七、楓
交易都市へと入って間もなく、子供たちの騒がしい笑い声や商人たちの売り立てる声は消え去り、代わりに雅やかな調べと、おなごたちの艶っぽい笑い声が響いてきた。石川が私を一体どこへ連れていくつもりなのか、何を企んでいるのかは分からぬ。だが、あの荷車が止まった瞬間に、必ずや隙を突いて逃げ出してやる。この喧騒は、どうにも私の神経を逆撫でした。あの静寂に包まれた山の屋敷に比べ、ここはあまりにも不慣れで、ひどく耳障りだった。
筵の下に潜みながら、私は懐の衣服の隙間に鎖鎌を深く隠し持った。しかし荷車が止まった刹那、逃げ出す猶予など一瞬たりとも与えられなんだ。急いで荷車から飛び降りた途端、振り返りざまに一人の男の胸板へと激しくぶつかってしまったのだ。
「前へ歩け」
男が冷酷に命じた。私は、やはりこやつに斬り殺されるのではないかと身の危険を感じ、咄嗟に脇へと飛び退いた。石川は呆れたように天を仰ぐと、私の小袖の襟首をひっ掴み、そのまま強引に引きずり始めた。屈辱の極みだ。このような無様な扱いを受けたことなど、生まれてこの方一度もない。だが、これがこの忍びのいつものやり口なのだろう。
あたりを見回すと、石畳の狭い路地や、小振りの木札の看板が目に留まった。そして何より、白粉を不自然なほど塗りたくり、複雑に髪を結い上げた、絹 of 艶やかな衣装をまとったおなごたちが大勢うろついていた。その着こなしは、私の知るいかなる武家の奥方よりも、遥かにけばけばしく妖艶だった。
すれ違うのは、おぞましい傷跡を持つ強面の男たちや、編笠を深く被った者たちだった。その中には、老人の姿もあった。竹の杖を突き、背の曲がった一人の老人が、私たちの脇を通り過ぎようとしたその時だった。石川は視線を前方から片時も逸らさぬまま、すれ違いざまにその老人の頭から編笠をひったくると、私の顔を覆い隠すように乱暴に頭へと被せたのだ。
あまりの不作法な振る舞いに呆気にとられ、文句を言ってやろうと口を開いかけたが、余計な騒ぎを起こさぬよう、すぐに口を噤んだ。
まもなく、大きな門と、そこを固める番卒たちの姿が見えてきた。私は息をひそめ、今度こそ逃げ出そうと身体をねじったが、やはり襟首をがっしりと掴まれた。如何ともしがたい。忌々しいことこの上ない。
「おお、石川ではないか!」
若気のある番卒の一人が、満面の笑みを浮かべて両手を挙げた。私は編笠の隙間から、その番卒と石川の様子を油断なく凝視した。石川はその親しげな挨拶に対し、ただ無言で小さく頷いただけだった。
「お輪姐さんも、お前の顔を見ればさぞかし喜ぶだろう。……して、そっちの小僧は誰だ?」
私の額を、冷たい汗のひと雫が伝い落ちた。ここが一体どこなのか、これからどこへ向かうのか、名の挙がったお倫などという名のおなごが何者なのか、私には何一つ、まるで見当がつかなかった。
「仕込みの小僧よ」
石川はぶっきらぼうに言い放った。番卒の一人が声を立てて笑いながら、私の編笠に手を伸ばしかけたが、あの忍びの鋭い眼光に射抜かれると、慌てて手を引っ込めた。番卒たちは奇妙なものを見る目で私を凝視していたが、石川が仕込みなどというわけのわからぬ言葉を口にすると、互いに顔を見合わせた。
「ならば、お前が連れてきたその仕込みとやらを拝みに、俺も近いうちにお倫姐さんのところへ足を運ばねばならんな」
若い方の番卒が、顔を赤らめながら後頭部を掻き、門から一歩下がった。
「お前ごときの懐で、あそこの敷居が跨げるわけなかろう」
もう一人が、仲間の肩を小突いてあざ笑った。二人は気心の知れた間柄のようだった。笑われた男は不満げに頬を膨らませ、フンと鼻を鳴らした。
「人のことを言えるかよ。……まあいい、石川、通りな」
ようやく行く手が開けた。しかし、あの忍びは私が逃げ出すのを警戒しているのか、依然として小袖の襟首をがっしりと掴んだままであった。
