2.
大陸が誇る最高学府こと、白都総合技術研究科――通称象牙の塔。
部分部分を比べれば、同種他施設に劣るところもあるものの、総合的な評価でいけば名実ともに最高位の高等教育機関は間違いなくここといっていいだろう。
実習場という名の飛び地を含めれば、象牙の塔に所属する土地は小さな町ほどもある。それを隅々まで利用し、ありとあらゆる分野に対する高等教育を行い、さらには市井に対しても大きく門戸を開く姿は、まさに現代教育機関の理想とも言える。
実学から基礎研究、役に立つ立たないを問わず、この施設が扱う分野は広い。かつての徒弟制度のように、血筋やつけとどけに左右されることのないシステムというのも一つの理由だろう。
だが、それだけで他の施設に対して差がついているわけではない。
他の同種他施設に対し、一線を画す決定的な理由は、若年代軍属者およびその候補であった。
考古学ではなく史学が扱う時代において、この世界は常に異界からの侵略にさらされてきた。
ある時は忍び寄る異形、ある時は市井に蔓延する無気力、ある時は強運とカリスマを持ち合わせた指導者、不治の病、凶作。
様々な形で、彼らは世界を支える天秤のバランスに手を出してくる。
それらから国を、世界を守ろうというのが、象牙の塔――中でも若年代軍属者、もしくは候補とよばれる少年少女たちの役割だった。
若年代軍属者――通称、軍属となった少年少女たちは、界を渡り、あちらの世界の存在を相手にする。
時には戦い、時には彼らの持つ技術をかすめ取り、世界の安定のために尽くす。
なぜ、そんな重要かつ危険な役割を年若い彼らに負わせるのか? 理由は簡単だ。
人は年をとるにしたがって、界渡りの能力を失っていく。
生まれながらの適正を持っていたとしても、環境適応に対する柔軟性と、成長期における〈力〉の放出がなくなってしまっては、自在に界を行き来することはできないのだ。
よしんばできたとしても、命すら落としかねないほどの心身の異常にさらされることとなる。
それでもいいと自らの適正を無視し、界を渡った者もいる。
もっとも、その中に、世界を守ろうという使命感に燃えた人間というのが、どの程度いたことか。
そんな物好きに頼るには、異界からの影響は大きすぎた。
かくて、大陸全土から集められた少年少女たちのなかから、さらに適正を持つ存在が、軍属もしくは軍属候補として大人の力を期待できぬ場所で戦うという制度ができた。
国境を超えて組織だった異界の調査が始まったとほぼ同時、かれこれ三十年ほど前のことである。
レン・ハスターはその中でも特に先を期待される候補の一人だ。
若年代軍属制度始まって以来の逸材というほどではないが、少なくともここ数年来の候補のうちでは間違いなくトップクラスの存在だ。
他の候補たちが、おそるおそる先達にあたまをさげ界渡りを行っている中、彼はまるでジョギングにでもでかけるかのような気安さでそれを行っているのだ。
ケネス・クラフトが彼の行動を予測できたのも、ある意味そのおかげであった。
彼らが騒ぎを起こしたのは、通称ギルド棟と呼ばれる、課外活動のための部屋が連なる一角だった。
レンは、そこを通り抜けた先にある、界渡りを安定して行うための設備を利用するため、そこを通り抜けようとしていたのだった。
ギルド棟はずれにある、窓のない掘っ建て小屋。
界渡りのための施設を一言で言うならば、そんなところだろうか。
まともな鍵はついているが、それ以外に関しては何一つ気を使っている様子はない。
今回の建物が、比較的長持ちしているというのが、いいのか悪いのか。
夏は風呂場よりも暑く、冬は池の側よりも寒い。軍属の研究生たちからの評価は、用がなければなるべく入りたくないというところで、ここ数年落ち着いている。
レンは、利用者がいないことを確認し、軍属候補としての身分証もかねた鍵を使い中に入った。
後ろ手に扉を閉めた途端、汗が噴き出す。
完全に空気のよどんだ小屋の中は、ほんのしばらくでも、身体が弱った人間が倒れてしまいそうな暑さだった。
石の床程度では、部屋を冷やす役にはたたないらしい。レンは、額に滲む汗の感触に眉をよせた。
床一面に広がる――いや、この天然石を磨き上げた床こそが、小屋の本体だ。
一面に刻まれた方陣は、長い年月を経ても磨耗する気配すらない。
これにかぶせるための掘っ建て小屋というのが、設備の正体だった。
壁にはいくらかの木刀をはじめとした、演習用の武器がある。一部は、候補ではなく軍属の鍵が必要となるロッカーに収納されている。
他には、出発前の注意事項を書き込むための黒板や、誰かの忘れ物を入れた箱など、いくらでも取り替えのきくものか、そうでなければいつ捨てられてもおかしくないものばかりだ。
雑多なそれらには目もくれず、彼は小屋の片隅の装置へと歩を進めた。
先ほど小屋をあけるのに使った鍵をさしこむと、音もなくそれは息を吹き返す。しばらくの自己検査のあと、彼の身分に応じたしかるべき行き先を示した。
「夜毎姿を変える月になど誓うのはおやめになって――か」
代わり映えしない行き先候補を眺めながら、彼はそうつぶやいた。
先ほど、ケネスが口にしたフレーズは、通称第三庭園門と呼ばれる場所を象徴する言葉の一節だった。
〈月〉に誓ってはいけない、誓うのならば自らに。
だが――その誓いは雷とともにはかなくなる。
正解は捧げられた誓句を入手後、再訪の約束を守ること。
ほとんどの軍属候補が、先輩方につれられて、最初の〈奇跡〉を目の当たりにする場所だ。
軍属であれば、すみずみまで歩き回ったかどうかはともかく、足を踏み入れたことがないという人間はいないだろう。
もはや、調べ尽くされただしがらのような場所と言っていい。異界がひどく動いている時期ならばともかく、今は安定期。目新しさは期待できない。
もっとも、他の候補地も似たようなものだ。いくら期待の星とはいえ、レンは軍属候補にすぎず、鍵の数が多い――連れがいるわけでもない。
つまらないと見るべきか、正常動作と安心すべきか。
とはいえ、今から行くのは少し遠いジョギングであり、未知との遭遇を期待した調査ではない。
右の通りを選ぶか、それとも左の通りを選ぶか。靴をとばして選択する程度の根拠で、彼は第三庭園門のエリアを選んだ。
ぶん、と。何千匹もの虫が羽ばたいたみたいな音がする。景色が流れ、色彩が混じり合う。
そういえば。ふと彼は先ほどのやりとりを思い出した。
ケネス・クラフトは軍属候補ではない。帯剣している様子もなく、本人もそう言っていた。
なぜ彼は〈門〉を司る言葉を知っていたというのだろう?
軍属――界渡りをしなければ、必要になることのない知識ではないだろうか。
彼はほんの少し眉を寄せた。
界渡りの違和感と、正体不明の学友――もっとも、学内ではやくたいもない要求のために寄ってきた時以外、姿を見た覚えはないのだが――に対する疑念。
まざりあったそれらが、ちりと頭を痛ませる。
彼は息を止め、ゆっくりと吐いた。景色が安定すれば、そこは異界だ。
その場にいない人間について、頭を悩ませるようなヒマはないのだ。
小さな違和感にふたをしたところで、彼はよく手入れされた庭園にいる自らを発見した。




