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第7話 自ら差し出される者


「エルナは、三日前から山を見ていたんです」


少女の母親は囲炉裏の前に座って、両手で湯呑みを握りしめていた。湯呑みの中身はもう冷めていた。ルーナとイリスは囲炉裏を挟んで向かいに座っていた。辺境伯ハイラムは遠慮して、土間の入口に立っている。


エルナの家は北の村の一軒で、石積みの土台に木造の二階建てが乗った質素な農家だった。父親は畑に出ていて、この場にいるのは母親と、十歳くらいの弟だけだった。弟は姉の部屋の隅に座って、膝を抱えていた。


「山を見る、というのは」


ルーナは柔らかい声で尋ねた。


「窓辺に立って、山の方角を向いて、何も言わずに立っているんです。朝も、昼も、夕方も。三日間、そうでした。私が声をかけても、うん、とだけ答えて、また山を見るんです」


「何か変わったことはありましたか。前日に誰かと会ったとか、手紙が来たとか」


「いいえ、何も。いつも通りでした。畑仕事を手伝って、弟と遊んで、夕食を食べて。ただ、ある朝、目を覚ました時から、あの子は山の方を向いていたんです」


母親は湯呑みを置いて、膝の上で手を組んだ。


「昨夜、夕食の席で、エルナは急に立ち上がりました。箸を置いて、椅子から立って、何も言わずに戸口に向かいました。私が、どこに行くの、と聞いたら、あの子は振り返って、少しだけ笑って、こう言いました」


母親は言葉を切った。呼吸を整えてから、続けた。


「お母さん、ごめんね。それだけです」


ルーナは黙って頷いた。イリスは母親から少しずれた位置に座って、ずっと母親の方を見ていた。悲しみ、諦め、そして微かに、誇りに似た何か。三つの感情が母親の中で絡まり合っているのがイリスには感じられた。涙の奥に、ほんの少しだけ、震えるような明るさがあった。その明るさの正体がイリスにはわからなかった。


「それで、ご家族はエルナさんを追いかけなかったのですか」


ルーナの質問は丁寧だったが、一歩踏み込んだ問いだった。母親はしばらく答えなかった。湯呑みの縁を指でなぞり、囲炉裏の炭を見つめ、それから顔を上げた。


「追いかけませんでした」


「それは、……追いかけられなかった、ということでしょうか」


「追いかけても、無駄だと知っていたからです」


母親の声は静かだった。泣いてはいなかった。泣く段階はとうに過ぎていた。


「この村では、時々、こういうことが起きます。子どもが急に山を見始めて、何日か経って、自分から出ていく。追いかけた家族もいました。でも、連れ戻された子は、その後、何日もしないうちに、もう一度出ていくんです。二度目は、誰にも気づかれないように、夜中に。連れ戻しても、連れ戻しても、また出ていく。三度目までに、家族は諦めました」


イリスの肩が微かに揺れた。ルーナが隣で気づいた。


「そういう先例が、いくつもあると」


「私の祖父の代にも、父の代にも、私の代にも。数えれば、きっと、何十人もいます」


「記録は残っていますか」


「記録を残すのは、辺境伯様のお仕事です。村では、数えません。数えると、辛くなるからです」


ルーナは深く頷いた。質問を止めた。これ以上は踏み込まない方がいいと判断した。母親の感情は既に限界に近い。イリスが先ほどから、母親の方に向かって肩を少しずつ傾けていた。痛みを受け止める姿勢だった。イリスは母親の感情を代わりに引き受けているのだった。


ルーナは礼を言って、立ち上がった。イリスも立ち上がった。母親は見送らなかった。弟が土間まで出てきて、二人を見上げた。


「お姉ちゃんは、どこに行ったの」


少年はそれだけ尋ねた。ルーナは膝を折って少年の目線に合わせた。


「わからないの。でも、調べるわ」


「連れて帰ってくれる?」


ルーナは即答しなかった。答えたくなかったのではない。約束できないことを約束する習慣がなかった。


「調べるわ」


それだけ繰り返して、ルーナは立ち上がった。イリスが少年の頭に手を伸ばしかけて、途中で止めた。触れていいのか迷って、結局、触れずに引っ込めた。少年は何も言わずに家の中に戻った。


村の広場で、辺境伯ハイラムが二人を待っていた。


「もう一人、会っていただきたい方がおります。村の古老で、この土地のことを一番よく知っている方です」


古老の家は村の外れにあった。小さな掘立小屋で、屋根には苔が生えていた。中に入ると、囲炉裏の脇に白い顎鬚の老人が座っていた。八十は超えているだろう。目は半ば閉じていたが、二人が入ってくると、ゆっくりと開いた。


「王都からの方々か」


「エルナさんのことで、お話を伺いたくて」


「エルナか。あの子は穏やかな子だった。畑仕事もよくやった。……もう、帰ってこぬよ」


「なぜ、と伺ってもよろしいですか」


古老は答える前に、長い息を吐いた。


「これは、昔からのことだ。止められん。止めようとすると、山が怒る」


「山が怒る、というのは」


「そのままの意味だ。昔、三度、村の衆が若者を取り戻そうとした。わしが若い頃に一度、わしの父の代に二度。三度とも、山が荒れた。川が枯れ、森が病んだ。一度目の時は、村から二十人が飢えて死んだ。二度目の時は、山の向こう側の村が丸ごと消えた。三度目の時は、……もう忘れたがった連中も多い。とにかく、学んだのだ。取り戻してはならぬ、と」


