第6話 善き領主
「ようこそ、ヴァルデンへ」
辺境伯ハイラムは館の玄関に自ら立って二人を迎えた。四十代後半の、穏やかな顔立ちの男だった。髪には白いものが混じり、背筋は真っ直ぐで、両手は自然に体の脇に下ろされていた。誰かを威圧する姿勢ではなかった。
ルーナは軽く会釈を返した。同時にイリスの様子を横目で確認した。館の門をくぐった瞬間から、妹の歩幅が少しだけ小さくなっている。痛みではない。警戒でもない。何か別のものを感じている顔だった。
「お初にお目にかかります。第三王女のルーナと申します。こちらは妹のイリス」
「遠路お疲れでしょう。まずはお部屋でお休みください。夕食は日が沈んでから。それまでは何もお尋ねいたしません」
感じの良い男だった。ルーナは直感した。彼には隠し事をする人間特有の硬さがない。言葉が滑らかで、視線が揺れない。協力的で、誠実で、賢明な領主。
ところがイリスは客間に通される途中で、一度だけ小さく足を止めた。廊下の奥の方向を見ている。ルーナもその方向を見た。長い廊下の先に、小さな扉があった。他の扉より一回り小さく、木の色が古い。装飾もない。
「どうしたの」
「いえ、……何でもありません」
イリスはそれだけ言って歩き出した。
客間に二人きりになってから、ルーナは改めて尋ねた。
「あの扉で、何を感じたの」
「わからないんです」
イリスは窓辺に立って、庭を眺めながら答えた。
「悪意じゃありません。敵意でもありません。針でも刃でもなくて、もっと、……重い水のようなものが、扉の向こうから滲み出ていました」
「重い水」
「お姉さまに伝えるのが難しいんですけど、痛いんじゃなくて、肩に乗ってくるような感じで。今まで経験したことのない種類の痛みです」
ルーナは少し考えた。イリスの能力は悪意と敵意を感じる。それ以外の感情も、強く発せられていれば肌で感じることがある。哀しみ、恐れ、祈り。宮廷ではそういう感情は悪意の騒音の下に埋もれていて、気づく機会が少なかった。辺境の静けさの中では、別の感情が姿を現しているのかもしれない。
「無理に説明しなくていいのよ。ただ、感じたことは全部、私に教えて」
「はい」
夕食は広間で供された。長いテーブルの片方にハイラム、反対側にルーナとイリスが並んで座った。料理は素朴だが丁寧で、鹿肉のローストと根菜の煮込み、北方特有の黒いパンが出された。
ハイラムは食事の間、ほとんど質問をしなかった。王都の天候について、馬車の道中について、ごく穏やかな話題だけを選んで投げてきた。ルーナが答えれば静かに聞き、答えなければそれ以上踏み込まなかった。
食事が半ばを過ぎた頃、ルーナの方から切り出した。
「失踪事件の資料を、明日から拝見させていただきたいのですが」
「全て用意してあります。過去十年分の記録、各村からの報告書、捜索隊の調査書。何一つ隠しておりません」
即答だった。躊躇も抵抗もなかった。ルーナはその素早さに、むしろ微かな引っかかりを覚えた。不正を隠す人間は資料を出し渋る。しかし資料を積極的に出す人間にも、実は二種類いる。本当に隠すことがない人間と、資料には何も書かれていないと知っている人間だ。
イリスが隣でゆっくりと黒パンを千切っていた。その指が一瞬だけ止まった。ルーナは気づいた。妹が何かを感じている。
「王都の方に調べていただけるのは、むしろ有り難い。私の代で、この土地のことが少しでも明らかになるのであれば」
ハイラムはそう言って、ワインのグラスを少しだけ傾けた。その時イリスが、ごく小さく息を吸った。
「宰相グラウスの件は、王都でも話題になっているそうですね」
ハイラムが話題を変えた。ルーナは静かに頷いた。
「先月、正式に罷免されました」
「長く権力を握っていた方だと聞いております。その方が裁かれたというのは、……悪が裁かれたのですね。良いことです」
静かな声だった。穏やかな声だった。非の打ち所のない声だった。
ところがその瞬間、イリスの肩が微かに揺れた。ルーナだけが気づく程度の、小さな震えだった。
ルーナは何も言わずに頷き返し、ワインを一口飲んだ。イリスの皿の黒パンが、さっきより細かく千切られていた。
夕食後、二人は客間に戻った。扉を閉めて、お互いの顔を見た。
「お姉さま」
「言って」
「悪が裁かれたのですね、と言った時です。あの言葉を言う瞬間、あの方から哀しみが溢れました。怒りではなく、安堵でもなく、哀しみです。すごく、深い哀しみでした」
「悪が裁かれて、なぜ哀しむのかしら」
「わかりません」
イリスは椅子に座って、膝の上で手を組んだ。
「ただ、あの方は、悪という言葉を口にするのが辛そうでした。まるで自分のことを話しているような」
ルーナは窓辺に立って、夜の庭を見た。月が高く昇っていた。庭の向こうには森があり、森の向こうには雪を被った山があった。全てが静かだった。
「イリス、一つ聞いていい」
「はい」
「あなたは今、あの方を悪人だと思う?」
イリスは長く考えた。
「いいえ。悪人ではありません。悪人の感情とは全く違います。むしろ、……とても善い人だと思います。善すぎて、苦しんでいる人です」
「善すぎて苦しむ」
「そんな感じです」
ルーナは頷いた。頷きながら、頭の中では別のことを考えていた。悪意を感じる能力を持つ妹は、悪意がないと判断した。論理を扱う自分は、資料が即座に出されたことに引っかかりを覚えた。二人の感覚が一致しないのは、この旅で初めてだった。
夜半、ルーナは眠る前に水を飲もうと部屋を出た。廊下は暗く、壁のランプの灯りが弱く揺れていた。
客間から数歩歩いたところで、ルーナは足を止めた。
廊下の奥、あの小さな扉のところに、誰かがいた。
ハイラムだった。扉の前に立って、扉に額をつけるように俯いていた。祈っているようにも、何かを詫びているようにも見えた。ルーナは息を潜めて観察した。ハイラムはしばらく動かなかった。やがて顔を上げ、ゆっくりと扉を開けて中に入った。扉は音を立てずに閉まった。
ルーナは客間に戻って、イリスの寝息を確認してから、自分の寝台に横たわった。
天井を見つめながら、妹の言葉を反芻した。
重い水のようなもの。
善すぎて苦しむ人。
悪が裁かれたのですね、と言いながら溢れた哀しみ。
眠る前に、ルーナは古文書をもう一度開いた。ノルン族の記述のページだった。指先でそのページに触れながら、長い時間、目を閉じていた。
翌朝、朝食の席で、館の使用人が駆け込んできた。顔が青かった。
「辺境伯様、ご報告です。……また一人、消えました」
ハイラムは手に持っていたカップをそっと皿に戻した。一瞬、目を閉じた。それから静かに尋ねた。
「誰が」
「北の村の、エルナという娘です。十七歳です。家族の話では、昨夜、夕食の席で突然立ち上がって、家を出ていったそうです。止める間もなかったと」
ハイラムは頷いた。ただ頷いただけだった。
使用人が付け加えた。
「それから、ご家族が泣きながら言っておりました。……あの子は、自分から行ったんだと」
イリスがルーナの袖を握った。
お読みいただきありがとうございます。
この章では、第1章とは違う種類の問題を扱っています。
宰相のような明確な悪はここにはいません。
ルーナとイリスの能力は、それでも役に立つでしょうか。
次話、少女エルナの失踪の真相に近づきます。




