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第5話 北へ向かう馬車

第1章「宮廷編」を読んでくださった皆様、ブックマーク・評価・感想、本当にありがとうございました。

続きを書くことができたのは、皆様の反応があったからです。

第2章「北方辺境編」、全6話完結で始めます。

第1章を読まれていない方も、この章から読めるように書いています。



「お姉さま、空が広いです」


馬車の窓から身を乗り出したイリスが、ほとんど声を出さずに呟いた。ルーナは古文書から目を上げて、妹の後ろ姿を見た。亜麻色の髪が風に揺れている。その肩のあたりには、昔と違って強張りがない。


王都の門を出て半日。街道は真っ直ぐに北へ伸び、両側には麦畑と牧草地が広がっていた。雲の影が畑の上をゆっくり走っていく。雲の影など、王宮の窓からは決して見えなかった。


「初めて?」


「はい。……こんなに、何もない場所があるなんて、知りませんでした」


「何もないのが良いのよ。何もないということは、誰もいないということだから」


イリスは小さく頷いた。誰もいない。それはつまり、誰も痛くない、という意味だった。


馬車の揺れに合わせて、古文書のページが一枚めくれた。ルーナはそれを押さえながら、三日前の父王との謁見を思い出した。


「護衛を連れずに行くというのか」


王は執務机の向こうから娘を睨んだ。


「妹は人の感情を肌で感じます。護衛が十人つけば、十人分の針が妹の肌に刺さり続ける。二週間の旅で、妹は確実に壊れます」


「しかし辺境伯領は遠い。盗賊も出る」


「私たちは御者一人と馬車一台で発ちます。街道沿いの領主たちに密かに見守るよう通達してくださるのであれば、それで十分です。姿を見せない護衛が、私たちにとっての最良の護衛です」


王は長く沈黙した後、重い息を吐いた。


「お前の妹への配慮は、この国が失ったはずのものだな」


「父上、失わせたのは、この国です」


王はそれ以上何も言わなかった。翌朝、ルーナとイリスは馬車一台で王都を発った。御者は王宮で二十年仕える老人で、口数が少なく、イリスも「大丈夫です、この人からは何も感じません」と頷いた人物だった。


街道を進むうちに、ルーナは時々振り返る癖がついた。見送るように馬を止めている旅人がいる。遠くの丘から見下ろしている人影がある。領主たちは通達通り、姿を見せない護衛を用意していた。イリスはそれらの気配を感じても痛くないらしい。遠すぎて針が届かないのだ、と妹は言った。


「お姉さま、あれ、何ですか?」


「牛よ」


「うし……」


「知らない?」


「絵でしか」


ルーナは一瞬返事に詰まった。王宮の図書館にある博物誌には当然、牛の絵が載っている。しかし実物を見るのは十六歳で初めてだったのか。ルーナ自身も考えてみれば、ここ十年ほど生きた牛を見ていない。


「あの、角があるんですね」


「そう。角があるの」


「思ったより大きいです」


「そうね」


会話にならない。会話になっていないのに、なぜかイリスは満足そうだった。牛を見て満足する人間というのを、ルーナは初めて見た。


しばらくして、今度は別のものが目に入ったらしい。


「お姉さま、あれは何ですか」


「案山子よ」


「かかし……」


「農夫が鳥を追い払うために立てる人形」


「人形なんですね。最初、人だと思って、あの人は大丈夫かなと心配しました」


「畑のど真ん中で棒立ちしている人がいたら、確かに心配ね」


イリスが笑った。小さな笑いだったが、ルーナの記憶にある限り、妹が初めて声を出して笑った瞬間だった。ルーナは古文書のページをもう一枚めくりながら、笑顔を読者に見られないように横を向いた。


三日目の夕方、馬車は最初の宿場町に着いた。


ルーナは御者に指示して馬車を広場の端に止めさせた。宿の選定はルーナが自分でやる。候補の宿が三軒あった。ルーナはイリスを連れて広場を横切り、それぞれの宿の前で足を止めた。


