十、満
あの脅迫状が突きつけられてから、一体幾日の刻限が流れたのか、今の俺には判然としなかった。三日の猶予がとうに尽きていたなら、こうして思案を巡らせることすら叶わなかったはずゆえ、辛うじてそれ未満なのであろう。激しい熱は、ひとまず静まり返っていた。
床の上に泥のように横たわり続けるのにも、正直すっかり嫌気がさしていた。
俺は深く溜息をつくと、ゆっくりと目を開けた。容赦ない日の光が、あの障子の破れ穴から差し込み、俺の目を眩ませる。――あの野蛮な小娘が、我が寝所へと這い込んできた時に残していった、最後の名残だ。俺は微かに瞬きをしながら、枕元で激しく咽び泣いている葵の姿を捉えた。まだ朦朧とする頭を働かせようとした刹那、あやつが口を開いた瞬間に、俺はすべての記憶を鮮烈に思い出した。
「兄様……」
年の離れた妹は、溢れる涙を何度も小袖の袖で拭っていた。
「疾風が……疾風が……」
あの悪ガキめ。またしても前後の見境なく、大それた無鉄砲を仕出かしたな。あやつが熱っぽく語っていたあの言葉が、まさか現実になったのではあるまいな。もし疾風が、己の幼き身を私の代わりに差し出せば、この難局が破滅から救われるなどと思い違いをしたのだとしたら、これほどの大馬鹿はあるまい。
「あやつは逃亡したわ……。己の木刀を握り締め、熊沢の陣へと真っ直ぐに向かって走っていったのよ!」
葵が一気に言葉を捲し立て、さらに激しく取り乱した瞬間、俺は息をすることさえ忘れて床の上に固まった。
「熊沢の懐へだと? ……あそこに控える隠密どもは一体何をしておったのだ! 石川はどうした!」
俺は声を荒らげ、激痛を訴える足を強引に踏み締めて畳の上へと立ち上がった。険しく眉をひそめる。
「石川様は未だに都市から戻られませぬ……。他の隠密たちも、皆獲物を携えて境目の防備へと駆り出されていきました……。私には、もう何が何やら……」
隠密どもは、皆いくさの備えのために出陣したのだろう。父上もまた、軍勢の指揮を執るために本陣へと赴いたに違いない。されど、屋敷に残された奉公人や、老いた乳母どもは一体何をしておったのだ。疾風が国境を越えるなど、そこらに我が一族の密偵や番卒が網の目のように潜んでいるのだぞ。あやつはそれらをすべて潜り抜けたというのか。
「あやつは、いかにしてそれを成し遂げた」
「私たちは、その……」
妹は濡れた鼻を小袖で拭い、言葉を詰まらせた。
「『兄様救出作戦』の支度をしておったの……。新しい抜け穴を掘り進めて、そこから川のせせらぎに沿って、深い森へと這い出すのよ。疾風は、兄様なら繁みの陰に身を潜めて隠れることができると言って……」
葵は迫り来る恐ろしさに、激しく震えながら語った。無理もない。熊沢の民が、我が鶴田の頭領の息子を容赦なく生かすはずがなかろう。いくさになれば、奴らは容赦なく子供の喉笛すら掻き切る、理性を欠いた獣なのだから。
もしあの幼き弟が、この私の不始末のツケを払わされて命を落とすのだとしたら、兄として、一族の跡取りとして、断じてこのまま座して死を待つわけにはいかない。俺がすべてを正さねばならぬ。
「葵」
俺は妹の怯えた瞳を真っ直ぐに見据え、毅然たる命令を下した。
「今すぐ、廊下にあるあの仕込み杖をここへ持ってこい。俺が疾風を連れ戻してやる」
少女は一瞬にして咽び泣くのを止め、深く頷くと、我が身の動かぬ足の危険など気に揉む様子もなく、一目散に部屋を飛び出していった。今の俺には、あの仕込み杖だけが唯一の支えだった。この不自由な足では、杖という確かな拠り所がなければ一里と進めぬうちに床の上へと無様に崩れ落ち、再び熱の深淵へと没してしまうだろうから。
