九、楓
外の闇が深まるにつれ、遊郭の中に満ちる声はいよいよ喧しくなっていった。嬌声や、艶めかしい吐息。そのすべてが私の神経を逆撫でする。何一つする気になれなかったし、ましてやこのような不浄なる淫楽の手助けなど、死んでも御免だった。慎み深くありたいと願ってはいても、これでは到底叶うはずもない。そもそも、この遊郭に身を置いていること自体が、正気の沙汰ではなかった。
そのうえ、裳着の儀の朝から、私は何一つ口にしていない。激しい飢えに急き立てられるようにして、私は終日閉じこもっていた部屋の隅から這い出し、何か胃の腑に収まるものはないかと探し歩くことにした。
廊下には、水墨画が掛けられ、隅々には生け花や行灯が据えられて、いかにも客の情欲をそそる仄暗い陰影を作り出していた。
「おやおや、ようやく出てくる気になったのかえ?」
お倫がくすくすとあざ笑いながら、私の手をぐいと引っ掴んだ。そのまま引きずられるようにして辿り着いた大広間は、混沌の極みであった。男も女も酒をあおり、浮かれ騒ぎ、恥じらう色もなく互いの身体を貪り合っている。……なんたる見苦しさ、なんたる野蛮か。
本能的に後退さろうとしたが、この執念深い女の鋼のような力に阻まれ、一歩も動くことは叶わなかった。
「お前のようなかむろはね、酒や膳を運ぶか……おっと、忘れていたわ。褥を整えるくらいしか、使い道がないのよ」
あやつは何の罪悪感も嫌悪もなく、さも当然のように言い放った。されど、せめてもの救いは、私が男の伽を命じられる傾城の列に加わっていないことだった。二度と人を脇差で刺し貫き、あのようなおぞましい境遇に身を落とすのは真っ平御免だ。されど、私が気を失っている間に、魂とも言える鎖鎌は奪われてしまっていた。ここにいる間に、せめて武器の代わりになるような物を見つけ出さねばならない。しかし、私の視界に飛び込んでくるのは、どこを見渡しても華美な絹織物と金箔の飾り立てばかりだった。
「気難しく考えるんじゃないわよ」
お倫は私の肩をそっと抱き寄せると、まだ客のいない隅の畳へと私を座らせた。あやつ自身は、剥き出しになった足を少しも気に揉む様子もなく、そこへどっかりと腰を下ろした。
「お前、一つ佳い教訓を教えてあげるわ。従順であることは、決して悪いことばかりじゃないのよ」
「……たわけた戯言を」
私は腕をきつく組み、壁に背を預けながらぶっきらぼうに呟いた。
「お前は女だ。鎖鎌や脇差だけが女の武器ではないし、ましてやそれが一番強いわけでもないわ」
あやつは壁際に静かに佇む、一人の身なりの佳い富商に向けて顎をしゃくってみせた。私は目を細め、その視線を追った。
「ご覧なさいな。あのお方は連れの方と一緒でしょう? 本来なら、こういう場所を酷く毛嫌いしている手合いよ。そのうえ、家には妻がいるわ」
「それがどうしたというの。どうせ、どこにでもいる不届き者でしょう」
私の言葉に、お倫はただ声を上げて笑うだけだった。あやつの笑い声は酷く鈴の音のように響いたが、どこか作り物の偽りのように感じられた。しかし、先ほどの富商が瞬く間にお倫へと視線を向け、顔を真っ赤に染めるのが見えた。
「……何が起きたの?」
私は驚きに目を丸くしながら、再びお倫の顔を見つめ返した。
「見ておいで、おなごの愛嬌というものが、堅物の良人さえどう変えてしまうか」
これほどたわけた言葉は生まれてこの方聞いたことがなかったが、あやつがあまりに自信ありげに微笑むものだから、その大層な鼻がへし折れる瞬間を見てやりたい衝動に駆られた。
ところが、お倫がほんの少し手を差し招いただけで、その男はまるで紐で引かれる犬のように、あやつの元へと歩み寄ってきたではないか。……癪ながら、これには心底驚かざるを得なかった。
「お前、私たちに酒を持ってきておくれ」
今度は私への指図だ。反論してやりたい気持ちをぐっと堪え、口を噤んだまま、私は慇懃無礼に一礼して酒を探しにその場を離れた。もっとも、広大な遊郭のどこに酒瓶があるのかなど知るはずもなかったし、あやつが見せつけた「色香の教訓」とやらが、一体何のためにあるのかもさっぱり分からなかった。
酒を求めて館を彷徨っていると、部屋の奥で遊女たちと茶を啜っている数人の男たちの話し声が耳に届いた。