一軒目。看板には猪の絵。扉を開ける前にイリスが小さく首を振った。


「ここは駄目です。中に喧嘩をしている人が二人います。怒りが強くて、近くにいるだけで肌が痛くなります」


二軒目。看板には麦の穂。イリスは扉の前で少し考えてから、首を傾げた。


「悪くないんですが、奥の部屋に病気の方がいます。その人から哀しみが出ています。悪意ではないので痛くはないんですが、休める場所ではないかもしれません」


三軒目。看板には鹿の絵。イリスは扉の前で耳を澄ますようにしてから、小さく頷いた。


「大丈夫です。悪い人はいません」


「あなたの審査を通ったのね」


「悪い人がいる宿は、扉を開ける前からわかるんです。ひやっとするので」


便利な審査制度だった。ルーナは今後の旅で正式に採用することにした。


宿に入ると、主人が揉み手で出迎えた。


「これはこれは、お貴族様のご姉妹で。最高の部屋をご用意いたします。二階の一番奥、窓からの眺めも最高でして、お食事は地元の名物、鹿肉のシチューを」


ルーナは身分を明かさずに旅をしていた。質素な旅装のおかげで、主人は裕福な商家の娘たちだと勘違いしているようだった。軽く頷いて代金の交渉に入ろうとした。その時、イリスが隣で小さく咳払いをした。


ルーナは動きを止めた。


「……イリス?」


「何でもありません。ただ、ちょっと」


「ちょっと?」


「あの方、今、心の中で六倍と言いました」


ルーナは主人を見た。主人は完璧な笑顔を浮かべていた。


「六倍」


「いつもの代金の六倍で請求するつもりだそうです。都会の方は相場を知らないだろうと」


主人の笑顔がほんの少しだけ固まった。イリスはにこやかに続けた。


「悪意というほどではないんです。商売根性の一種です。針一本分くらい」


「針一本分で六倍取られるのも困るわね」


ルーナは懐から宿場町の標準料金表を取り出した。王都を出る前に財務省から借りてきたものだった。主人の目の前でページを開いて、該当する項目を指で示した。


「こちらの表ですと、二名二泊、食事付きで銀貨三枚ですね。六倍ですと十八枚になりますが、何か特別な事情でも?」


主人の額に汗が浮かんだ。


「……いえ、その、料金表は、少し古いものかと」


「先月発行されたばかりです」


「……銀貨三枚で、承ります」


「鹿肉のシチューは」


「もちろん、お付けいたします」


ルーナは満足して頷いた。イリスも満足して頷いた。主人だけが、やや青ざめた顔で鍵を取りに走った。


二階の部屋に入ると、イリスは窓辺に立って外を見た。宿場町の屋根が夕日に染まっていた。遠くの畑で誰かが牛を追っているのが見える。


「お姉さま」


「何」


「旅は、楽しいですね」


ルーナは古文書を机に置きながら、妹の背中を見た。この子は十六年間、ただの一度も「楽しい」という言葉を使わなかった。宮廷にいた頃の語彙には、楽しいという言葉が含まれていなかった。


「そうね。楽しいわ」


夕食の席で、相席になった老人がいた。白髪の行商人で、北の村々を回って香辛料を売っているという。ルーナがヴァルデン辺境伯領へ向かうと告げると、行商人は鹿肉のシチューを一口すすってから、少し笑った。


「北のヴァルデンね。あすこは、昔から人が消える土地ですよ」


「盗賊ですか」


「ってことに、なってますな」


行商人はそれ以上言わなかった。ルーナは静かにその言葉を頭の中に書き留めた。イリスは行商人の方を見て、小さく首を傾げた。後でルーナに囁いた。


「あの人からは悪意がありません。ただ、哀しいです。すごく、哀しい」


その夜、部屋で荷物を整理しながら、ルーナは古文書の一ページを開いた。ノルン族に関する記述だった。


彼らは護り手の民、と書かれていた。


ルーナはその一行の上で指を止め、長い時間、動かさなかった。


窓の外では、宿場町の明かりが一つ、また一つと消えていった。

お読みいただきありがとうございます。

次話は明日更新します。

二人は辺境伯の館に着きます。

そこで出会うのは、穏やかで慈悲深い領主と、その領主から滲む奇妙な「重さ」です。

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