一歩足を踏み入れると、そこには浮かれた祝祭のような熱気が満ちていた。軒先には紅い提灯が揺れ、木札の看板には小綺麗な文字で茶屋の名が記されている。
「ちょっと待って」
私は素足を踏ん張り、強引に引っ張る石川の力に抗った。編笠を僅かに持ち上げ、路地の奥へと視線を走らせる。そこにもやはり、白粉を塗ったおなごたちがいたが、その髪型や髪飾り、身にまとっている極彩色の衣は、先ほどの者たちよりも遥かに豪奢であった。延びる見世の看板のどれもが、ここが茶屋であることを示している。
その瞬間、脳裏に雷が落ちたような衝撃が走った。――遊郭だ。ここは傾城たちが集う、色里のただ中なのだ。だからこそ、これほど多くの美しい女たちが溢れ返っているのだ。現に、小綺麗な身なりの富商らしき男が、一人の女に誘われるようにして豪奢な格子戸の奥へと消えていくのが見えた。
石川の奴、よくもこの私をこのような不浄の地へ連れ込む大それた真似をしてくれたものだ。郭の内側は、外の荒れ果てた路地に比べれば、塵一つなく掃き清められてはいた。されど私の鼻には、ここが、武士の尊厳を汚す不義と、垢染みた欲望の悪臭で満ち満ちているようにしか思えなんだ。断じて、私のような武家の娘が足を踏み入れてよい場所ではない。
私は眉をひそめ、再び忍びの束縛から逃れようともがいた。
「私を売女にするつもりか!」
身をよじって憤慨する私に対し、石川はただ忌々しげに溜息をつくと、私の両腕をごつい腕で丸ごと締め上げた。まるで太い縄で縛り上げられたかのように、身動きが取れなくなる。奴の力は凄まじかったが、私とて簡単に引き下がるつもりはなかった。
「嫌だ! 誰が傾城などになるものか!」
私は声を張り上げ、奪い取ったばかりの編笠で奴の顔面を殴りつけようと暴れた。すると石川はその笠をひったくり、私の顔を丸ごと押し潰すようにして深く被せてきた。視界は完全に閉ざされたが、路地を行き交う大勢の者が、この無様な騒動を冷ややかな目で見物していることだけは肌で分かった。
「……離せ! 私は、一族の長の――」
私が最も重い言葉を口にしようとしたその刹那、後頭部に凄まじい衝撃が走り、目の前が真っ暗になった。衣服を掴む悪党の腕の中で、私の身体は糸の切れた人形のように力なく崩れ落ちていった。
目を覚ました時、私はどこかの一室に横たわっていた。脳天を叩き割られたかのように頭が激しく痛み、意識を失う直前の記憶が朧げに蘇る。あの薄汚い石川の奴、やはり私を後ろから打ち据えて気絶させたのだ。朦朧とする意識の中で、自分が絹の敷布が敷かれた、酷く柔らかい敷布団の上に寝かされていることに気づいた。枕元では、甘ったるい香の煙が揺らめいている。その匂いのせいで、頭痛はさらに酷くなる一方だった。
「あら、もう起きたのね」
耳に心地よいおなごの声が響き、続いてふすまの向こうから、背の高い、すらりとした佇まいのおなごが姿を現した。あやつの着ている小袖は肩口がだらしなくはだけ、足元が僅かに覗いている。――なんとはしたない。実に見苦しい格好だ。
「何者だ、貴様は!」
私はすぐさま手元を探り、己の獲物を引き抜こうとした。しかし、そこに何も触れなんだ瞬間、私は息が止まるかと思った。武器が、奪われている。
「近寄るな!」
「まあ、なんて気の強いこと。お大様たちが皆、このような野蛮人を好むとは限らないのだけどね……」
見知らぬおなごは口元をすぼめ、歌うような声で呟いた。
「お前たち、この子を一人前の売主に仕立て上げるには、随分と骨が折れそうよ」
あやつは顔をしかめ、値踏みするような冷ややかな目で私を一瞥すると、舌を鳴らした。衣服を身にまとっているというのに、私は羞恥のまま、咄嗟に両手で我が身を隠した。
「石川、次はもう少し……この稼業に乗り気なおなごを連れておいで」
女はくすくすとあざ笑うと、こちらへ歩み寄り、私の顎をがっしりと掴み上げた。あやつからは、瑞々しい木の実と瑞々しい草木の香りが漂ってきた。佳い匂いであるはずなのに、私は不快感のあまり吐き気を催しそうになった。