「もうすぐ、サムライどもの一族が正面衝突を始めるぞ」
一人がそう告げると、もう一人が低く忍び笑いをもらした。
「ああ、そうなればこの街の商いも一気に潤うな。聞いた話では、熊沢の家では宿老が刺されただけでなく、頭領の娘まで行方知れずになったそうだぞ」
男の声音が、急に密やかなものへと変わった。私は背筋をひやりとさせながら、そっと障子壁に耳を押し当てた。
「おいおい、行方知れずだなんて、どうせ男とでも駆落ちしたんだろう。あの娘は普段から、一人で山林をうろついていたというからな。……おい、お前、茶が空だぞ、早く淹れ直しておくれ」
男たちの傍らで、おなごたちは相槌を打つこともなく、ただ座敷を彩る置物のように静かに控えていた。
「俺は茶などもういらん」
客の一人が立ち上がり、部屋の戸口へと向かって歩き始めた。私は慌ててその場から立ち去ろうとしたが、身を隠すより早く、男が廊下へと出てきてしまった。
「おい、そこな小娘!」
背中に冷たい戦慄が走り抜けた。――まさか、密偵の真似事をしていたのが露見したのだろうか。
「俺たちに酒を持ってこい! 急ぐんだ!」
……ふう。安堵のため息が胸の奥から漏れた。私はただ小さく頷くと、奥歯を噛み締めながら、声を絞り出した。
「……ははっ、ただいま」
あの不届きな噂話の主が、よくもまあこの私に指図をしてくれたものだ。満を前にした時のように、なぜ「無礼者」と鼻で笑い、礼儀を弁えよと一喝できなかったのだろう。ただあの酔いどれの淫らな連中から一刻も早く逃れたかっただけなのか、あるいは別の理由があるのか。私には分からなかった。
やがて、他のかむろたちが酒を調達してくる台所へと辿り着いた。一振りの酒瓶を手に取り、栓を抜いてその匂いを嗅いでみる。白状すれば、あの酷い悪臭と味を思い出しながらも、ほんの一口だけ煽ってみたいという衝動が脳裏をよぎった。すべてを忘れて、この現実から逃れるために。……だが、私はすぐに舌を突き出して顔をしかめ、瓶の栓をきつく閉め直した。断じる、私はそこまで落ちぶれてなどいない。
遊郭のかむろさながらに、私は先ほどの酔いどれどもが待つ座敷へと足を引きずった。壁に掛けられた水墨画を、一枚、また一枚とわざとらしく眺めながら、重い足取りで進む。されど、そのような引き延ばしも長くは続かなかった。
「おい、いつまで待たせる気だ!」
どこからともなく酷い酒臭さを撒き散らしながら、一人の男が怒鳴り声を上げた。
「さっさと注ぎなさいな! 見ろ、おなごたちが待ち侘びているではないか!」
またしても、自分が頭領にでもなったつもりで指図している。できることなら、その口を思い切りひっぱたいて、歯を数珠の紐が切れたかのように床へぶちまけてやりたい衝動に駆られた。されど、湧き上がる怒りをぐっと堪え、私は男たちのお猪口に酒を注ぎ始めた。男たちは、なおも醜い噂話を続けていた。
「当然だろう、鶴田の阿呆どもがあの書状を侮辱と受け取るのは目に見えていた! あやつら傲慢な唐変木には、それ以外の能がないからな!」
まるで自分が天下を動かす重臣にでもなったかのようにせせら笑うと、男は私が注いだばかりの酒を一気に煽った。私はまた、忌々しく思いながら次を注がねばならなかった。
「全くだ。だがな、いくさが始まってくれれば俺たちにとっては好都合よ」
もう一人の男が深く頷きながら、傍らのおなごを我が物顔で己の膝の上へと引き寄せた。
「俺が頭領の清正の立場なら、さっさとあの出来損ないの若君の首を撥ねて熊沢へ差し出してやるがね。何を躊躇う必要がある? あやつには他にも子供がいるのだし、下女の一人や二人を孕ませて新しい跡取りを作ることなど、あやつにとっては造作もないことだろうよ!」
座敷の中に、下卑た笑い声がどっと響き渡った。男たちは己の放言を大層な知略とでも思ったのだろうが、私の胸の奥の怒りは一段と激しく燃え上がるばかりだった。何も知らぬ分からず屋どもが、よくもまあ偉そうに語ってくれたものだ。
「そうだ、その通りだ」
私はただ黙々と、男たちのお猪口に酒を満たし続けた。男たちの会話は、一族の政から、南の田んぼが洪水で沈んだだの、隣の良人の妻が不義の子供を産んだだの、くだらぬ世間話へと目まぐるしく移り変わっていった。
