八、満
どのようにして己の寝所へと戻ったのか、記憶が定かではない。脳味噌を必死に働かせ、僅かでも思案を巡らせようとしたが、足の焼けるような激痛がそれを無慈悲に掻き消してしまうのだった。
あまりの苦痛に意識を失い、再び目を覚ました時には、すでに私室の敷布団の上であり、下女どもと見慣れた老医師に囲まれていた。下男たちが、ここまで俺の身体を運び込んでくれたのだろう。
「傷口が完全に開いてございます」
老医師が包帯を解き始めると、俺は激痛のあまり小さく呻き、下女どもに向けて鋭く戸を指差した。これ以上の目撃者を部屋に残しておくわけにはいかない。
「……然り。言われずとも分かっている」
俺は自嘲気味の笑みを浮かべ、枕の上に頭を投げ出すと、額の上に右腕を乗せた。
「膏薬と包帯をここに置いておきます」
禿げ上がった頭の老人は、敷布団の脇に己の薬箱を広げた。
「下男たちに、こまめに巻き直させると良いでしょう。某も、できる限り頻繁に足を運ぶようにいたします」
「……いや、必要ない。包帯の手配くらい、俺一人で済ませる」
俺は手を振って老人をあしらうと、ただ天井の一点を見つめた。まもなく、この足の疼きも、それ以外のすべての懸念も、俺を苦しめるのを止めるだろう。状況の深刻さは痛いほどに理解していたが、胸の奥には泥のような苦渋が沈殿していた。父上は、評定の間で熊沢の使者に対し、俺の無実を主張して守ってくれた。されどそれは、鶴田の頭領としての威信を保つための大義名分にすぎない。いざとなれば、一族の存亡のために、父上は迷わず俺の首を差し出すだろう。それを恨む気はなかった。それが頭領の、そして武士の運命なのだから。されど、このように寝所に軟禁された身では、一族のために何一つ動けぬ己が、ただ歯痒くてならなかった。
すべてを鑑みるに、三日の刻限が尽きれば、いくさが始まるか、あるいは俺が腹を切るかのどちらかだ。しかし、父上は熊沢の書状を我が家への著しい侮辱と受け止めていた。ならば、奴らの要求に大人しく従うはずもない。もし俺が頭領の座にあれば、決して自らの手で息子をあやめたりはせぬ。まず間諜を放って事の真相を究明し、証人を引きずり出して対面させる。
されど、如何に思案を巡らせようとも、この動けぬ身体では、証拠を捜すことも、証人を呼び出すことも叶わぬ。この一件の真実を知る唯一の生き証人は――俺が交易都市へと逃がした、あの楓だけなのだ。あやつは、熊沢から突きつけられたこの要求のことなど知る由もあるまい。それどころか、熊沢の追っ手からも、我が鶴田の忍びからも逃れるため、すでに深く身を隠しているはずだ。あやつを頼りにするなど、到底叶わぬ儚い夢にすぎない。
楓の姿を脳裏に浮かべた瞬間、胸の奥の焦燥が一段と激しく燃え上がった。熊沢の忍びどもに捕らえられ、無惨に首を刎ねられていなければよいが、と、それだけを神仏に祈るしかなかった。
激痛に耐えかねて声を漏らさぬよう、奥歯をきつく噛み締めている間に、老医師の処置がようやく終わった。その無惨に裂けた肉の有様は見るに堪えず、饐えた血の悪臭が鼻を突いた。刀の鑑定なら多少の心得はあるが、肉の腐り具合など、俺にはまるで見当がつかない。ただ、これが吉兆でないことだけは本能で分かった。
「紫根を練り上げた膏薬を、日に三度、傷口にお塗りくだされ」