小袖の裾をめくり上げると、傷口を縛り付けていた布地が、べっとりと鮮血で赤黒く染まっているのが目に飛び込んできた。無理に身体を動かすたび、皮膚が無残に引き裂かれ、治癒の兆しなど微塵も訪れてはいなかった。されど、今の俺にとっては、そのような肉体の激痛など些細な問題にすぎなかった。
部屋を出ると、二人の下女が平伏して俺を迎えた。
「若君、大殿より、如何なることがあろうとも屋敷の外へはお出ししてはならぬと、厳しく仰せつかっております……」
誰がそのような指図に従うものか。掟などとっくに壊れているのだ。もう一度禁を破ったところで、父上の怒りがこれ以上深くなるわけでもない。されど、もし二人の息子を同時に失えば、父上が真に正気を失うのは目に見えていた。
「表まで歩む。支えろ」
下女は俺の命令にびくりと身体を震わせたが、跡取りへの不敬を恐れたのか、それ以上抗うことはしなかった。一人が怯えながらも俺の脇へと寄り添い、その華奢な肩を貸して外へと俺を導いた。他人の身体に寄りかかり、このように不躾に体重を預けるなど、どこか奇妙で、言い知れぬ居心地の悪さを覚えた。かつての俺は、ただ傲慢に指図をし、周囲は一族の世継ぎである俺の前にただ平伏するばかりだった。それなのに、今の俺はなぜ、これほどまでに脆く崩れてしまったのだろうか。
俺は強く唇を噛み締め、痛む足を引きずりながら表へと這い出た。庭の向こうから、葵が息を切らせて駆け戻ってくるのが見えた。その手には、竹の杖の姿を模した、鈍色の刃を秘めた我が仕込み杖が握られていた。
「……かたじけない」
下女の身体を解放すると、彼女が驚愕の目を丸くして俺を凝視しているのに気づいた。何がそれほど可笑しいのか、俺には皆目見当もつかなかった。
「葵を見守れ。もしあやつの身に何かあれば、お前たちの首が飛ぶと思え」
下女は再び、深く頭を垂れた。
「満兄様、私も一緒に行く!」
葵は俺の衣服の袖に必死にしがみつき、頑なに離れようとはしなかった。
「葵、お前はここで待て。もし疾風が戻れば、すぐに……」
俺は受け取った仕込み杖をしっかりと地面へと突き立て、それを唯一の支えとして、弟を救い出すべく一歩を踏み出した。あやつが、葵の語ったあの道筋に沿って進んでいることを願うばかりだった。
葵は俺の後ろを追おうと大声を上げて泣き叫んだが、下女がその身体を抱きすくめ、強引に館の奥へと連れ戻していった。もし葵の身にまで何かあれば、それこそ俺は切腹するしかあるまい。
表の門のあたりには、一人の衛士が佇んでいたが、壁に背を預けたまま、だらしなく居眠りを貪っていた。今の鶴田の防備の弛みを叱り飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、奴を起こして俺の行く手を阻まれるのは業腹であったゆえ、俺はただ黙って奴の脇を潜り抜けた。
壁に沿って歩みを進めるうちに、あの疾風が掘り進めたという犬走りの跡が目に留まった。周囲の土は湿っていて柔らかく、無残に散らばった土の中に、小さくて四角い、どこからどう見ても羊羹が一つ転がっていた。あの悪ガキめ、いくさに向かうというのに、このような菓子を道標代わりに落としていったというのか。
胸の奥が、締め付けられるようにキリキリと痛んだ。脳裏に、昨夜あやつと葵が不躾にも俺の口を塞いできた、あの小袖にじわりと染み込んでいく少年の涙と、餡の甘ったるい匂いが鮮烈に蘇る。