何度も酒を注ぎ足していくうちに、私は軽蔑の目を向けながらも、妙な可笑しさが込み上げてくるのを感じていた。あの酔いどれどもは、酒の力を借りてすっかり大物にでもなったつもりなのだろう。権力を持つ者たちを片端から批判し、これからの世の政のあり方を大層に論じ合っている。何より滑稽だったのは、彼らが自らを一族の家臣に見立て、いくさの戦場を空想していることだった。長刀を縦横無尽に振り回し、敵をなぎ倒す様を身振り手振りで真似ている。確かに、私は父上のように軍略を極めているわけではない。されど、断言できる。この目の前の穀潰しどもが、いくさの厳しさなど欠片も知らぬ分からず屋であることくらいは、私にだってはっきりと分かった。
私は酒瓶を手に部屋の隅に立ち尽くしていたが、とうとう堪えきれなくなって、ふっと鼻で笑ってしまった。座敷の喧しい大議論が一瞬にしてぴたりと止まり、全員の視線が私へと突き刺さる。そのせいで、私は激しくむせてしまった。
「おい、小娘」
一番声の大きな男が片眉を跳ね上げ、私を睨みつけた。
「俺が何か可笑しなことでも言ったかえ?」
「いいえ、まさか……」
私は慌てて首を横に振ったが、またしても込み上げてくる笑いを必死に噛み殺さねばならなかった。
「ただ、皆様があまりに滑稽でいらっしゃるから……」
「何だと、滑稽だと!」
男は激昂して跳ね起き、膝の上のおなごを乱暴に突き放した。その遊女は、悲鳴を上げながらも男の肩を掴んで宥めようとし、私に向けて必死に「早く出ていけ」と目で合図を送ってきた。
「旦那様、このような、かむろの戯言などお気になさいますな! まだほんの子供で、何も分からぬ愚か者でございますから!」
その傾城は必死になって客を宥めようとしたが、仲間の男が面白がって笑い出したため、怒鳴った男はますます傲慢に顔を膨らませた。己の肥大した自尊心のせいで、今にも破裂しそうに見えたほどだ。
「小娘、その生意気な口を慎まぬか!」
男は両手を腰に当て、これ見よがしに胸を突き出してせせら笑った。その大層な佇まいも、あまりの泥酔で身体が左右にぐらぐらと揺れていては台無しだった。
「そんなに暇なら、あの傷を負った老いぼれの豊光様のところへでも奉公に行きな! あやつはお前のような小娘が大層お気に入りらしいからな!」
その言葉に、今度は私が軽蔑を込めて目を細めた。今すぐその脳天をひっぱたいてやりたい衝動に駆られる。私の様子の変化に気づいたその無礼者は、ますます調子に乗り、まるでいくさにでも勝ったかのように傲慢に顎を突き出してみせた。
「何を睨んでいる! さっさと失せろ! 今やあの手負いの悪党めは、自分の褥を慰めるために、若い娘どもを片端から寄こせと息巻いているのだからな!」
男は自分の足元に躓きそうになりながらも、両腕で我が身を抱きしめて抱擁の身振りをしてみせた。私は吐き気を催すほどの嫌悪感に襲われ、手にした酒瓶をその場に放り出すと、座敷から逃げるように飛び出した。
どうして、あの悪党が未だに生き延びているのだ。あの社での一撃は、確かにあやつの腹を深く貫いたはず。なぜ豊光は生きながらえ、大嘘を触れ回って鶴田を、熊沢を、満を、 shadow そしてこの私を苦しめるのか。なぜ私一人だけが、このような屈辱に塗れて苦しまねばならぬのだ。
私はもう何度も流してきた涙に疲れ果てていたが、今また激しく咽び泣きたい衝動が込み上げていた。
必死に廊下を駆け抜けながら、私はあの穀潰しどもの言葉を何度も頭の中で反芻していた。豊光が誰かを求めている。ならば、私がその中に紛れ込み……。いや、そんなものは愚行の極みだ。あやつをあやめたところで、何の解決にもなりはしない。父上はさらに激昂し、鶴田の仕込みが刺客を放ったのだと盲信して、いくさを始めてしまうだろう。何より、もし今度の企てが露見して、私が捕らえられでもしたら……。
茶屋の出口の近くまで辿り着いた私は、立ち止まって次なる手立てを必死に考えていた。豊光の元へと送られる新造たちの荷車に忍び込もうかとも思ったが、門のあたりで番卒に見付かれば、その場で正体が露見する。あやつの手の者どもは、私が奥の褥へと近づく前に、容赦なくこの首を撥ねるに違いない。せめて、誰があの悪党に忠性を誓っているのかさえ分かっていれば、一か八かの賭けに出ることもできた。されど、今の私には何一つ手がかりがない。ならば、行くわけにはいかなかった。