老人の講釈など、俺の耳には最初から一言半句も届いていなかった。胸を圧迫する重苦しい天井の気配から、どうしても逃れることができなかった。部屋を満たしていた、あの美味そうな薬草の香りはすでに消え失せ、代わりに澱んだ死の気配が漂っている。ただ、すべてが元の場所へと静かに収まることだけを願っていた。
老医師はなおも、別の膏薬がどうの、水がどうのと、ぶつぶつと言葉を並べ立てていた。水を多く啜れとでも言っていたのだろうか。あるいは……雀か? 汁物のことか? それとも、庭の桧のことか?もはや、奴が何を口走っているのか、俺の朦朧とした意識では、何一つ正しく聞き取ることすら叶わなかった。
老医師が別れの挨拶をして退室したことすら、俺はすぐには気づかなかった。ようやくの思いで寝返りを打ち、横を向いて目を閉じる。脳裏を過るのは、いつか我が一族の次なる頭領となるやもしれぬ疾風のこと。そして、どこかの侍に嫁ぎ、その家の跡取りを産むことになるであろう葵の未来。そして、二度と相まみえることのない、あの楓の姿だった。
ふすまが静かに滑り開き、足音や囁き声、 shadow そして廊下の鶯張りの鳴き真似のような鋭い合図から察するに、数人の者が部屋へと忍び込んできたようだった。
「静かにしろ、葵」
疾風は壁に背をぴったりと預け、誰かが近づいてこないか耳を澄ましながら命じた。おそらく、忍びの真似事でもしているのだろう。葵は小さな両手で自らの口を覆い、静かに息をひそめていた。
「声なんて出してないわ……」
「静かに! しーっ!」
悪ガキが厳しく窘めると、妹はむすっと膨れて頬を膨らませた。
「これだから、おなごを物見に連れていくのは業腹なのだ。見ろ、なんと口喧しい奴か」
疾風は呆れたように首を振り、妹を厳しく叱り飛ばした。
「忍びの真似事をして誰にも見付かりたくないのなら、まずその鶯張りの廊下を歩くのをやめるのだな」
此度ばかりは、弟妹の不意の到来を素直に喜ぶ気にはなれず、俺は足を刺激せぬよう慎重に別の横を向いた。
疾風は、何か不躾なことでも言われたかのように、顔を真っ赤に染めた。葵は兄の顔を見つめながら、小さく息を呑んだ。
「満兄様の言う通りよ、あそこは床板が鳴るもの……」
俺の胸の奥が、ひどく重苦しくなった。幼き二人は見るからに肩を落とし、ただでさえ澱んでいた寝所の空気が、さらに暗く沈んでいく。入り口のあたりで、まるで他人の家へ這い込んだかのように、二人が所在なさげに佇んでいるのが分かった。俺は何も言わず、あやつらがこのまま立ち去るのを待った。俺の不始末のせいで、二人が再び理不尽なお灸を据えられるのは避けたかった。
「ここへ立ち入ることは許されぬ。さっさと戻れ」
低く突き放すように告げ、俺は夜着を引き寄せた。部屋の中は酷く冷え切っているように感じられたが、俺の額からは冷たい汗のひと雫が転がり落ちた。
その刹那、あやつらの側から微かな衣擦れが聞こえたかと思うと、一斉に二人が俺の身体の上へと躍りかかってきた。思わず怒鳴りつけてやろうとした瞬間、小さな手のひらが俺の口を完全に塞いだ。葵と疾風の手からは、甘味がじわりと染み出た匂いが漂ってきた。どうせ、どこからか菓子でも盗み出し、二人で分け合ったのだろう。
「静かに、お兄様!」
上から俺を押さえつけながら、妹が縋るように囁いた。俺は呆然とした。普段なら誰よりも分別があり、このような不作法を働くような珠ではない葵が、まさか主君の口を塞ぐなど。
「騒がないと約束するか?」
疾風は、俺の返事を確かめるように、自分と妹の手を僅かに浮かせて見せた。俺は全身で憤慨の意を示しながらも、ただ静かに頷くしかなかった。