俺は周囲を見渡し、せせらぎの流れる方へと足を引きずった。仕込み杖を地面に突き立てながらの歩みは、先ほどよりは幾分か滑らかに動けた。せめてこれだけは、正しい道理を踏み出せたのだ。
川辺に行き着く手前で、俺はさらにもう一つの小さな羊羹の塊を見つけ出した。これで確信が持てた。疾風は確かに、この道筋を辿って進んだのだ。あやつは川を上流へと向かった。その先は、熊沢の領地へと繋がっている。俺は川べりに沿って歩みを進めることにした。もしかしたら、あやつは途中で歩みが尽きて、どこぞの繁みの陰で横になって休んでいるのではないか。あるいは、冷たい水で喉の渇きを宥めているのではないか。
まもなく、水のせせらぎが強く耳に届くようになった。俺の喉はカラカラに干からびていた。疾風とは違い、俺は水入りの瓢箪すら携えてこなかったし、腹を満たす糧もない。されど、せめてもの救いは、あの弟が空腹に苦しむ心配だけはないということだった。
俺は川べりへとしゃがみ込み、傍らに我が仕込み杖を横たえると、両手を器のように丸めて冷たい水を掬い上げた。水は心地よく冷えており、顎を伝って衣服へと零れ落ちた。さらに水を掬って顔を洗い、首筋を拭って、目元にかかる長い髪を手繰り寄せる。ようやく頭痛の雑音が綺麗さっぱり消え失せ、意識が静かに落ち着いていくのを感じた。
俺は再び仕込み杖を手にとり、行く手を阻む繁みを刃でかき分けながら、川べりをさらに進んだ。あやつがそこに潜んでいないか、一歩一歩確かめるように。
杉の密林へと辿り着くまでの道のりは、果てしなく長く感じられた。太陽は分厚い雲に遮られ、今にも沈もうとしている。肉体の限界はすでに頂点に達していた。足の傷口からは、地獄の劫火のような激痛が這い上がってくる。縛り付けた布地は、無残にも鮮血で赤黒く染まっていた。これ以上の強行軍は、真に我が身の失血死を招く自殺行為に等しかった。されど、ここで疾風を見出せぬまま行き倒れるわけにはいかない。
密林の薄暗がりに足を踏み入れた俺は、あの野蛮な小娘が毟り取っていた、あの凄まじく生臭い草の群生を周囲の地面の中に捜し求めた。今なら、あやつのあの不敵な笑みや、生意気な口上をいくらでも聞いてやっても良い。されど、あやつの声はもうどこからも聞こえなかった。
かつての俺なら、どこぞの一族の娘のことなど、片時も気に揉むことはなかったろう。されど、今の俺を苛んでいるのは、底知れぬ罪悪感であった。我が鶴田の家、熊沢の家、そして疾風や葵、さらには楓の運命までもが狂ってしまったのは、すべてはこの俺の不始末のせいなのだ。弟の無鉄砲を止められず、敵の領地に我が武器を置き去りにし、何より、あの長老の処刑を父上に強く迫ることもできなかった。
重なり合う木々の影に、俺は見覚えのある草の葉を見つけ出した。俺にとっては、どのような草もすべて同じただの緑の葉にすぎない。されど、あの小娘は確かにこれを手際よく毟っていたはずだ。
俺は上体を屈め、その葉を一枚むしり取って手のひらですり潰した。鼻を突いたのは、あの小娘が噛み砕いていた生魚のような悪臭ではなく、かすかに嗅ぎ覚えのある別の薬草の匂いだった。これであやつの真似ができるだろう。されど、これをそのまま口に含んで咀嚼すべきか、それとも石で叩き潰すべきか、俺にはその道理が分からなかった。余計な冒険をするわけにはいかない。俺は手近な河原石を拾い上げ、その上で草の葉を丁寧に叩き潰した。