顎を振り払おうともがいたが、その無礼者はさらに強く力を込めて締め上げてきた。
「口を開けなさい」
あやつは相変わらず澄ました声で命じた。その時、ふすまが開き、石川が部屋へと入ってきた。
「お倫、そこまでにせよ。……その小娘を放してやれ」
奴の姿が目に入った瞬間、私は力任せに女の手を突き放し、傍らにあった行灯をひったくるように掴んで、あの忍びに向かって躍り出た。だが、奴の元へ辿り着くより早く、私の髪の結び目が後ろから強引に引っ掴まれた。あの女が、私の髪を掴んで我が身を引き戻したのだ。石川はその様を、眉ひとつ動かさずにただ見つめていた。
胸の奥で、逃亡への焦燥が激しく燃え盛っていた。またしても、私は檻の中に囚われたのだ。
「放せ! 無礼者! 私は一族の、高貴な身分なるぞ!」
「おやおや」
その執念深い女は、私の鼻先でひらひらと指を振ってみせた。
「お大様たちはね、うちの娘たちが自らを姫君と称するのを大層お喜びになるのよ。けれどね、それを外に向かって大声で喚くものではないわ。……そう思わない、石川?」
私は恐怖のあまり、身体が完全にすくみ上がっていた。あやつの声は、まるで鳥のさえずりのように美しく響くというのに、私の魂を底から凍りつかせるような冷酷さに満ちていた。
「放してやれ」
石川は無造作に壁に背を預けた。
「お前は相変わらずね……」
女はフンと鼻を鳴らすと、見せつけるように私の髪から手を離した。私は再び行灯を構え直したが、奴らはそんな私の抵抗など目にも留めなんだ。
「なんて陰気で、退屈な男かしら」
そのおなごは石川の側へと歩み寄り、事もあろうに奴の肩へと自らの頭を預けたのだ。
「うちの娘たちに、お前を揺り籠の中へと誘わせましょう。お前のような、愛しき古き友のためなら、今宵の席は代金などいらぬわ。……どうかしら、娘たちと共にお茶でも啜る気はない?」
石川は不満げに何かを呟くと、己の肩を揺すって鬱陶しい重みを払い落とした。
「それとも、お茶より先に甘味がよいかしら?」
あやつは名残惜しそうに顎を引き離すと、悪戯に指先で石川の胸元をなぞってみせた。その目の前の破廉恥な光景に、私は怒りすら忘れて呆気にとられてしまった。
「お前は」
石川は私に向けて鋭い眼光を放ち、低く言い放った。
「ここに残れ」
「遊郭にいろと言うのか!」
私は恐怖と苛立ちのあまり、声を裏返らせて叫んだ。
「この阿呆な忍びめ、よくも私をここまで愚弄してくれたな! そうして頭領の元へ馳せ参じ、褒美の言葉でもねだるつもりか!」
「お前が虚言を吐いておらず、豊光が真に偽りを申しているならば、あやつは必ずや目撃者を消しにかかる。ここに留まり、お倫の庇護を仰ぐのが上策だ」
「断る! 誰がこのような場所に!」
私は激昂し、窓へと向かって猛然と駆け出した。勢いをつけ、障子紙を突き破って外へと飛び降りるつもりだった。
「哀れな愚か者ね。今外へ飛び出せば、豊光の手の者に見つかって命を落とすだけよ。ことに、行く先々で己の身分を大声で触れ回るような真似をすればね」
お倫はあざ笑うように口元を歪めた。石川は私を止めようともせず、ただ冷ややかに眺めているだけだった。私は開く直前の窓の手前で、悔しさに奥歯を噛み締めながら、ぴたりと足を止めるしかなかった。あやつの言う通りかもしれぬ。わけが分からぬ。私の頭は完全に混乱していた。
「お前の父上は血を欲しておいでだ。この難局を解く鍵は、お前一人しか持っておらんのだぞ」
石川の言葉に、喉の奥がキュッと詰まり、両手が小刻みに震え始めた。
「当面の間、ここに身を潜めていろ。時が来れば、俺が迎えに来る。勘違いするなよ、己の好きに振る舞えると思うな。ましてや、俺がお前を慈悲で助けているなどと自惚れるなよ」
忍びはどこまでも冷酷に言い放った。
またしても、檻だ。今度は、絹の糸と黄金の格子で編まれた、美しくも禍々しい檻。真の自由などという淡い期待を抱いた己が、底抜けの阿呆だったのだ。しかし、如何に拒もうとも、奴の言い分には抗えぬ道理があった。
