が必要です。一つは、今、谷で暮らしている護り手の方々の同意。帰りたい者がいれば帰す。残りたい者は残る。それを本人たちに選ばせなければなりません。もう一つは、村々の人々の同意。四百年続いた信仰を、いきなり変えるのです。反発は必ず起きます」


「はい」


「私たちは、説得しなければなりません。ノルンの長老と、辺境伯と、そして王女の二人で」


ユーリは深く頷いた。


「明日、護り手たちに会いに、谷へ降りましょう。私の代で初めて、谷の中に外の人間を案内することになります」


ルーナは頷き返した。それから、イリスの方を振り返った。妹は崖の縁から立ち上がって、姉の隣に戻ってきた。


「お姉さま」


「なに」


「あの谷の空気、痛くないです。ここまで近づいても、痛くない。あそこには、多分、私が行っても大丈夫です」


ルーナは妹の頭に手を伸ばして、軽く撫でた。


「よかった」


三人は来た道を戻った。山を降りる途中で、ハイラムが途中まで登ってきて三人を迎えた。ルーナは振り返って、ユーリに視線を送った。ユーリは小さく頷いた。まだ話さない、という約束だった。


ハイラムには、まだ言えなかった。兄が生きているかもしれない、ということを。


ルーナは古文書を抱えたまま、森の道を下った。頭の中では既に、明日の説得の言葉を組み立て始めていた。四百年分の信仰を、壊さずに、変える言葉。それを見つけなければならなかった。

お読みいただきありがとうございます。

ルーナの天才が、初めて「悪を裁く」以外の方向に使われます。

迷信の中にあった真実を拾い上げる、という仕事です。

この仕事には、イリスの能力も不可欠でした。

次話、最終話。四百年の慣習に、最初の一歩が踏み出されます。

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