それから、あの血に染まった包帯を剥ぎ取り始めた。目の奥が熱くなるほどの激痛が走り、口の中に生鉄のような味が広がる。俺は唇を強く噛み締め、涙を流すことだけは断じて堪えた。ここが敵の地である以上、鶴田の跡取りとしての矜持を汚すわけにはいかないのだ。見れば、無残に裂けた傷口の縁は黒く変色しており、肉が衣の繊維とべっとりと癒着して、剥ぎ取るたびに肉体が千切れるような苦痛が襲ってきた。
口の中に生鉄のような味が広がり、俺は唇を強く噛み締めた。このままでは己の唇を噛み切ってしまうと思い、代わりに肘へと深く歯を突き立てて低く呻き声を上げた。両手は激しく震えていたが、それでも不器用ながら、何とか傷口の処置を終えることができた。それから、またしてもあの野蛮な小娘の振る舞いに倣い、小袖の端を思い切り引きちぎって長い布切れを作った。そして、それを痛む足へと固く巻き付けた。
これ以上、この場に留まっている猶予はない。俺は前へと進まねばならなかった。
立ち上がろうとした、まさにその刹那――背後の繁みから、不気味な衣擦れの音が響いた。続いて、地を揺るがすような凄まじい咆哮。――熊の咆哮だ。俺はその場に身を硬直させ、手にした仕込み杖をきつく握り締めた。なんと不運なことか、俺はまたしても猛獣と相まみえるというのか。完全に飢えた獣の存在を頭から失念していた。
熊の鳴き声が止んだ次の瞬間、俺は我が痛む足首に、血も凍るような冷たい感触が走るのを感じた。――鉄の鎖が、一瞬にして俺の足首を絡めとったのだ。鎖鎌だ。俺が仕込み杖の刃を抜くよりも早く、その鎖の主が容赦なく手元を引いた。俺は体勢を完全に崩し、無残にも苔の絨毯の上へと激しく転倒した。
伏兵か!
俺が仕込み杖を構え直そうとした刹那、数振りの鎖鎌の鎌や長刀の切っ先に囲まれ、真っ直ぐに喉元へと突き立てられた。見上げれば、そこに立ちはだかっていたのは、深緑の忍び装束に身を包んだ、熊沢の一族の隠密どもであった。
「おやおや、誰かと思えば、大層な客人が自ら我が一族の檻へと幾度も這い込んできたかえ」
一人の忍びが、手にした法螺貝を弄びながら、大げさにあざ笑った。当然、奴らははじめから俺を罠に嵌める狙いだったのだ。熊沢の隠密どもは、山林に同化する隠蔽の術に長けているだけでなく、獣の声を騙る作法にも深く通じている。いくさの備えのために、此度はこれほど数多の密偵を境目に網の目のように放っていたのだろう。
俺は激怒に唇を噛み締め、奴らの刃を真っ直ぐに睨み据えながら、我が武器を掲げようと足掻いた。されど、俺の足を鎖で締め上げていた忍びが、俺の開いた手の甲を、己の硬い足駄で容赦なく踏みにじった。指先が土の中へと沈み込み、骨が軋む鈍い音が頭の中に響き渡る。仕込み杖が、手元から地面へと無残に転がっていった。奴らは、人間の足跡ではなく獣の爪の跡を地に残す、あの特殊な足駄を召していた。
「平野を領する、鶴の家の若君か。これはなかなかに極上の土産だな」
頭らしき忍びが、俺の胸元に手を伸ばし、値踏みするような身振りでせせら笑った。
「お前の父上は誇りなき不届き者だが、その息子は、そこまで臆病ではなかったと見えるな!」
俺は再び身体を激しくよじり、奴に向かって躍り出んとして、同時に疾風の行方を激しく問い詰めようとした。――無謀な行動か。然り、あまりに衝動的な足掻きであった。されど、この誇りなき影どもが、我が幼き弟をどこへやったか知っているのは、火を見るより明らかだった。
「俺の弟はどこだ! 疾風はどこにいる!」