「お前、そこで何をしているのえ」
またしても、お倫の声だった。今度は、先ほどのあの富商の男とこれ見よがしに身体を寄せ合っている。律儀を重んじるはずの良人さえ、こうも簡単に色香の盤上で崩れ去るものなのかと、呆気にとられてしまう。私はあやつを振り返る前に、白粉が落ちて偽りが露わにならぬよう、慎重に親指の腹で目元の涙を拭った。
「何でもありません……」
私はぶっきらぼうに呟くと、足早に廊下を立ち去ろうとした。
「お前さん、奥で待っておくれ」
お倫が客の男に甘ったるい声で囁くと、男は名残惜しそうに手近な座敷へと入っていった。途端に、あやつの声音が鋭く私を射抜いた。
「そこな小娘、今すぐここへ来なさいな」
またしても指図の口調だ。私はまた操り人形のようにその場に立ちすくんでしまった。お倫は歩み寄ると、私の肩にその手入れの行き届いた手を不躾に回してきた。
「愛しいお嬢さん、何か良からぬ企みでも胸に秘めているのでしょう?」
あやつが耳元でそう囁いた刹那、首筋をひやりとさせる戦慄が走り、全身の毛が逆立った。
「何も企んでなどいません」
「あら、そうかね? あの豊光様の元へ向かう荷車に飛び乗ろうなんて、これっぽっちも考えていなかったとでも言うのかえ?」
「……やはり、すべてをご存じだったのですね。それなのに、私を止めることもせず静観していたというのですか」
私は強引にあやつの手を振り払うと、まっすぐにその顔を睨み据え、剃り落とされたばかりの眉の跡を高く跳ね上げて、武家の娘としての僅かな誇りを示してみせた。
「当然でしょう」
お倫はくすくすとあざ笑いながら、紅い蕾のような己の唇に指先を当て、紅の乱れを整えた。
「放っておけば、お前は必ず大層な愚行を仕出かす Colors。そう思わないかね?」
まるで見世物の猿でも眺めるかのような傲慢な眼差しだった。されど、此度ばかりはあやつの読みが外れたのだ。私はあの荷車に縋ることを踏み止まり、この深淵のような窮地をいかにして自らの手で切り抜けるべきか、手立てを巡らせていたのだから。
「お倫姐さん!」
廊下の向こうから、一人の下女が小袖の裾をたくし上げながら血相を変えて駆けてきた。その手には、鮮やかな紐で固く縛られた一通の書状が握られていた。姐さん――すなわち、この遊郭を統べる主は、その姿を目にした瞬間に不機嫌そうに眉をひそめ、大げさに天を仰いだ。
「またあの惣の奴らね……。運上なら、先月納めたばかりでしょうに」
お倫は忌々しげに舌を鳴らすと、下女の手から書状をひったくるように奪い取った。
「ですが、お倫姐さん! 運上は毎月納めるのが掟でございます!」
少女が深く頭を垂れると、お倫はさらに不満げに顔を歪めた。
「分かっているわよ……」
あやつらが運上について言い争っている間に、私の頭の中に、ある妙案が閃いた。もしお倫の言う通り、鎖鎌やこの牙だけが女の武器でないとするならば、今こそもう一つの武器を試すべき時ではないか。されど、そのためには私が何よりも嫌悪する諸芸に手を染めねばならなかった。
「……急に頭痛がしてまいりました。少し、横にならせていただきます」
私は哀れな病人を装おうとしたが、元より大根役者であるため、せめてもの気休めに手のひらを額へと当ててみせた。
「ええ、構わないわよ」
お倫はすでに書状を広げており、私など目にも留めぬ様子でぞんざいに手を振った。口惜しいことに、私の渾身の芝居はあやつには全く通じなかったらしい。
その策を胸に抱いたまま、私は終日閉じこもっていたあの物置のような部屋へと急ぎ足で戻った。その速さは、稲妻が大地を穿つよりも早かったに違いない。私はすぐさま部屋の至る所をひっくり返したが、お目当ての物はどこにも見当たらなかった。その狭い一室には、仕切りの屏風もなければ、物を収める箪笥すら据えられていなかったのだ。