「よし、良い子だ、兄貴」
この小さな悪ガキは、まるで自分が兄であるかのように、俺の髪を雑に撫で回した。俺は喉の奥で、低く猛々しく唸り声を上げるしかなかった。
「疾風がね、お兄様を助けるための軍略を立てたのよ!」
葵は嬉々として声を張り上げようとしたが、すかさず疾風が、甘味のまみれた手でその口を強引に塞いだ。
「これだからおなごは困る。いつも無闇に騒ぎ立ておって」
悪ガキはぶつぶつと文句を零しながら、誇らしげに鼻を高く突き出し、まるで希代の軍師さながらに部屋を行き来し始めた。そのあまりの堂々たる佇まいに、俺の胸の奥にも僅かな期待が芽生えかけていた。この青二才とて、案外、侮れぬ手立てを秘めているのかもしれぬ。
「然り、これぞ乾坤一擲の妙計よ……。存分に俺を称えるが良い、ただし静かにな! しーっ!」
小僧は見せつけるように人差し指を唇に当て、踵を返して俺たちを振り返った。
「今日、俺は近所の悪ガキどもを率い、長兄救出と名付けたる軍事行動を仕掛けたのだ」
「軍事行動だと?」
「そうなの!」
葵がまたしても興奮気味に入り込んできた。
「みんな、とっても勇敢だったわ!」
「俺たちの抜け穴を調べたのだが……無惨にも土で埋め戻されていた。そこで探りを入れたところ、石川の奴が都市へ発つ前に、跡形もなく叩き潰すよう命じていったことが分かったのだ」
疾風には、些細な出来事をさも一大事であるかのように、大袈裟に語る悪癖があった。ただ壁際まで行っただけのことを、まるで異国を巡る大遠征でもしてきたかのような口ぶりで話すのだ。普段なら、その無垢なまでの傲慢さを微笑ましく思えたのだろうが、今のあやつの一言は、俺の胸に冷たい棘を突き立てた。
石川がみずから都市へ向かった、だと。不穏な気配を敏感に察知する、あの老獪な影の頭が。本来ならば、格の下がる下忍を遣わして済ませるはずの用向きだ。
背筋を不気味な戦慄が走り抜けた。石川は何かを確信し、あの楓の息の根を止めにいったのではないか。
その後の弟の武勇伝など、もはや俺の耳には届かなかった。しかし、次に放たれたあやつの一言が、完全に俺の意識を現実へと引き戻した。
「ゆえに兄貴、お前は我らが新しく掘り進めた、もう一つの抜け穴から逃れるのだ」
疾風ははっきりとそう告げ、不敵な笑みを浮かべた。
「疾風、この俺がか? 逃亡だと?」
俺は俄かには信じられず、肘で身体を支えて起き上がった。
「そうだ。俺と葵、そして手下の小僧どもで番卒の目を引きつける。その隙に、兄貴が駆けるのだ」
つまり、物心つかぬ子供らですら、俺がどのような窮地に立たされているかを知っているというわけか。俺が近いうちに処刑されるのではないかと、怯えているのだ。噂というものは、恐ろしい速さで広がるものだ。それに、奴らとて盲目ではない。屋敷の誰もが、いくさに向けて血眼で武器を研いでいる有様を、嫌でも目にしているのだろう。
「……逃げるわけにはいかぬ」
俺は深く溜息をつくと、我が身の動かぬ痛む足を指差した。
「俺は、ここに留まらねばならぬのだ」
疾風は憤怒のあまり荒い息を吐き、葵は激しく首を横に振った。すると、それまで俺を苛んでいた悪寒が嘘のように消え失せ、今度は身体の奥から恐ろしい熱気が吹き出してきた。胸が酷く圧迫され、息を吸うことすら苦しい。まるでまた疾風に馬乗りになられているかのようだったが、あやつは離れた場所に突っ立っている。
「……家領では、何が起きている」
