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十一、楓

その不届き者は私を路地裏の暗がりへと強引に引きずり込んだ。辺りには何かが腐りかけたような、ひどく饐えた臭気が立ち込めている。おそらく、私と同じように仕損じた間諜どもが命を落としてきた、無残な果ての場所なのだろう。頑丈な手のひらが私の口をきつく塞いでおり、噛みつこうとする足掻きすら虚しく封じられていた。

「小賢しい娘め。やはりあの時、お前の足を圧し折っておくべきだったな」

石川の低い声が耳元で響いた瞬間、背筋に冷たい戦慄が走り抜けた。あれは、あの竹林で初めて相まみえた時と全く同じ恐怖だった。死の不吉な予感がじわじわと身体を蝕んでいく。やはり、この男は私を仕留める気なのだ。このような薄汚い路地裏で、誇りなき忍びの手にかかって犬死にすることなど断じて御免被りたかった。私は必死に身体をよじり、掌の向こうで低く呻き声を上げた。

「静かにしろ」

奴は低く口の中で外を呪うように囁くと、私を己の身体へと強く引き寄せ、大きな木桶の陰へと身を潜めた。鍛冶場の方向から、ずっしりとした重々しい足音が近づいてくる。

「野郎ども、どうやら俺の気のせいだったようだ!」

その刹那、一対の野良猫が互いに激しく威嚇し合い、激しい声を上げながら飛び出してきた。見知らぬ男は忌々しげに悪態をつくと、鈍い音を立ててその一匹を無残に蹴り飛ばした。猫は毛を逆立て、路地の土埃を四方八方へと撒き散らしながら、闇の向こうへと駆け去っていった。

「猫か! 忌々しい畜生めが!」

男はぶつぶつと罵りながら立ち去った。そこでようやく石川は口から手を退けたが、今度は私の耳を容赦なくひっ掴み、脅しつけるように横へと引っ張った。

「痛っ……痛、痛……」

私は奴の手の動きに合わせて無様に身体を転がしながら、恥辱と激怒で顔を真っ赤に染めた。

「何をするのよ!」

声を荒らげようとした瞬間、再び奴の無骨な手のひらが私の口を容赦なく塞いだ。

「口を噤んでそこに縮こまっていろ」

奴は猫さながらの鋭い視線で路地を一瞥すると、音もなく屋根の上へと這い上がっていった。あの巨体でありながら、奴が踏み締める木板は微かな軋みすら立てなかった。

奴の影を追ううちに、私の胸の奥にじわじわと疑念が湧き上がってきた。あの男、またしても私を殺さなかったばかりか、今度は一体何を企んでいるのだ。状況は刻一刻と怪しさを増していた。事の真相を突き止め、この影にいくつか問い詰めてやりたい衝動に駆られ、私は奴の後を追って屋根へと登ることにした。されど、あの音もなき身軽な業を、私が真似られるはずもなかった。またしても、不細工な音を立ててしまう。

石川は呆れたように目を天に向けると、深く長い溜息を漏らした。

「なぜ、お前は他人の指図を一切聞かぬのだ……」

驚いたことに、この非情な男が、殺生への渇望ではない人間らしい感情を微かに覗かせた。石川は険しい表情を浮かべたまま、眼下の鶴田の者たちをじっと監視している。

「あなたの一族の者?」

私は声を潜めて囁き、鍛冶場の中へと消えていく鶴田の侍たちの後ろ姿を見つめた。堂内からは、凄まじい喧騒と怒号、そして鉄を打つカチカチとした鋭い金属音が響き渡っている。いくさの武器を鍛造しているのだ。されど、私の問いに対して石川は一切の反応を示さず、ただ彫像のように微動だにせず見下ろしていたが、やがて影そのものであるかのように、再び音もなく屋根から飛び降りて敷居の近くへと忍び寄った。