私はつむじ風のように部屋中を立ち回り、すべてを容赦なくひっくり返した。されど見付からず、とうとう廊下へ飛び出して向かいの座敷へと這い込んだ。そこでは、私の同輩である傾城の一人が客の男と睦まじく語らい、煙管を燻らせていた。私が突然押し入ったというのに、二人はただくすくすと笑い、畳を叩いて私に座るよう促した。もちろん、そんな誘いに構っている暇などない。私は構わず、その座敷の中でも狂ったように探し回った。そうしてようやく、隅に置かれた小さな塗りの文箱を見つけ出した。
「ああ、やっと見付けた!」
私が声を上げると、座敷の二人はさらに可笑しそうに声を立てて笑った。私はその文箱を愛おしそうに胸に抱き抱えると、一目散に己の部屋へと引き返した。
箱を開けると、中には墨、硯、竹の筆、 shadow そして数枚の懐紙が収められていた。お倫は私に全く別の「色香の教訓」を教え込もうとしたのだろうが、あやつが何を思おうと私には関係のないことだった。要は、私がそこから何を得るか、それだけだ。
いざ、大嫌いな「習字」の支度を整えたものの、私はその場でぴたりと固まってしまった。胸の奥から、次々と不穏な疑念が湧き起こってくる。一体何と書き記せばよいのだ。父上は私の言葉を信じてくださるだろうか。もし途中でこの書状が誰かに奪われでもしたら。そもそも、この遊郭の不届き者どもをどうして信用できようか。
私は己の髪をむんずと掴み、四方八方へと激しく引っ掻き回しながら、心の中で低く唸り声を上げた。考慮せねばならぬことがあまりに多すぎる。……こんなことなら、山の森を宛てもなく歩き回る代わりに、屋敷で盤上の手ほどきでも受けておけばよかった。
私は強く唇を噛み締め、それでも筆を執ることにした。これで何かが変わるかは分からぬ。されど、私のせいで他人の命が脅かされているというのに、このまま両手をこまねいて座しているわけにはいかない。私は何としても、真実を書き記さねばまならなかった。父上の周りにはすでに数多の虚言が渦巻いているのだ。これ以上、偽りを重ねたところで、何一つ正せるはずもなかった。
私は震える手に渾身の力を込め、己の悪筆を恥じらうこともなく、紙の上へ一気に書き付けた。
『父上、八幡宮の社にて豊光を刺し貫いたのは、この私にございます。
不肖の娘、楓』
私は書状を幾重にも固く折り畳むと、これをいかにして、誰の手を経て父上へと届けるべきか思案に暮れた。真っ先に頭に浮かんだのは、あの白粉の小さな器を利用することだった。化粧道具の箱から手頃な陶器の小壺を見つけ出すと、中に詰まっていた白い粉を容赦なく手のひらへとぶちまけた。壺の底へと折り畳んだ紙切れを敷き、その上から再び白粉を被せる。指先で粉を固く押し固めて蓋を閉じると、私はそれを小袖の袂の奥深くへと滑り込ませた。
白状すれば、この遊郭のいかなる遊女が、出会い頭に私を裏切って突き出すこともなく、力を貸してくれるかなど皆目見当もつかなかった。そのような役目を託せるおなごは、大層に知略に長け、それこそ仕込みのごとく立ち回れる者でなくてはならぬ。されど、このわずか数寸の間に、そのような都合の良い相手を見つけ出すことなど叶うはずもなかった。
それでも、私は今一度一か八かの賭けに出るべく、意を決して表の通りへと飛び出した。豊光の元へと向かう傾城たちの荷車は、きっと大門のあたりに控えているはずだ。あの石川という忍びも、そこに立ち寄ると言っていたから。
表の通りは、軒先に吊るされた数多の紅い提灯のせいで、一面が禍々しいまでの紅に染まっていた。いかにも色里らしい、情欲をそそる仄暗い陰影を作り出していた。この地では、昼夜の分かちもなく不夜城のごとき淫楽が繰り広げられているのだろう。されど、その仄暗い灯りのせいで、行き交うおなごたちの顔立ちを判別することは至難の業であった。ことに、顔中を真っ白に塗り込めた白粉のせいで、誰が誰やら見分けがつかない。これならば、私がここにいると露見して、正体が知れる心配もあるまい。そもそも、このような不浄の地に、熊沢の者が私を捜しに這い込んでくるとは到底思えなんだ。
少し離れた場所に、お倫の館に囲われた上級の遊女たちの群れが見えた。見れば、まだほんの子供のような若い小娘ばかりではないか。あの老いぼれの豊光めが、真にこのような幼きおなごを褥に求めているのかと思うと、激しい嫌悪のあまりに胸の奥の血がわっと沸き立つようだった。