額の汗を手の甲で拭いながら、俺は上体を起こそうと足掻いたが、力尽きてそのまま枕の上へと倒れ込んだ。また熱病がぶり返したのだ。あの忌々しい熊の傷め、なぜこうも頑なに俺を解放してくれぬのだ。
「誰も彼も、父上がいくさの支度を始めていると噂しているわ」
疾風は床に屈み込み、俺の足元へと腰を下ろした。葵は俺の燃えるような額にそっと手を触れた。それから、ちっと舌を鳴らすと、部屋の隅から湯桶を引きずり寄せて、濡れ布で冷たい当て布を作ってくれた。
「足のせいで動けないのなら、どこか別の場所に隠せばいいわ」
葵は震える唇を噛み締めながら、俺の手を握り締めた。あやつの小さな手に比べ、俺の手は酷く無骨で、巨大に見えた。疾風はただ黙って座り込み、次なる軍略でも練っているかのようだった。
「……この屋敷の中に、隠れる場所などない」
弟は視線を脇へと逸らし、押し寄せる絶望を必死に堪えていた。あやつの言う通りだ。俺を隠し通すなど、到底できはしない。我が一族の忍びどもの眼を欺き、怒り狂う熊沢の追っ手から逃れることなど、この狭い領地では不可能だ。石川は父上に絶対の忠誠を誓っている。もしあやつが楓を見つけ出していたならば、俺のことを一族を売った裏切り者と見なしているに違いない。あの影の頭の助力を仰ぐことなど到底叶わぬし、他の下男や侍たちとて同じこと。それに、そもそも俺は逃げる気などない。それならば、このままこの寝所で、幼き弟妹の温もりに囲まれながら、静かに死を待つ方がどれほどマシか。
「……案ずるな」
燃え盛る熱の中で俺は微かに笑みを浮かべ、葵の手を優しく握り返した。
「馬鹿なことを言うな!」
疾風が弾かれたように跳び起き、激高した。あやつの目からは涙と鼻水が溢れ出し、その小さな身体は小刻みに震えていた。
「案ずるなだと?! 奴らはお前を処刑するつもりなのだぞ! 鶴田一族の跡取りを、容赦なく打ち首にする気だ! 俺は確かに聞いたのだ!」
「……聞いた、だと?」
恐らく疾風の奴、どこかの物陰に身を潜めて評定の間の会話を盗み聞きしていたのだろう。幼少の頃にも同じ悪さを働き、見付かって三日の間、板の間に正座させられる折檻を喰らったことがあった。
絶望に打ちひしがれた弟の涙を見て、俺の胸の奥がキリキリと痛んだ。
「逃げるのが嫌だと言うのなら……」
あやつは袖で目を擦り続けたが、涙は一向に止まらなんだ。葵もつられて声を上げて泣き始めた。
「……ならば、辞退しろ! 跡取りの座など、捨ててしまえ!」
疾風の声は枯れ果て、その両手は俺の小袖の布地を千切れんばかりに強く握り締めていた。
その瞬間、俺の内の最も大切な何かが、音を立てて崩れ去っていくかのような感覚に襲われた。
「疾風、二度とそのような世迷い言を口にするな!」
俺は葵の手を放し、額の当て布を畳の上へと引きむしるように投げ捨てると、狂わんばかりに激昂した。もし俺が跡取りの座を退けば、その重荷が次男である疾風の肩にのしかかる。この幼き弟が、俺の代わりに熊沢への生贄となるのだ。
疾風は奥歯を噛み締め、涙に濡れた顔のまま、俺の寝所から狂ったように走り去っていった。俺は親指ひとつ動かせぬまま、這ってでもその後を追おうとしたが、ふすまの戸に辿り着くことすら叶わなかった。肉を引き裂くような激痛と、脳を焼く熱病が、俺の身体を無慈悲にねじ伏せたのだ。
「疾風……」
喉の奥から乾いた声を絞り出し、閉ざされた扉へと手を伸ばしたが、俺の指先は虚しく空を切るだけだった。




