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ひどく暑い。最初にレンが気づいたのはそのことだった。
異界は、適度な気温と湿度、そして樹木がもたらす心地よさに満ちていたはずだ。なのに、一体これはどういうことなのか。
予兆とでもいう何かを感じながら、ゆっくりと目を開く。
見慣れた、狭苦しい小屋の中だった。
「どうした、大丈夫か」
覚えのない声に、レンは幾度か瞬きし、はじかれたように身体を起こす。いや、起こそうとする。
瞬間、先ほどとは真逆の動くなという誰何の声がかかる。優しさからではなく警戒だった。
異界で命を落とすような深刻な怪我をおった場合、戻ってきたその時は立っている。だがその後倒れ伏す。復活などない。
レンの反応は逆だった。倒れていた、そしてすばやく起きあがろうとした。それは、異界からの侵入を警戒すべき反応であった。
「渡る際に、少し手違いがありました」
ゆっくりとした動作で身体を起こしつつ、レンはケネスの姿を探す。
探すほどのことはなかった。身体を起こすためについた手に触れるものがある。すぐ傍らに倒れている姿を発見し、安堵の息をつく。
そして、自らに声をかけてきた相手を見た。
おそらく、小屋の見回りにきた教官だろう。教官の中では比較的若い方だ。直接に指導を受けた覚えはないから、もしかすると準教官なのかもしれない。
小屋の入り口で、彼はゆだんなくレンとケネスを見下ろしていた。そして、小さく頷くと、てのひらに持った手錠を投げ渡してくる。
「名前と所属、および渡った場所を答えろ」
「レン・ハスター、初等部一年・史学専攻。軍属候補生です」
意識のないケネスの手首を、後ろ手に拘束しながらレンは静かに答える。
おとなしく指示に従う様に、教官は頷いた。そして、そちらはどうなのかと尋ねてくる。
自らの腕に渡された手錠をかけながら、レンはちらりとケネスをみる。
「ケネス・クラフト。初等部一年。……」
そこまで答えたところで、レンは言葉に詰まった。
「ええと。……ええと、彼は」
「僕の専攻どころか、学年すら下手すれば知らないでしょ」
「彼は……」
異界で聞いたケネスの言葉がよみがえる。確かに、その通りだった。むしろ、制服から見て取った初等部一年というのも本当だろうか?
「わかりません」
彼の顔すらも、初めて目にしたような気がした。ぱさぱさとしたかろうじて金髪の範疇にとどまる髪。髪のあいだから見える目を閉じた顔は、思いの外繊細で育ちが言いようにも見える。彼は本当にこんな顔であったか?
首を横に振り、レンは苦しげに吐き出した。苦しげに? 自らの様子に、彼は眉を寄せる。自己紹介をしなかった。する必要はなかったのだ。知ろうと思わなかった。だが。
なぜ、自分は彼を全く知らないのだろう。
レンとは別の意味で、教官は眉を寄せていた。
「知らない?」
知りもしない人間と、界渡りの小屋で倒れているとは一体どういうことなのか。界渡りを終えた後であるというのはわかる。――知らない理由は、一体何か。界渡りの影響ではないのか。
教官の疑念が手に取るようにわかる。いえ、と。声を上げ急激に身体を動かそうとしたところ、再度動くなと咎められた。
「……はい。その、彼はまきこまれたにすぎません」
なるほどと教官は頷いた。レンの言葉を信用したのかどうかはわからなかった。
「まあいい。では、どこに渡った」
卒業課題に入った上級生ならばともかく、入学してたった半年の初等部一年であれば、行き先など決まっている。第三庭園門か、そうでなければ第二宮殿門か。第一沙漠門に行った経験はあるだろうが、一人でそこを目指したとは考えづらい。だが。
「――わかりません」
しばらくの沈黙の後、小屋の扉が叩かれる音があった。彼が目覚める前に、教官はすでに他の担当に連絡をしていたらしい。
異界からの侵入とおぼしきものを相手取る際は、かならず複数人でことにあたること。それは、候補生だけに適用される決まりではない。むしろ、界渡りを行うことのなくなった軍属の人間こそがまもるべき掟だ。
入ってきたのは、幾度か演習で見たことのある顔だった。
「彼が何か」
事情を説明する教官の声を聞き流しながら、レンはじっとケネスを見つめていた。
異界で感じた身を焦がすような強い思いはない。あれはあきらかに、異界における罠だった。界渡りをする前の、さわぐ通行人をみるかのようなフラットなそれとも違う。
そう言えば彼は、第三庭園門の鍵について何と言っていたか。後で説明すると言っていたそれはいったい何なのか。
彼の知識。彼の着眼点。彼の思考。彼の反応。
何故、と。言葉にできるのはそれだけだった。
だが彼は、目を覚ます気配もない。当然と言えば当然だ。彼の言葉が正しいとするならば、彼は界渡りなどしたこともない一般生徒なのだから。