騒がしい酔いどれどもを掻き分け、前へと突き進むうちに、お目当ての遊女たちの姿を見失いそうになった。
「おい、そこなお嬢さん。お前、お倫姐さんのところの者かえ?」
「俺たちと少し遊ばないか!」
見知らぬ男たちが口々に声をかけてきたが、私は一切を黙殺し、袂の小壺をいかにして渡すべきか、それだけを考えて足を速めた。そうしてようやく、廓の大門を潜り抜けた。
おなごたちはすでに荷車の山の上へと押し込められており、御者が手綱を引いて今にも出発せんとしていた。目的地までは、あとわずか五間ほどであった。
視界の端に、鶴田の具足をまとった二人の武士の姿を捉えた。私は奴らを見据えぬよう、また余計な耳目を集めぬよう細心の注意を払った。あの家紋、あの歩みならば、何里離れていようとも見紛うはずがない。私の胸の奥には、あの忌々しい鶴の家の有様が焼き付いているのだから。されど、なぜだろうか。目の前の武士どもの佇まいは、私が鶴田の屋敷で目にした者たちの姿とは、どうしても結びつかなかった。目に飛び込んできたのは、奴らの酷く締まりのない、だらしない歩き方だった。身につけた具足には確かに鶴の紋様が刻まれてはいたが、その着こなしは見る影もなく不体裁であった。
不意に馬のいななきが響き渡り、傾城たちを乗せた荷車が揺れて動き出した。私は生唾を呑み込み、すぐさまその後を追おうとした。小壺を荷車の山へ投げ入れ、そのまま立ち去ることも頭をよぎったが、それでは如何ともしがたい。事の次第を伝えねば、誰が何のためにそれを受け取るべきか、分かるはずもなかった。
されど、足はすでに前へと突き進んでいた。道など構う余裕もなく、私は泥を踏み締めて駆けた。荷車はみるみるうちに速度を上げていく。焦燥に駆られて突き進んだその刹那、私は目の前に立ちはだかる頑丈な「何か」へと激しくぶつかってしまった。恐怖のあまり、私は咄嗟に強く目を瞑った。鼻先が、冷たい金属に当たって鈍い痛みをあげる。両肩をがっしりと強い力で掴まれ、手元から滑り落ちたあの白粉の小壺が、無残にも足元の泥の中へと転がり落ちていった。
私は目を開けたが、その若者の顔をまともに見据えることを恐れ、すぐにうつむいた。見れば、顔に黒子のある十八歳ほどの若者だった。……私は、こやつを知っている。
「おいおい、こんなところで何を血相を変えて走り回っているのだえ。主でも見失ったのか?」
若者の声音は酷く穏やかで、平時であれば、何ら不穏な脅威など感じなかっただろう。
その問いに対し、私はただ申し訳なさそうに深くうつむき、一言半句も発さずに頷いてみせた。
「哀れなものだな」
男はまるで幼き子供を扱うかのように、私を地面へとまっすぐに立たせた。私はその不作法に激昂しかけたが、それ以上に完全な恐怖に身をすくませていた。こやつが身につけているのは、紛れもない鶴田一族の具足だったのだ。私は心の中で、八幡様に「どうかこやつに我が正体が露見しませぬよう」と猛然と祈りを捧げていた。
男が、先ほどの大層にだらしない格好をした二人の偽武士へと冷酷な視線を走らせるのを、私は視界の端で捉えていた。奴はちっと舌を鳴らすと、私の乱れた髪を手のひらでぽんぽんと軽く叩いた。
我が熊沢の屋敷に奉公していた折には、これほど大胆で不遜な男ではなかったはず。ここでは己の裏切りが咎められぬとでも思い上がっているのだろう。断言できる。こやつは元より、鶴田の家などとは何ら関係のない男だ。
「よし、お前のおる茶屋まで送り届けてあげよう。見たところ、お倫姐さんのところのかむろだろう?」
私は再び、口を噤んだまま頷いた。不思議なこともあるものね。この街の者は皆、あのような不浄の遊郭を熟知しているというのか。それとも、私の身につけているこの衣服が、それほどまでに目立っているのだろうか。
「さあ、おいで。俺が送ってやるから」
此度ばかりは、私は激しく首を横に振った。もしこのままお倫の元へと連れて行かれれば、灯りの下で私の正体をまともに見改められてしまうかもしれぬ。さもなくば、あの口喧しい女に首根っこを掴まれ、再び部屋の奥深くへと幽閉されるのがオチだ。あそこから抜け出せたこと自体が、人混みに紛れ込めた幸運にすぎないのだから。さもなくば、私はまたあやつに容赦なく髪を引っ掴まれ、手酷い折檻を受けていたところだ。
