第8話 礼拝堂の告解
「あの扉の中を、見せていただけませんか」
朝食の席で、イリスは静かに切り出した。ハイラムがカップを口に運びかけていた手を、ゆっくりと止めた。ルーナは隣で、妹の横顔を見た。昨夜、妹が一人で決めたことだと、その瞬間に理解した。
ハイラムは長く沈黙した。カップを皿に戻し、テーブルの上で両手を組んだ。顔には驚きの色がなかった。驚くべき瞬間が来ることを、ずっと前から予期していたような静けさだった。
「イリス姫は、あの扉の向こうに、何があるとお考えですか」
「わかりません。ただ、昨夜、廊下で偶然、辺境伯様のお祈りの声を聞きました。どうか、許しを、と仰っていました。そのお声を聞いて、私は、あの扉の中を知らなければならないと思ったのです」
ハイラムは目を閉じた。そして、目を閉じたまま頷いた。
「ご案内いたします。……二十年以上、誰にも見せたことのない場所です」
朝食は途中で終わった。三人は席を立ち、長い廊下を奥へ向かって歩いた。イリスは歩くたびに、扉の向こうから溢れる「重い水」がだんだん強くなるのを感じた。肌は痛くない。胸の奥が、静かに沈んでいく感覚だった。
ハイラムは扉の前で止まり、胸元から古びた鍵を取り出した。鍵は首から紐で下げられていた。外されることのない鍵だった。
扉は音を立てずに開いた。
中は小さな礼拝堂だった。窓が一つだけあり、朝の光が差し込んでいた。奥の壁には石造りの祭壇があり、祭壇の上には何も置かれていなかった。像も絵もなかった。ただ、祭壇の前の床に、膝をつき続けた跡があった。石の表面が、膝の形にわずかに擦り減っていた。
祭壇の横に、小さな木箱が置かれていた。
ハイラムは祭壇の前まで歩き、振り返った。
「どうぞ、お入りください」
ルーナとイリスは中に入った。扉は開け放たれたままだった。礼拝堂の中は、外の廊下より空気が澄んで感じられた。祈りを吸い込み続けた部屋の、独特の静けさだった。
「ここで、私は毎朝、兄に詫びています」
ハイラムは祭壇の横の木箱に手を置いた。
「二十年以上、毎朝、欠かさず。今日も、先ほど、あなた方がお越しになる前に、詫び終えたところです」
「お兄様に」
ルーナが静かに促した。
「兄の名はライナルトといいました。私の四つ上の兄でした。優しい人でした。剣も馬も私より上手で、本もよく読み、父の跡を継ぐために育てられていました。兄が二十三の時、私は十九でした」
ハイラムは木箱の蓋に手を置いたまま、話を続けた。
「ある朝、兄が窓辺に立っていました。山の方角を向いて、何も言わずに立っていました。私はその姿を見た瞬間、何かが起きていると悟りました。ヴァルデンの辺境伯家に生まれた者は、幼い頃から知っているのです。若者が山を見始めたら、止められないということを。止めれば山が怒ることを。そして、辺境伯家の役割は、若者を送り出すことだということを」
イリスは祭壇の前に立ったまま、ハイラムの感情を全身で受け止めていた。罪悪感、哀しみ、諦め。それらの奥に、昨夜は気づかなかった別の感情があった。解放だった。誰かに話せることへの、深い、ほとんど恍惚に近い解放感。二十年以上、一人で抱え続けた秘密を、ついに誰かに渡せる瞬間が来たことへの、震えるような安堵だった。イリスはその感情の重さに、思わず祭壇の縁に手をついた。
ルーナが気づいて、妹の肩にそっと手を置いた。
「続けてください」
ルーナがハイラムに促した。
「父は既に亡くなっておりました。母も、その三年前に病で亡くなっておりました。辺境伯家の長は兄でした。しかし兄が山に呼ばれたなら、送り出す役を担うのは、次男である私でした。……私は兄を止めませんでした。止めたかったのです。本当に、止めたかった。兄の袖を掴んで、泣きながら、行かないでくれと言いたかった。でも、辺境伯家の者は、代々、そうしてきたのです。祖父も、曽祖父も、その前も。全員、自分の家族を送ってきました。私だけが例外になる理由を、私は持っていませんでした」
ハイラムは木箱の蓋をゆっくり開けた。中には、古びた手紙の束と、折り畳まれた布が入っていた。
「兄は三日間、山を見続けました。四日目の朝、兄は朝食の席で立ち上がり、私に微笑みました。ハイラム、辺境伯家を頼む、と言って、それだけを言って、家を出ていきました。私は見送りました。門のところまで歩いて、兄の背中が森に消えるまで見ていました。追いかけませんでした。追いかけてはいけないと、教えられていたからです」
ルーナは黙って聞いていた。イリスは祭壇の縁に手をついたまま、呼吸を整えていた。
「それから二十年、毎朝、ここで詫びてきました。詫びたところで兄は戻りません。私もわかっています。それでも、詫びずにはいられなかった。詫びることが、私が兄に対してできる唯一のことでした。王都に報告することもできませんでした。信じてもらえないと思ったのです。そして、もし王都が信じて、聖地を破壊するために兵を送ってきたら、どうなるのか。山が怒ったら、誰が責任を取るのか。私は恐ろしくて、沈黙を選びました。私は卑怯者です」