鮮事な手並みだ。けれど、私にだってそれくらいできるわ。

そう心の中で毒づきながら、私は屋根の手すりに手をかけ、下へと降りようとした。されど、木々の梢に引っ掛かった哀れな木の葉のように不格好にぶら下がった挙句、私は凄まじい大音響を立てて地面へと無残に転落した。再び数匹の野良猫が一斉に四方八方へと逃げ惑う。大失態だ。今にでも鍛冶場から侍たちが飛び出してきて、私を縛り上げ、間諜の罪で即座に処刑するに違いない。一体どうすればいい、どうすれば。

狼狽のあまりパニックになりながら、私は救いと答えを求めて、必死に石川の姿を視線で捜し求めた。件の忍びは、己の鼻梁を指先で強く揉みながら、口の中で何かをぶつぶつと呟いていたが、やがて自分の足元を指し示した。奴は、通りを挟んだちょうど向かい側の物陰に佇んでいた。

その不届き者と共に物陰へと滑り込んだ刹那、同じ鎧に身を包んだ、ずんぐりとした体つきの男が鍛冶場へ向かって血相を変えて駆け込んできた。頬を大きく膨らませ、今にも喜びのあまり破裂せんばかりの様相を呈している。

石川は即座に身体を硬直させ、事の次第を盗み聞きしようと全神経を耳へと集中させた。直後、鍛冶場の奥から騒がしい歓声が響き、続いて幾人もの足音が近づいてくる。偽の鶴田の兵どもは、まるで将棋の勝負にでも勝ったか、あるいは神仏の奇跡を授かったかのような満面の笑みを浮かべ、せわしなく足を動かして納屋から這い出てきた。されど、次郎だけはその歓喜の輪に加わることもなく、最期尾を死人のように力なく歩いていた。

「遅れるな」

石川は低く命じるや否や、躊躇うことなく鍛冶場の中へと忍び込んだ。私であれば、そのような無謀な真似は断じてせぬ。まだ中に誰かが潜んでいるやもしれぬのだ。それでは自ら敵の火の中に飛び込むようなものではないか。

「待ちなされ、伏兵がいるやもしれませぬ!」

私は声を潜めて呼びかけたが、奴を追うべきか、角の向こうへと消え去っていく偽の兵どもを警戒すべきか、激しい迷いに足がすくんだ。されど、石川はこちらを顧みることなく、熱気の立ち込める堂内へと姿を消してしまう。私は悔しさに唇をきつく噛み締め、意を決してその息苦しい闇へと飛び込んだ。

一瞬にして凄まじい熱風が顔を打ち、額には大粒の汗がにじみ出て、呼吸をすることすら困難になった。これこそが、いくさの武器を鍛造し、炉の火が赤々と燃え盛る職人たちの仕事場の洗礼なのだ。

石川は堂内を鋭い視線であちこちと見回し、炉の裏や、木炭を積んだ荷車、鞴、そして金床の隙間に至るまで、悉く調べ上げ始めた。その動きは極めて俊敏であり、片時も一処に留まろうとはしない。まるで、最初から探すべき獲物の正体を知り尽くしているかのようだった。

されど、私には何が何だか、まるで見当もつかなかった。目にするものすべてが未知の道具であり、どれが重要な証拠であるのかなど、読み解く術もなかった。

「一体、何を捜しているの?」

私は奴の動きを真似ながら、傍らにあった荷車を漁り始めた。

「お前が何を捜しているかは知らん。俺が捜しているのは、動かぬ証拠だ」

「証拠って、何の……」

その刹那、石川が手近な荷車の覆いを乱暴に引き剥がした。木炭の黒い山の下から、ギラリと冷たい光が覗く。

「これは……武器?」

おびただしい数の獲物が、炭の粉にまみれて隠されていたのだ。好奇心に突き動かされ、私は素手で木炭を激しく撥ね退け始め、石川もまた無言でそれを手伝った。指先は瞬く間に黒く汚れ、炭の粉が爪の間に深く刺さり、吸い込んだ煙のせいで鼻の奥がちくちくと痛む。

「……これ、鶴田一族の……」

長刀の柄に刻まれた、あの平野の民の家紋が目に飛び込んできた瞬間、私は思わず声を失って声を震わせた。全身に粟立つような恐ろしい戦慄が走り、無意識のうちに石川から二、三歩退がっていた。侍の掟において、他家への武器の密輸は最も重い禁忌だ。もしや、あの「偽の鶴田の兵」どもは、偽物などではなかったのではないか。本物の鶴田の一族が、このいくさを意図して引き起こそうと暗躍していたのではないか!

