第10話 水の声、人の声
「兄は、生きているのですか」
ハイラムの声は震えていた。翌朝、書斎に呼ばれて、ルーナから全てを聞かされた直後のことだった。ハイラムは椅子に座っていたが、両手が膝の上で固く握られ、指の関節が白くなっていた。
「わかりません」
ルーナは静かに答えた。
「二十年前に谷へ行った方が、今もご存命かどうか、私には確認できません。ユーリ様の話では、谷の住人の寿命は外の人々と大きく変わらないそうです。二十年前に二十三歳だったお兄様なら、今は四十三歳です。生きている可能性は十分にあります」
ハイラムは目を閉じた。開いた。閉じた。開いた。その繰り返しの間に、二十年分の時間が彼の中で動いていた。
「私は、兄を殺したと思って、二十年詫びてきました」
「殺してはいませんでした」
「……これは、救いなのでしょうか。罰なのでしょうか」
ルーナは答えなかった。答えるべき問いではなかった。答えを出すのはハイラム自身だった。
イリスは部屋の隅で、ハイラムの感情を静かに受け止めていた。混乱と希望と罪悪感と、そしてほんの少しの怒り。怒りは意外だった。誰に対する怒りなのか、イリスにもすぐにはわからなかった。しばらく観察して、気づいた。ハイラム自身への怒りだった。二十年間、疑いもしなかった自分への怒り。もっと早く調べていれば、もっと早く疑っていれば、という遅すぎた後悔の形の怒りだった。
「ハイラム卿」
ルーナが静かに名を呼んだ。
「今から決めていただきたいことがあります。明日の集会で、あなたは村の衆に何を話しますか」
ハイラムは顔を上げた。
「集会」
「はい。ノルンの長老と、辺境伯と、私が立ちます。四百年の慣習を変える提案をします。あなたが隣に立つかどうか、あなたが口を開くかどうか、それを決めていただかないと、私たちは前に進めません」
ハイラムは長く沈黙した。それから、ゆっくりと頷いた。
「立ちます。話します。私は四百年の中で、これまで沈黙してきた辺境伯の最後の一人になります」
翌日の集会は、村の広場で開かれた。
北の村々から数十人が集まっていた。エルナの母親の姿もあった。古老の姿もあった。壮年の男たち、老いた女たち、若者、幼い子を抱いた母親。ハイラムの命令で急遽召集された人々だった。広場の中央には古い石の祭壇があり、その前にハイラム、ユーリ、ルーナが並んで立った。イリスはルーナの半歩後ろに立っていた。
広場には静けさがあった。普通の静けさではなかった。何か重大なことが告げられると察した人々の、身構えるような静けさだった。イリスは肌で感じていた。不安、警戒、微かな怒り、そして困惑。百種類の感情が混ざって、百本の針になって押し寄せていた。痛かった。けれどイリスは耐えた。今日の痛みは、耐えるために来た痛みだった。
ルーナが一歩前に出た。
「私は王都からの使者として、この土地の失踪事件を調べに参りました。そして、真実を知りました」
ルーナは声を張らなかった。普段の静かな声のままだった。しかし広場の端まで、その声は届いた。
「皆さんの村々から山に送られた若者たちは、死んでおりません」
ざわめきが起きた。驚きというより、意味を理解できないという種類のざわめきだった。母親たちの何人かが顔を上げた。エルナの母親もその一人だった。
「山の奥に、小さな谷があります。そこに、四百年前から護り手と呼ばれる人々が暮らしています。最初は捧げられた者たちでした。次に、その子孫たちが加わりました。今、谷には数十人が暮らしています。畑を耕し、家畜を飼い、子を育て、年を取り、穏やかに世を去っています」
ルーナは一度、言葉を切った。次の一言が重要だった。
「皆さんが送った若者たちの多くは、今も、そこで生きています」
静けさの質が変わった。驚きが広場を覆った。一人の老婆が声を上げて泣き始めた。一人の男が立ち上がって、何か叫ぼうとして、しかし言葉にならずに座り直した。エルナの母親は両手で口を覆っていた。
「しかし」
ルーナの声が続いた。
「私は、若者たちを取り戻しに来たのではありません」
ざわめきが止まった。
「谷の護り手たちは、山を守る役割を担っています。あの谷には特別な泉があり、泉を維持することで、山全体の土壌が安定しています。泉を放置すれば、山は再び荒れます。四百年前にあなた方の祖先が経験した災害が、もう一度起きます。つまり、護り手は必要なのです。若者を差し出す、という形が必要なのではなく、誰かが谷で暮らし、泉を守る、という形が必要なのです」
古老が震える声で尋ねた。
「それでは、……何が、変わるのじゃ」
「捧げる、という形を、就く、という形に変えます」
ルーナは丁寧に、しかし揺るがない声で続けた。