「卑怯者ではありません」
ルーナが静かに言った。
「あなたは、三重の板挟みにあった人です。家族への愛、土地への責任、王国への義務。その三つが矛盾する中で、最も被害が少ない選択を続けてきた。それは卑怯ではなく、判断です。間違っていたかもしれない判断ですが、判断です」
ハイラムは祭壇の前でゆっくりと首を横に振った。
「あなたは、私を軽蔑しますか」
「いいえ。私はあなたの論理を理解します。そして、あなたの苦しみを、私の妹が理解しています」
ルーナはそう言って、イリスを見た。イリスは祭壇の縁から手を離し、ハイラムの方を向いた。
「辺境伯様、あなたのお兄様への詫びは、二十年分、全部、この部屋に残っています。部屋の空気に染み込んでいます。私にはそれが感じられます。詫びは届いていないかもしれないけれど、消えてもいません」
ハイラムは目を瞬いた。一度、二度、三度。それから、片手で顔を覆った。声は出さなかった。肩も震えなかった。ただ、片手で目を覆ったまま、長い時間、動かなかった。
ルーナは妹の言葉を聞いて、ふと思った。この子の能力は、悪意を感知するために生まれたのではなかったのかもしれない、と。悪意を感じるのは能力の一面にすぎず、本質はもっと別のところにあったのかもしれない、と。その別のところが何なのかを、ルーナはまだ言葉にできなかった。
ハイラムは顔を覆っていた手を下ろした。目は赤かったが、涙は流れていなかった。涙は、二十年の間に全部使い切っていた。
「奥様のことを、伺ってもよろしいですか」
ルーナが静かに問うた。ハイラムは頷いた。
「妻は、私が兄を送った翌年に、隣の領から嫁いできました。聡明で、優しい女性でした。しかし三年目に、妻は私に言いました。子を産みたくない、と。理由を聞くと、妻は静かに答えました。あなたがこの館で毎朝何をしているか、私は知っている、と。妻は、私が礼拝堂で詫びていることに気づいていたのです。そして、自分の産む子が、いつかあの扉の中で誰かを詫びる側になるか、誰かに詫びられる側になるか、どちらかしかないと、悟っていました。妻は賢い人でした。私は妻を引き止められませんでした」
ハイラムはそこで言葉を切り、木箱の中から折り畳まれた布を取り出した。広げると、小さな子ども用の上着だった。古びて、虫食いがあった。
「これは、兄が幼い頃に着ていた上着です。母が縫ったものです。兄が山へ行った後、私はこれを、この箱にしまいました。ずっと、誰かに見せる日が来るかもしれないと思っていました。……今日が、その日だったのかもしれません」
ルーナは古びた上着を静かに見つめた。それから、ハイラムの方を向いた。
「ハイラム卿、一つお願いがあります」
「何でしょう」
「歴代の辺境伯が残した手記、ノルン族に関する古文書、土地の地質調査、過去の災害記録、全て見せていただけますか。私は信じます。信じた上で、別の道があるかを調べます」
ハイラムはルーナを見た。その目に、昨夜までなかった何かが宿っていた。ほんの小さな、けれど確かな、光のようなものだった。
「……別の道など、あるのでしょうか」
「あるかないかは、調べてからでないとわかりません。でも、調べる前から、ない、と決めてしまうのは、天才の仕事ではありません。私は天才だと言われています。それが本当なら、私は、調べなければならないのです」
ハイラムは長く沈黙した。それから、ゆっくりと、しかし確かに、頷いた。
「全て、お見せします。この家にあるもの、全て」
イリスはルーナの隣で、ハイラムの感情の変化を肌で感じていた。哀しみは消えていなかった。罪悪感も消えていなかった。けれど、その二つの感情の下に、小さな芽のようなものが生まれていた。希望という名前をつけるには早すぎる、何か、もっと柔らかくて壊れやすいもの。
三人は礼拝堂を出た。ハイラムは扉を閉めたが、鍵はかけなかった。それは二十年以上ぶりのことだった。
廊下を戻りながら、イリスはルーナの袖を小さく握った。ルーナは歩きながら、妹の手を上から軽く包んだ。
「お姉さま」
「なに」
「別の道、本当にあるんでしょうか」
ルーナは少し考えてから、答えた。
「わからない。でも、探すわ。探さないと、あの人の二十年が、報われないから」
イリスは頷いた。頷きながら、もう一度、あの礼拝堂の方を振り返った。扉は閉まっていたが、今朝までと違って、中の空気が少しだけ軽くなっているように感じられた。二十年分の祈りが、初めて外に漏れた朝だった。
お読みいただきありがとうございます。
ハイラムという人物を書くにあたって、一つ決めていたことがあります。
彼を裁かない、ということです。
読者の皆様がこの人物をどう受け止めてくださったか、感想でいただけたら嬉しいです。
次話、ノルン族の聖地に辿り着きます。