「お倫、この姫君をかむろとして置いてやってくれ」
私は再び全身の毛を逆立てた。この忍び、一体何を考えている。武家の重臣の館の奉公人ならいざ知らず、市場の辻での商いならいざ知らず、あろうことかこのような色里の見世で働けというのか。ふざけるな、断じて御免被る。
「私がこのような……」
胸の内に湧き上がる罵詈雑言を何とか飲み込んだが、私の顔には激しい嫌悪が露わになっていたに違いない。
「……こんな茶屋に留まれるわけなかろう!」
「あら、可愛いお嬢さん、きっと気に入るわよ!」
そのおなごはわざとらしく微笑むと、パンと一度手を叩いた。その音を合図にするかのように、部屋へ二人の下女が木箱を抱えて入ってきた。あやつらは手際よく、その中から艶やかな着物や化粧道具を取り出し始めた。
「嫌だ! 殺せ! 私は断じて傾城などにはならぬ!」
私はあらん限りの力で抗ったが、二人の下女にがっしりと身体を押さえつけられた。石川は、酷く疲れ果てたように深く溜息をつくと、こちらへ歩み寄ってきた。
「暴れるのをやめよ。お前は虜囚でもなければ、ましてや傾城でもない」
石川の冷淡な声が響いた。
悔しさのあまり目頭が熱くなり、奥歯がガタガタと震えた。周りの奴らが何を口走ろうとも、今の私の耳には一切届かなかった。お倫の下女どもは、私の髪を梳きほぐそうと、さらに力任せに押さえつけてくる。
「そうよ。あんたが言うような傾城になるにはね、それ相応の血の滲むような修練がいるの。あんたなんかはね、うちの娘たちの足元に転がって、ただの雑用をこなすのが関の山よ」
お倫は私の鼻先を指先でちょんと突いた。繋がれたばかりの狂犬のごとく、私はその不躾な指を噛みちぎってやろうと激しく顎を鳴らした。
あの鶴田の阿呆め、呪われてしまえ。豊光の奴も、この世のすべてが灰になればいい。
石川はそれだけ言い残すと、私をあの破廉恥な女たちのただ中へと置き去りにして、部屋を出て行った。私の髪は、木櫛で四方八方へと容赦なく引っ張られた。ありとあらゆる恥辱が私の全身を切り裂いていく。唇を血が滲むほど強く噛み締め、奴らの前で涙を流すことだけは、何としても堪えた。ここで泣けば、この売女どもを喜ばせるだけなのは火を見るより明らかだった。
どうやら私は、この絶え間ない敗北の泥沼に慣れるしかないらしい。転落と、底なしの不名誉。
神仏よ、もしも時をあの夜に戻せるのなら……。私は誰よりも慎み深く、誰に対しても従順な娘になっただろう。二度と屋敷の門を潜ることもなく、父上が望んだ通りの、誇り高き熊沢の娘として生きたものを。
両手から、完全に力が抜けた。
私の顔には分厚く白粉が塗り込められ、髪は高く結い上げられた。奴らは私の身体を拭い、用意した艶やかな衣を着せようとしたが、それだけは断じて拒んだ。これ以上の不躾な手が我が身に触れるくらいなら、自らの手で済ませた方がマシだ。お倫が部屋を出ていき、下女どもがそれに続くと、ようやく私は一人になった。
木箱の上に置かれていた小さな手鏡を手に取り、そっと覗き込んだ。
鏡の中に映る我が姿を目にするのは、生まれてこの方、ただの一度しかなかった。――あの、裳着の儀式の日の朝だ。
満から与えられた小袖を脱ぎ捨て、私は布切れを水の中に浸した。その水からは、微かに杉の葉と米の香りが漂っていた。私を宥め、組み伏せようと奴らが騒ぎ立てている間に、水はすっかり冷え切っていた。布を肌に当て、胸や腹、そして何より、あの傷だらけの足首を拭っていくと、冷たさに思わず顔をしかめた。されど、その刺激が私の身体と、曇りかけていた意識を静かに覚醒させていく。
一人きりになった今こそ、深く思案を巡らせ、次なる手立てを練る好機だ。……されど、あまりにも情報が足りなすぎる。我が一族の屋敷で、今一体何が起きているのか、私には何一つ分からぬのだから。