私は足元の泥を見つめながら、あの白粉の小壺を必死に捜し求めた。陶器の小さな器は、行き交う群衆の足に蹴られ、あちこちへと無残に転がっていた。深く考えることもなく、私はその哀れな器を救い出そうと手を伸ばしたが、この男がそれを阻むように私の手首をきつく掴み上げた。
「さあ、行くんだ。ここには不届きな男が大勢うろついている。お前の主の元へ俺が送ってやるから」
私は怒りに低く唸り声を上げ、もう一度小壺へと身体をねじったが、器は非情にもまた別の者に無造作な石ころさながらに蹴り飛ばされた。凄まじい衝撃のせいで、陶器の器はついに木っ端微塵に砕け散り、中の白い粉が泥まみれの大地を虚しく染め上げた。……この瞬間ほど、この押し付けがましい「救い手」をその場から叩き出してやりたいと思ったことはなかった。
胸の奥の苛立ちに身を焦がし、絶望に荒い息を吐きながら、私は渋々その男の隣を歩んだ。視界の端で見ていると、奴は時折こちらを盗み見ては、顔を真っ赤に染めて大慌てで目を逸らしていた。
こやつは、先ほどのだらしない二人の偽武士の後を追おうとは見えなんだ。見知らぬ遊郭のかむろを送り届けることが、奴にとってそれほどまでに重要だというのか。もしや、私が白粉を塗り込めているからといって、その親切に生涯感謝し、何らかの報いでも差し出すとでも思い上がっているのなら、大いなる間違いだ。あまりに腹の底が読めぬ。こやつのせいで、私の大切な父上への手紙は街の泥沼へと永遠に没してしまったのだから。
「……あの、もし良ければ……」
若者はきまり悪そうに後頭部をがしがしと引っ掻きながら、不器用な笑みを浮かべた。
「茶でも啜りに行かないかえ? ――いや、他意はない! 決して妙な企みなどないからな!」
奴は慌てて両手を激しく振り回してみせた。私が再び冷酷に首を横に振ると、男は目に見えて落胆し、肩を落とした。
「お前……口が利けないのかえ? ――すまぬ、許しておくれ……」
こやつの佇まいには、鶴田の凶悪な刺客の陰険さも、ましてや密偵の鋭さも欠片ほども感じられなんだ。あまりに無垢で、まるで世間知らずの子供のようではないか。もっとも、この私に密偵の真似事を見抜く知識など、元よりありはしないのだけれど。
まもなく、奴は私をあの禍々しい茶屋の前へと送り届けた。男は所在なさげに片足ずつ地面を踏み締めながら、やはり私と目を合わせようとはしなかった。まるでただの幼き小僧のようではないか。もしや、私が演じている「物言わぬかむろ」の役目が、こやつをそこまで翻弄しているのだろうか。
「……よし、もう迷子になるんじゃないぞ」
奴の顔に、またしても締まりのない愚かな笑みが広がった。
「俺の名は次郎だ。……また、出会えると佳いな!」
私が物言わぬ身である以上、その言葉に対しては、ただ奥歯を噛み締めながら、形ばかりの「感謝」の印として二、三度小さく頷いて頭を垂れるしかなかった。次郎と名乗ったその男は、満面の悦びを顔に浮かべると、そのまま廓の外へと向かって勢いよく走り去っていった。
私はすっと背筋を伸ばし、剃り落とされた眉の跡を険しくひそめると、走り去る次郎の後を追い始めた。雑踏の中で奴を見失わぬよう、必死に目を凝らす。もしこやつが我が一族の平使でありながら、如何なる不忠によって鶴田の具足をまとっているのか、その意図を何としても突き止めねばならなかった。
次郎の姿は、熊沢の屋敷でも度々見かけてはいた。されど、それは遥か遠くからのことにすぎない。普段の私の周りには下女や乳母たちしかおらず、こやつは父上や宿老たちの側で雑用をこなしているだけだったからだ。
今こそ、この次郎という男の腹の内を暴かねばならぬ。もし間諜であるなら、一体誰の犬なのか。もし一族を裏切ったというなら、如何なる敵に魂を売ったのか。
道すがら、私はあの石川という暗殺者が見せた潜入の術を思い出し、最も害のなさそうな通行人の頭から、無造作に編笠をひったくった。この遊郭を一歩外へ出れば、顔中を白く塗り込めたこの白粉の姿は、嫌でも目立って正体が知れてしまうから。
尾行というものは、想像以上に胸の奥が激しく脈打つ厄介なものだった。いかにして気配を消すべきか、その正しい道理など知るはずもない。次郎に気づかれぬためには、一体どれほどの距離を保てばよいというのか。