「これから谷で暮らす方は、志願制とします。生涯ではなく、任期制とします。十年、あるいは五年。任期が終われば、谷を出て、村に戻れます。今、谷にいる方々のうち、帰りたい方は帰っていただきます。残りたい方は残っていただきます。若者の失踪は、なくなります。山の安定は、保たれます」
古老は立ち上がろうとした。膝が震えて、すぐには立てなかった。隣の若者が支えた。古老は支えられたまま、震える声で問うた。
「山は、……怒らぬのか」
「山は、誰も怒っていませんでした」
ルーナの声に、初めて柔らかさが混じった。
「山が怒るのではなく、泉が枯れるのです。泉を維持する人がいなくなれば、水脈が滞り、地滑りが起きます。それは怒りではなく、自然の仕組みです。仕組みを知れば、対処できます。泉の周りに常に人がいれば、山は荒れません。誰が、いつ、どれくらいの期間そこにいるか、という形は、私たちが決められるのです」
広場がざわめいた。反対の声が上がった。賛成の声も上がった。若者たちの何人かは目を輝かせていた。年寄りたちの何人かは首を横に振っていた。
ここから先が、イリスの仕事だった。
ルーナが振り返って、妹に小さく頷いた。イリスは前に進み出て、広場全体を見渡した。百人近い視線がイリスに集中した。百人分の感情が肌に突き刺さった。けれどイリスは倒れなかった。
「お姉さま」
イリスは小さな声で、しかしルーナには聞こえる声で囁いた。
「右から三列目の、白い髭の方。あの方は怒っていますが、奥に深い不安があります。子どもを谷に送るのが怖いのです。任期制でも怖いのです。もっと詳しい説明が必要です」
ルーナは頷いて、その男に向き直った。名前を尋ね、質問を受け、任期の詳細を説明した。男は完全には納得しなかったが、座り直した。
「左の、青い上着の奥様。あの方は賛成したがっていますが、周りの目を気にしています。周りの誰かが先に賛成の声を上げれば、あの方も賛成します」
ルーナは広場全体に向かって、既に賛成の意を示している若者たちの名前を呼んだ。若者たちが一人ずつ立ち上がった。青い上着の女性は、周りを見回してから、静かに立ち上がった。
「後ろの列の、背の低い老人。あの方は昔、若者を取り戻そうとして山が荒れた時の記憶を持っています。その記憶が強すぎて、新しい提案を受け入れられません。あの方には、お姉さまの地質調査の話を、もう一度、時間をかけて伝える必要があります」
ルーナはその老人のところまで歩いて行き、膝を折って目線を合わせた。古文書を広げて、過去二百年の災害記録と谷の人口記録の相関を、一つずつ指差して説明した。老人は最初、聞こうとしなかった。しかし孫らしき若者が横で頷いているのを見て、次第に聞き入った。
議論は午前から午後まで続いた。午後から夕方まで続いた。一日では終わらなかった。
集会は三日間、続いた。
二日目、ハイラムが初めて口を開いた。
「私の兄は、二十年前、山へ行きました。私は送り出しました。昨日まで、私は兄が亡くなったと信じていました。しかし、兄は谷で生きているかもしれない、と、今、私は知らされました」
広場が静まった。ハイラムの声は震えていたが、止まらなかった。
「私は二十年間、毎朝、兄に詫びてきました。辺境伯家の歴代の当主は、代々、自分の送った誰かに詫び続けてきました。私たちは、詫びることで、沈黙を続けてきました。沈黙は、何も変えませんでした。四百年間、何も変えませんでした。ですから、私は、沈黙を破ります。私は、この提案に、辺境伯として同意します。そして、できれば兄を迎えに、谷へ行きたいと思います。兄が帰ると言ってくれるかはわかりません。帰らないかもしれません。それでも、会いに行きたいのです」
エルナの母親が立ち上がった。
「私も、……娘に会いに、行きたいです」
広場のあちこちから、同じ声が上がった。娘に会いたい。息子に会いたい。孫に会いたい。姉に、兄に、叔父に、叔母に。四百年分の会いたいという声が、広場を埋めた。
三日目の夕方、最初の合意が成立した。
完全な合意ではなかった。反対する者は残っていた。しかし過半数が、任期制への移行を承認した。そして、まず第一歩として、谷の護り手のうち帰りたい者を一人、村へ戻すことが決まった。
その一人を決めたのは、ユーリだった。
ユーリは谷へ降りて、三日をかけて護り手たち一人一人と話をし、最も若い志願者を選んだ。十八歳の少年だった。三年前に送られてきた少年で、谷での暮らしに馴染めず、けれど外に出る道を知らずに沈黙していた子だった。
少年が谷から連れ出されて村に戻る日、広場に再び人が集まった。
少年の母親は広場の入口に立って、両手を震わせていた。泣いていなかった。泣くには早すぎた。まだ息子の顔を見ていなかったからだった。
