そうだね、帰ろうか
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「おうちに帰る?」
振り返るごんちゃんに頷きます。
「そう、おうちに帰ろう。」
これがわたしがごんちゃんに使える『魔法の言葉』の筈です。
ごんちゃんはとてもお利口な犬で、あまり手間をかけさせる事が無い子でした。
それでも時々、お散歩中に歩くのを嫌がったり、時間が過ぎているのに帰りたがらないこともありました。
そんな時にかけていた言葉が『おうちに帰ろう』でした。
『おうちに帰ってご飯を食べよう』『お父さんが帰って来るからお家に帰ろう』等声をかけると、渋々ながら言うことを聞いてくれました。
この言葉でだめだったら‥どうしましょう。
「うん、お家に帰ろう!」
わたしの心配を他所に、ごんちゃんは嬉しそうに尻尾を振りました。
「おかあしゃんも一緒に!」
「そうだね、一緒に帰ろうね。」
わたしはごんちゃんの言葉に頷きました。
心が痛みます。
無理なのです。
犬の知能は大体2.3歳くらいの子供と同じくらい、と聞いた事があります。
そんな小さな子供に今のわたしの状況を納得させるのは難しいです。
第一時間が足りません。
今も、ごんちゃんの後ろ辺りに黒い靄が集まり始めています。
早くごんちゃんをこの場から逃さなくてはいけません。
「さあ、ごんちゃん行こう。」
わたしは黒い靄と反対方向にごんちゃんを誘導しようとしました。
「え?おかあしゃん、そっちは道がちがうよ?」
歩き出そうとしたわたしにごんちゃんが不思議そうに言います。
道が違おうがそんなのどうでも良いのです。
早くこの場からごんちゃんを逃がしたいだけなのですから。
「そうなの?でも、こっちの道の方が歩きやすそうじゃない?」
わたしの言葉にごんちゃんは首を傾げます。
何かを考えているようですが、急に表情を明るくしました。
「わかった!おかあしゃん、ほーこーおんちなんだ。だからお家に帰る道がわかんなくなっちゃったんだね!」
享年58歳。方向音痴だった事は無かったと思いますが‥いま現在の進むべき道が分からなくなっている状況はその言葉に当てはまるのでしょうか?
「ちょっと、それとは違うと思うんだけど。」
「大丈夫だよ、わし、賢いから!道も分かっているから!」
ああ、人の話を聞かないところもまさしく3歳児。
「あのね、ごんちゃん。」
「おかあしゃん、こっちだよ。」
わたしの説得も聞こうとせず、ごんちゃくるりと後ろに振り返りました。
そこには、黒い靄がごんちゃんを襲い掛かるように広がっていました。
「ごんちゃん!」
わたしはごんちゃんを抱き上げようと手を伸ばしました。
「何?おかあしゃん。」
ごんちゃんはクルリとわたしに向き直ると、パタパタと尻尾を振りました。
体の大きさの割には長い尻尾です。
でも、その尻尾が振られる度に黒い靄が散らされていくように見えます。
ごんちゃんの尻尾フリフリってそんなに風力強かった?などつい考えてしまいます。
いや、あの靄は煙とは違う筈だからそんなので散らされるの?
「おかあしゃん、ほら、行くよ。」
「あ、うん。」
歩き出したごんちゃんに続こうと一歩足を踏み出そうとして、思わず息を呑みました。
散らされて、薄くなったと思っていた靄がごんちゃんの行手を遮るように其処に集まっていたのです。
それも、先程散らされて事を怒るかのように殺気の様な気配も感じます。
もう、わたしに打つてはないのでしょうか。
わたしはごんちゃんを巻き込んでしまったのです。
ごんちゃんは目の前の靄をじっと見つめました。
「ごんちゃん!いいから早く」
『逃げて』と言葉を繋げようとしたその時、ごんちゃんはわたしや娘に飛びつく時のように、勢いを付けて靄に飛びかかりました。
「ごんちゃん、キーック!」
ごんちゃんの一撃で、あんなに禍々しかった靄は消えてしまいました。
一体何が起こったのでしょう。
わたしは目の前で起こった事が理解できませんでした。
ごんちゃんの蹴り、ごんちゃんキック?そんなに威力あるの?
わたし、さんざん蹴られたことあったけど、別に何事もなかったよ?
え?うん?
「おかあしゃん!わし、お腹空いた。早く帰ろうよ。」
焦れたようなごんちゃんの声に正気に戻ります。
ここで考えていても仕方がありません。
家に帰れるなら帰りたいです。
「そうだね。帰ろうか」
わたしはごんちゃんと歩き出しました。
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