住み慣れた山の森であれば、繁みや巨木の陰に隠れることなど造作もないことだった。されど、この街では……夜明けが近づくにつれ、通りを行き交う群衆の姿はみるみるうちに減っていった。これでは人混みに身を隠すことも叶わない。建物の隙間に入り込んで、咄嗟に身を隠すのも至難の業であった。
次郎が不意に周囲を警戒して振り返るたび、私の心臓は裏切りのようにぴたりと止まり、私は狼狽のあまり泥まみれの物陰へと必死に飛び込んだ。
やがて、遊郭のあの甘ったるい香の匂いは背後へと遠ざかり、代わって生臭い魚の匂いや、焼き餅の香ばしい薫りが鼻腔を突き始めた。出店の並びを見るに、次郎は市場へと辿り着いたらしい。私の尾行も、奴のすぐ後ろまで迫っていた。されど、美味そうな食べ物の匂いは私を狂わせそうだった。私は次郎の腹の底を暴くことよりも、いかにしてこの飢えを宥めるべきか、そればかりを考え始めていた。
突如、次郎が先ほどのだらしない二人の偽武士の元へと追いつき、三人はちょうど店を広げ始めたばかりの商人たちの荷に目を留めて足を止めた。その刹那、一番恰幅の佳い男が、不意に私のいる方へと振り返った。私は間髪入れず、近くの壁に張り出された数多の高札の方へと身体を向けた。されど、確信は持てなかった。このような早朝の薄暗がりに、手札を熱心に見つめるかむろの姿が、果たして不審に思われぬはずがあろうか。
見れば、どこぞの飼い猫を探す文だの、凶悪な逃亡者を追う高札だの、実におぞましいお触れ書きばかりだった。
私が必死に高札を凝視している間に、あの三人の偽鶴田どもは再び歩みを早めて去っていった。……あの分からず屋どもめ、半刻すら同じ場所に留まることすらできぬのか。
露店に並ぶ、見知らぬ老女が焼く美味そうな餅へと、何度も手が伸びそうになった。――いけない。私は首を振り、己の本分を呼び覚ました。尾行を続けねばならぬ。今は食べ物に心を奪われている場合ではないのだ。
ぐうぐうと鳴り響く我が腹を手のひらでぽんぽんと叩いて宥めると、私は再び奴らの後ろ姿を追って急ぎ足で歩みを進めた。
せめてもの救いは、あの男たちがそれ以上後ろを振り返らなかったことだ。おかげで、私は何度も樽や物陰へと無様に飛び込む必要もなかった。
市場はとうに遥か後ろへと遠ざかっていた。代わって鼻を突いたのは、鉄の匂いと、燻ぶる焔の熱気だった。前方から、小気味よい鉄を打つ音が響いてくる。鍛冶場だ。あの偽鶴田どもは、その門前で足を止めた。
あたりは肌を焼くほどの熱気に満ちており、私はたちまち汗をかき始めた。顔中の白粉が汗でどろどろと流れていく。まったく、仕込みの最中に邪魔にならぬような化粧道具を、誰か考え出せぬものか。
男たちの密談を盗み聞きするため、私はいかにして間合いを詰めるべきか思案を巡らせた。されど、周囲には身を隠せる物陰など何一つ佇んでいなかった。ならば、行く道は一つ――私は一か八か、屋根の上へと登る決意を固めた。
この界隈の屋根は、他のどの一族の屋敷とも異なる奇怪な佇まいをしていた。木板を幾重にも重ね合わせただけの柿葺であり、激しい強風で吹き飛ばされぬよう、上には無造作に数多の重い河原石が据えられていた。
いかにして這い上がるべきか狙いを定めると、私はすぐさま行動に移った。山の木々を宛てもなくよじ登ることに比べれば、このような平地の屋根など造作もないことだ。されど、日差しで干からびて歪んだ木板が、私の身体のせいで不躾な軋み声をあげぬよう、細心の注意を払って慎重に爪先をかけた。
ようやく屋根の端から頭を覗かせた、その刹那――私は奇妙な不審に目を細めた。あの偽鶴田どもの数が、先ほどよりも減っているではないか。減った? 私は険しく眉をひそめ、もう一度男たちの数を数え直した。そこに一人の男、そして次郎。されど、三人目の姿がどこにも見当たらなかった。
突如、背後から伸びてきた剛毅な手のひらが、私の口を容赦なく力任せに塞いだ。身体はまるで米俵さながらに無造作に屋根から引きずり下ろされる。私は必死に身をよじってあがき、喉の奥で声を上げようとしたが、何者かの凄まじい力量の前では、その叫びが外へと漏れることすら叶わなかった。