谷からの道の奥から、三つの人影が現れた。ユーリ、ハイラム、そして少年だった。少年は瘦せていたが、歩けていた。村に近づくにつれて、歩く速度が落ちた。母親の姿が見えた時、少年の足が完全に止まった。
母親が先に駆け出した。広場の石畳を走り、息子に向かって走り、数歩手前で膝から崩れ落ちた。少年は立ち尽くしていた。母親は膝立ちのまま、両腕を広げた。少年は一歩、また一歩と進み、最後は倒れ込むように母親の腕の中に落ちた。
母親は声を上げて泣いた。少年も泣いた。広場の人々も泣いた。泣かない者は一人もいなかった。
イリスはルーナの隣に立って、その光景を見ていた。
肌に、感情が押し寄せていた。母親の歓喜、少年の戸惑いと安堵、周りの人々の羨望と祝福と、まだ戻ってこない自分の家族への哀しみ。百を超える感情が、一斉にイリスの肌に届いた。
痛くなかった。
イリスは立ったまま、自分の肌に触れてみた。腕に、首に、頬に。どこにも針はなかった。刃もなかった。代わりにあったのは、温かいものだった。温度を持った何かが、感情の代わりに肌に届いていた。
イリスは声を出さずに、それが何かを理解した。
これは、祝福という名前の感情だった。
祝福は、イリスにとって初めて出会う感情だった。悪意の反対ではない。善意とも違う。もっと広くて、もっと深くて、悲しみも含んでいて、それでも全体としては温かいものだった。祝福は、痛みとしてではなく、温もりとして肌に届いた。イリスはその事実に、自分でも気づかないうちに涙を流していた。
「お姉さま」
イリスは隣のルーナに小さく囁いた。
「私、今、初めて、他の人の感情が温かいと感じました。痛くないんです」
ルーナは振り返って、妹の涙を見た。それから、自分の指先でそっとその涙を拭った。
「あなたの能力が、変わったの?」
「いいえ」
イリスは涙を拭われながら、首を横に振った。
「能力は、同じです。ただ、……痛みの名前が、増えただけです」
ルーナはその言葉を聞いて、長い間、何も言えなかった。
少年の母親は、まだ広場で息子を抱いていた。ハイラムはその光景を少し離れた場所から見ていた。彼の目に涙はなかった。代わりに、二十年分の重荷が少しだけ下りた、静かな表情があった。兄は谷に残ると決めた。ハイラムが面会に訪れた時、兄はハイラムを覚えていたが、帰らないと答えた。四十三歳の兄は、谷の暮らしを選んだ。ハイラムはそれを受け入れた。帰らせることが全てではないと、この三日間で学んでいた。兄が生きている、ということだけで、二十年分の石が一つ、礼拝堂の床から取り除かれた気がしていた。
夜、館に戻った二人は、客間の窓辺に並んで立った。月が雪を被った山の上に昇っていた。山は静かだった。これまでも、これからも、静かであるはずだった。
「お姉さま」
「なに」
「王都に戻ったら、何をしますか」
ルーナは少し考えてから、答えた。
「調べたいことがあるの」
「なんでしょう」
「南の海辺の話よ。ある漁村で、十年前から海が変だという報告があったの。魚が取れなくなって、けれど汚染は見つからない。原因が誰にもわからないまま、村が少しずつ衰えている」
「行きますか」
「行くわ。あなたと一緒に」
イリスは頷いた。窓の外の山を見ながら、次の旅のことを考えた。次の旅にはまた、新しい種類の痛みが待っているだろう。そしてもしかしたら、新しい種類の温かさも待っているかもしれない。
ルーナは妹の肩に手を置いた。イリスはその手に、もう一方の手を重ねた。
山の上の月が、ゆっくりと雲に入っていった。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
第1章を書き終えた時、続きを書くかどうかは皆様の反応次第だとお伝えしました。
その約束通り、皆様のブックマークと評価と感想が、この第2章を生みました。
一人で書いた物語ではありません。読んでくださった方々と一緒に書いた物語です。
心から感謝しています。
第2章では、イリスが初めて「温かい」という感情に触れました。
彼女の能力は変わっていません。変わったのは世界の見え方です。
この変化を書くために、私はこの章を書きました。
二人の次の旅は、南の海辺です。
十年前から魚が取れなくなった漁村で、誰にも原因がわからない不思議が起きています。
もし第3章を読みたいと思ってくださる方がいらしたら、ブックマークや感想で教えてください。
皆様の声があれば、二人をまた旅に出します。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
ルーナとイリスに代わって、深くお礼を申し上げます。