ならば、満が我が森に現れたのも、弟を救うという殊勝な大義名分などではなく、すべては仕組まれた罠だったのか。そして、この目の前にいる石川は一体、誰の指示で動いているのだ。すべてが、音を立てて崩れ去っていく。

もし、石川が私の存在を「すべてを知りすぎた目撃者」とみなしたならば、今この場で私の喉笛を掻き切る気ではないか。いや、誰に命を狙われようとも、もう構うものか。もし鶴田の奴らがこれほど汚い裏工作を働いているのなら、私は何としてでも父上の元へ帰り、この事実を告げねばならない。すべてを暴き立てるのだ。長老の豊光様は確かに不届きな悪党であったが、私を敵に売り渡すことはせず、鶴田の罪を鳴らしていた。あの方は、最初からこの陰謀に気づいていたのではないか。そして、あの次郎がここにいるのも偶然などではなく、はじめから敵に魂を売っていた裏切り者だったのではないか!

頭が割れるように痛み出し、私はその忍びから片時も目を離さぬまま、一歩、また一歩と後退りした。されど奴は、何食わぬ顔で並べられた獲物を眺め続けている。

「小娘」

石川が不意に口を開いた瞬間、私は激しく身体を強張らせた。

「この者たちの狙いは、明らかに鶴田を陥れることだ」

「この者たちって誰のことよ? あなたの身内でしょう? 滅茶苦茶なことを言わないで!」

口走った直後、私は慌てて両手で口を塞いだ。目の前の敵は私より遥かに強い。これ以上、奴を刺激するのは危険だった。石川は驚いたように片眉を跳ね上げると、荷車から一振りの刀を抜き払い、その刃を指先でそっとなぞった。私には、我が身を守る武器すらない。魂とも言える鎖鎌はとうに失われ、堂内にある無数の刀は、すべてあの老いぼれ悪党の手の内にあるのだ。私は必死に辺りを見回し、手近にあった一本の火かき棒をひったくるように掴んだ。

「近づかないで! 私を殺す気なら、せめてすべてを白状しなさい!」

堪りかねて、私の声は再び悲鳴のような叫びとなった。

「わざと私をあの色街へ連れ込んだのね? 父上を脅迫するために! それに、この武器は何よ? 鶴田はとうの昔から戦支度を始めていた。すべては仕組まれた茶番だったのよ! あなたたち隠密には、名誉も忠義の掟も欠片ほども存在せぬことは知っていたわ!」

石川はくすっと不敵に笑うと、首を横に振りながら、こちらへと歩み寄ってきた。その一歩一歩は、まるで雀を狙う飢えた猫のように、恐ろしく静かで緩やかだった。奴の手の中で、むき出しの刃が妖しく光を放っている。

「鶴田は戦など目論んではおらん」

奴は私の前でぴたりと足を止めると、手にした刀を近くの作業台へと叩きつけた。激しい音と共に、鋼の刃が四方八方へと砕け散る。そのような脅しに屈する私ではない。私はさらに奥へと後退った。

「鶴田の鍛冶師が、これほど脆い粗悪な鉄を打つはずがなかろう」

「鉄滓のような粗悪な鋼を見せつけられただけで、私があなたの言葉を信じるとでも思っているの!?」

「まさか」

石川は煤と油煙にまみれた台を指先でなぞった。その刹那、私の背中に、生温かい何かが不意に触れた。同時に、首筋へと血も凍るような冷たい刃がピタリと押し当てられる。身体が完全に金縛りになった。

「まったく、騒がしくて不器用な小娘だ」

背後から響いたのは、私がずっと追跡していた、あの地を走るような嗄れ声の男だった。

「お前が何かを探り回っていることは、とうに気づいていたぞ。あの高札場の前からな」

男は下卑た笑い声を上げ、私の首筋の皮膚を刃の先でなぞるように薄く切り裂いた。

石川の身体がにわかに緊張し、奴は刀を積んだ荷車の方へと静かに身を引いた。……やはり、二人は裏で手を結んでいたのだ。忍びどもめ、いかにも奴らがやりそうなことだ。奴らはいつでも、卑劣に人の背後から襲いかかってくる。