ルーナは古老の言葉を丁寧に聞いた。迷信だ、と頭の片隅で声がした。因果関係は証明されていない。若者を取り戻したから災害が起きたのではなく、たまたま時期が重なっただけかもしれない。論理的にはそう処理できる。


しかしイリスの様子を見て、ルーナは自分の中の声を一度、保留にした。


イリスは古老の方を向いて、小さく首を縦に振っていた。それはルーナだけが意味を理解できる仕草だった。嘘はない、という合図だった。古老は嘘をついていない。信じている。信じた上で、深く罪悪感を抱えている。


「あなたは、三度の試みを全て覚えていらっしゃるのですか」


「一度は、この目で見た。二度と三度は、父と祖父から聞いた。わしの家は、村で一番古い家だからな。語り継ぐ役を、代々、背負っている」


「エルナさんが今どこにいるか、ご存知ですか」


古老は首を横に振った。


「知らぬ。知ってはならぬと、代々、言われておる。知れば、取り戻したくなる。取り戻したくなれば、また山が怒る。だから、我らは知らぬまま、ただ送り出す」


古老はそこで言葉を切り、囲炉裏の火を見つめた。


「一つだけ、申し上げておく。エルナは苦しんではおらぬ。これは、確かだ。苦しんでおる子は、山を見始めぬ。山を見始める子は、呼ばれておる。呼ばれておる子は、行ってからも、穏やかだ。……それだけが、我らの慰めだ」


館に戻る馬車の中で、ルーナはずっと黙っていた。イリスも黙っていた。辺境伯ハイラムは前の馬車に乗っていて、この馬車には二人だけだった。


「イリス」


「はい」


「古老は嘘をついていなかったのね」


「はい。あの方は、自分が語ったことを全て信じていました。そして、語ることに、深い罪の意識を持っていました。代々、語り継ぐ役を背負っている、と仰っていましたが、あれは役というより、罰に近い感覚でした」


「母親は」


「悲しんでいました。諦めていました。そして、……これはうまく言えないんですが、誇っているような感情もありました。自分の娘が選ばれた、という、祈りに似た誇りです。痛ましい誇りでした」


ルーナは窓の外を見た。街道の両側に、収穫を終えた畑が広がっていた。どの畑にも人影はなかった。夕暮れが近づいていた。


「私は今まで、いくつもの問題を解いてきた。陰謀も、詐欺も、横領も、全部、悪意を持った誰かがいて、その悪意を暴けば解決する問題だった。でも、これは違う」


「違いますね」


「誰も悪意を持っていない。誰も嘘をついていない。誰も人を傷つけたいと思っていない。それなのに、毎年誰かが消えて、家族が泣いて、村全体が諦めている。こんな形の問題を、私は初めて見る」


馬車が揺れた。車輪が石を踏んだ音がした。


「イリス、あなたの能力は悪意を感じる能力だった。でも今、あなたは悪意がないところで痛みを感じている。これはどういうことだと思う」


イリスは窓の外を見ながら、ゆっくり答えた。


「悪意じゃない何かが、人を傷つけることがあるんだと思います。それは、悪意より、……もしかしたら、もっと、止めにくいものです」


ルーナは頷いた。頷いて、膝の上に置いた古文書に視線を落とした。ノルン族の記述の続きを、館に戻ってから読むつもりだった。


館に着いたのは日が完全に沈んでからだった。ルーナはすぐに自室にこもって、古文書と辺境伯家の歴代の手記を並べた。ランプの灯りを頼りに、一晩中、ページをめくり続けた。イリスは隣の部屋で、ルーナの集中を邪魔しないように静かにしていた。


夜半、イリスは水を飲みに部屋を出た。廊下はほとんど真っ暗だった。窓から月の光が差し込んで、床に四角い明かりを落としていた。


客間から数歩歩いたところで、イリスは足を止めた。


あの小さな扉の前に、ハイラムが立っていた。昨夜と同じように、扉に額をつけるように俯いていた。昨夜と違うのは、今夜は声が聞こえたことだった。


「また、一人……どうか、……どうか、許しを」


ハイラムの声は低く、震えていた。


イリスはその声を聞いた瞬間、廊下の壁に手をついた。扉の向こうから溢れている「重い水」が、今夜は特に強かった。哀しみと罪悪感と諦めが混じった、イリスが今まで感じたどの感情よりも深い何かだった。肌は刺されなかった。代わりに、胸の奥に直接、重いものが沈み込んだ。


ハイラムはイリスに気づいていなかった。祈り続けていた。


イリスは壁に手をついたまま、しばらく動けなかった。それから、そっと客間に戻った。ルーナを呼ばなかった。今夜は、ルーナを呼んではいけないような気がした。


寝台に横になっても、眠れなかった。天井を見つめながら、イリスは一つの決心をした。


明日、あの扉の中を見せてもらおう。


たとえ何があっても、あの部屋に入って、あの方の祈りの正体を知らなければならない。


窓の外で、月が雲に隠れた。

お読みいただきありがとうございます。

悪意のない加害、というものが、世の中にはあります。

誰も悪くないのに、誰かが傷ついていく。

そういう問題に、二人はどう向き合うのか。

次話、辺境伯ハイラムが二十年間守ってきた沈黙が破られます。


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