俺が声を絞り出して叫ぶと、その無礼者は、俺をさらに辱めるかのように、あの無残に裂けた足の傷口を己の足駄で強く踏み付け、薄汚い笑みをその醜い顔に浮かべた。
「まあまあ、お静かに。このまま置き去りにして、山の飢えた熊の餌食にしてやってもよいのだぞ」
「おのれ……」
俺は奥歯を噛み締め、強引に足を引いた。この影どもには、武士の掟や名誉などという言葉は一切通用せぬ。奴らはただ、地位と権力を持つ者に買われ、また別の者に売られるだけの、誇りなき輩なのだから。真に忠義を尽くす隠密など、滅多におるものではない。仮に主君を持ったとしても、奴らの佇まいはまるで野良猫のようであった。気まぐれで、誰にも制御できぬ、孤高の影。
「おやおや、いけないねえ」
忍びは俺の鼻先で指をひらひらと振ってみせた。直後、薄暗い密林の奥に、男たちの不快なせせら笑いがどっと響き渡る。無様な虜囚となった俺を、嘲笑っているのだ。
「お前はもう、吠えることも叶わぬ袋の鼠なのだぞ。鶴田の阿呆どもは、いつも獣の恐ろしさを過小に値踏みするからな」
俺は必死に身をよじって抗ったが、如何ともしがたい不名誉の泥沼へと引きずり込まれていった。
奴らは俺を泥の上へと引きずり、そのまま熊沢の本陣へと連行し始めた。国境からおよそ一里か二里ほども奥まった、うっそうとした山林のただ中。そこには、深い緑色の布地で編まれた、大層な頭領の軍幕が佇んでいた。
完全な恐怖が俺の身体を金縛りのように縛り付けたが、俺は湧き上がる怒りでそれを何とかねじ伏せ、這うようにして上体を起こした。両手は湿った土を掴み、衣服は黒く汚れている。視線を少しずつ上方へと動かした、その刹那――目に飛び込んできたのは、深緑の袴の裾であった。さらに顔を上げ、俺は目の前に立ちはだかる男の正体を悟った。熊沢高津に違いない。
不届き者どもめ。高貴な主君の息子を、まるで仕留めた獣のごとく、敵の足元へと放り投げおって。
「……鶴田の、跡取りか」
高津の声は、噂に勝るほど粗野で、地を走るような重々しさに満ちていた。奴は俺の姿を値踏みするように上座から見下ろしていた。今すぐここで俺の首を撥ねる気か、それとも父上への皮肉な返書にする気か。奴の胸中を読み解くことは叶わなかったが、間違いなく、一刻の躊躇いもなく俺の首を刎ねる冷酷さを秘めていることだけは分かった。
「……弟は、疾風はどこだ!」
俺は地面を踏み締め、上から俺を威圧する敵に向かって、片時も視線を逸らさずに問い詰めた。こやつの前で、這いつくばって命乞いなど断じてするものか。
「お前の弟か」
高津はふんと鼻を鳴らすと、配下の忍びに顎で合図を送った。
軍幕が開かれ、連れてこられたのは、懐に松の実を大事そうに抱え込んだままの、我が幼き弟であった。少年の手から零れ落ちた実が地面へと転がる。あやつの小さな身体を見つめた瞬間、俺は激しい動揺のあまりねじり起きそうになった。奴らは子供を拷問したのか? 殴ったのか? ……なんたる野蛮な連中か。
「何をした、この子供に!」
俺は声を張り上げたが、背後に控える忍びどもが再び俺の背中を強引に床へと組み伏せた。疾風は俺の悲鳴を耳にすると、驚愕に目を丸くし、抱えていた実をすべて放り出して俺の元へと躍り出てきた。
「満兄様!」
少年は鼻をすすり、激しく咽び泣きながら、俺の背中へと顔を埋めてしがみついてきた。忍びどもは、首領の視線一つでその意図を正確に汲み取り、幸いなことに二、三歩退がって俺たちを解放した。いくさの前に、このような無用な介抱を見せるとはな。