手にした火かき棒など、今の私には何の役にも立たない。私のしてきたことすべてが、あまりにも無力で虚しかった。同じ状況が、何度も、何度も繰り返される。この世には、私を殺そうと企まない人間など一人も残されていないのではないか。大げさな思考かもしれないけれど、今の私は恐怖で身動きが取れなくなることはなかった。あの竹林の時のように、ただ突っ立って神仏の奇跡を待つような真似は断じてせぬ。助けなど、どこからも来はしないのだ。ならば、この場で大騒ぎを演じるまで。近くの長屋から誰かが駆けつければ、その混乱に乗じて逃げ出す隙が生まれるやもしれぬ。

「おっと、いけないねえ」

背後の鶴田の兵が、石川に向かって短刀の切っ先を突き付けた。

「その刀から手を離せ。それはお前たちの獲物ではない」

心臓が、裏切りのようにドクンと跳ね上がった。

『お前たちの獲物ではない』……彼らのものではない? ならば、一体誰のものだというのだ。まさか、この大馬鹿者は、目の前にいる石川が自分と同じく鶴田の一族に仕える隠密であることすら、知らずにいるのだろうか。

「奇妙な隠密どもがいたものだ。遊郭のあたりからずっと張り付いていた禿姿の小娘に、数も数えられぬような忍びだと?」

男はへらへらとあざ笑いながら、私の頭をぽんぽんと叩いた。その乱暴な手つきと侮蔑に、私は思わず身体をすくませた。奴の手は岩のように重く、その声には容赦のない慢心が満ちている。

「娘を放せ」

石川は両手を身体の脇へと下ろしたまま、冷徹に命じた。私は顎をきつく引き、首筋の刃がどれほど近いかを探ろうと、素早く辺りに視線を走らせた。刃は、すぐ目と鼻の先にある。この間合いでは、奴の不意を突いて一撃をかわすほどの速さは私にない。もし火かき棒などではなく、せめて一振りの鎌でもあれば、その鋭利な刃で抗えたものを。

「嫌だね、お断りだ」

男はさらに私を愚弄するように、短刀の腹で私の額をぺちぺちと叩いた。

「俺の掟に、子供を手にかけぬなどという生ぬるい言葉はない。特に、知りすぎたガキはな」

再び額を叩かれたその刹那、私は無我夢中で奴の拳にがぶりと歯を突き立てた。

「おのれ、この狂犬が!」

男は悲鳴を上げて激昂し、私の後頭部を拳で何度も容赦なく殴りつけてきた。

「この野良犬めが!」

怒りと込み上げる涙のせいで喉を鳴らしながら、私の口の中に生暖かい血の味が広がった。男の手から短刀が落ち、足元に当たって鍛冶場の奥深くへと転がっていく。

その瞬間、男の怒号に交じって、私もまた狂ったような叫び声を上げた。それは、真に絶望に満ちた、死に物狂いの咆哮だった。男はなおも私を押さえつけようとし、視界の端では石川がこちらへと躍り出てくるのが見えた。討つべきか、あるいは生かすべきか。狂乱の渦の中で、すべての思考が白く塗りつぶされていく。

私は火かき棒を振り回し、手足をバタつかせて、何度もあやつに噛みつこうと牙を剥いた。

敵もさるもの、奴の拳が私の胸を捉え、次いで足を激しく払われ、私は危うく床へと崩れ落ちそうになった。この男の力は、私などより遥かに強かった。

されど次の瞬間、私が叫びながら奴の胸へと躍りかかろうとした刹那、男の巨体が意識を失ったように、どさりと私の足元へと崩れ落ちた。あまりの唐突さに呆然と立ち尽くしながら、私はゆっくりと顔を上げた。石川はいつものように、仮面のごとき無表情のままそこに佇んでいた。奴は一言も発せぬまま、その場にしゃがみ込むと、倒れた男の身体を改め始めた。