「疾風……」
俺は力なく微笑みながら、弟を強く抱きしめた。
「奴らにお前、どこか痛むところを付けられなんだか?」
「なぜ来たんだ、兄様!」
再会の喜びなどそこにはなく、幼き弟の瞳にあるのは激しい怒りだった。奇妙なことに、高津はあざ笑うでもなく、ただ静かにその様を観察していた。されど、この状況を心底愉しんでいるのは間違いなかった。
「兄様は逃げるべきだったんだ! 奴ら、兄様を殺す気なんだぞ!」
疾風は高津の方を振り返ると、小さな両手を大きく広げて俺の前に立ちはだかった。
「お願いです、大殿! 私を捕らえてください! あの老いぼれを刺したのは、この私にございます!」
「黙れ、疾風!」
俺は声を荒らげ、弟の細い足を掴んで我が身の方へと引き戻そうとした。周囲の隠密どもが一斉に声を上げて笑い出したが、疾風は恐怖に身体を小刻みに震わせ、涙にくれながらも、頑なにその場を動こうとはしなかった。少年の無垢なまでの犠牲の心に、俺の胸の奥は千切れんばかりに締め付けられた。
高津は興味深そうに疾風を見つめていたが、やがてその巨大な手のひらを、少年の頭の上へとそっと置いた。疾風は恐怖にぴたりと息を止める。まさか、今すぐここでこの子供を処刑する気か。激動の時代とはいえ珍しいことではないが、もし奴が刀に手をかけでもしたら、俺は如何なる傷を顧みず奴を殺してやる。奴ら全員を、この手で引き裂いてやる。
密林は水を打ったような死の静寂に包まれた。蝉の声も聞こえず、鳥のさえずりすら途絶えていた。
「……お前は、なかなかに勇敢なサムライになるな」
高津は疾風の頭をぽんぽんと軽く叩き、少年を少しだけ退がらせた。
「その子に手を出すな! お前たちが求めているのは跡取りの首だろう、この俺がここにいる。だから、その子供だけは放してやってくれ」
「断る」
熊沢の頭領は冷徹に言い放った。当然のことであった。もし父上である清正の二人の息子が同時に奴らの手の中にあれば、鶴田の家を完全に意のままに操ることができる。奴らは大義名分を掲げて無理な要求を突きつけ、この戦を意のままに動かすだろう。父上には、この野蛮な連中の条件を飲む以外の道は残されていないのだ。我らがこうして生かされているのは、神仏の慈悲などではなく、ただの冷徹な打算にすぎない。
「次男は厳重に警護せよ。長男は、俺の軍幕へと連れてまいれ」
いけない。それだけは駄目だ。疾風。
忍びどもが少年の襟首をひっ掴んだ。あやつは手足をバタつかせて抵抗し、地面を蹴って暴れた。俺もまた、あやつを放すまいと必死にその身体を抱きしめた。決して引き離されてはならぬ、俺はあやつの側に居続けねばならぬのだ。
「兄様! 満兄様!」
疾風の声が枯れ果て、悲鳴となって響き渡る。俺はあやつの足を掴み、手の甲の骨が浮き出るほどきつく握り締めた。あやつの足首には、俺の血塗られた手の跡がくっきりと残されていた。
「疾風! 奴らから離れるな!」
上体を起こそうとした瞬間、再び俺の背中に数人の忍びの重みがのしかかった。我が仕込み杖の柄が、容赦なく俺の足の傷口へと叩きつけられる。されど、怒りと恐怖の狂乱の中では、その激痛すらほとんど感じなかった。すると奴らは、俺の手や腹を何度も容赦なく蹴りつけてきた。俺はついに力尽き、弟の手を放してしまった。あやつの恐怖と涙に濡れた瞳が、真っ直ぐに俺を見つめながら、遠ざかっていく幕の向こうへと消えていく。手が虚しく空を切り、俺の胸の奥は真に音を立てて崩れ去っていった。