「おい!」

私は火かき棒を真っ直ぐに突き付け、奴を鋭く牽制した。

「その男から手を離しなさい!」

「すぐにそうする……」

石川は気絶した男の懐を叩きながら答えた。

「……何か役立つものを見つけてからな。――あったぞ」

件の忍びは、男の具足の隙間から、赤い紐で固く縛られ、印章の押された一通の書状を引き抜いた。

私は驚愕に目を丸くした。目の前の脅威も忘れ、私は忍びの手からその書状をひったくろうとしたが、奴の手首は鋼のように固く、びくともしなかった。

「見覚えがあるか?」

石川は書状を私の手の届かぬところへと引き戻し、その赤い紐を顎で指し示した。

「……こんなもの、何の証拠にもならないわ」

私は声をひそめて毒づいた。確かに、そこに押された印章は我が熊沢の意匠ではなかった。されど、その紐は……我が一族が長年にわたり、重要な書状を縛るために用いてきた、あの独特な織りの紐に間違いなかった。

「このような裂地、我が一族の専売特許ではあるまい」

「なるほどな」

石川は慎重に書状を広げ、それを私の目の前へと差し出した。

「ならば、これを見ても同じことが言えるか?」

今度は、私にその紙を奪い取ることを許した。その文字、独特な筆跡のうねり。脳裏に激しい衝撃が走り、私は激しく頭を振った。間違いない。たとえ数百通の書状の中に混ぜられようとも、私はこの筆跡を瞬時に見つけ出せる。何度も、何度も文字の羅列を視線でなぞるうち、顔から一気に血の気が引いていくのが分かった。頭が割れるように痛み出す。それは男に殴られた衝撃のせいか、あるいはこのあまりの驚愕のせいか、それとも堂内に立ち込める炭の匂いのせいか、判然としなかった。

書かれた内容を、声に出して読み上げる勇気など、今の私には到底なかった。

『鶴田の具足を着用し、鍛造せし武器の一群を携え、密かに三河の冷泉へと進出せよ。三日目の黄昏時、かの地にて鶴田の隠密による襲撃を偽装すべし。我が一族の頭領(大殿)がその眼で敵の侵略を認めれば、直ちに信濃への総攻撃が開始されん。なお、町におる目撃者は悉く処分せよ』

これですべての全貌が覆った。何者かが意図して鶴田に濡れ衣を着せようとしている。そして、その陰謀の主こそ、他ならぬ長老の豊光様だったのだ。すべては、仕組まれた罠。されど、一体何のためにこのような大事を企てたというのか。

私は書状を素早く巻き直すと、小袖の懐深くへとねじ込んだ。このような決定的な証拠、決して失うわけにはいかないし、他人に委ねるなど言語道断だった。……他人、か。私は眉をひそめ、冷たい視線を目の前の忍びへと向けた。

「あなた……」

私は石川を真っ直ぐに睨みつけた。

「……最初から、このことを知っていたのね?」

隠密は床へと視線を落とし、なおも何かを探るように手元を動かしていた。やがて、水桶の底から一振りの短刀を拾い上げると、奴はそのまま偽の鶴田の兵の上にどっかりと腰掛けた。

「私はここ数日、奴らを尾行していたのだ」

奴のあまりの平然とした物言いに、私は激しい憤りを覚えた。両家が今まさにいくさの深淵へ転がり落ちようとしているというのに、この男は気絶した兵の身体をまるで畳の上の座布団(上座)にでもするかのように扱い、どっかりと腰掛けているのだから。

「数日だと? 数日も何をしていたのよ!」

私は手にした火かき棒を激しく振り回しながら、込み上げる感情のままに怒鳴りつけた。

「あなたの一族の跡取りは、今すぐ処刑されるかもしれないのよ! 父上は間違いなくいくさを仕掛ける! どれほど多くの者が命を落とすか、分かっているの!」

「そう大声を張り上げて、あたりを騒がせるな。……少し向こうを向いていろ。始末をつける」

石川は手にした短刀を指先で弄び、軽妙に宙へ放り投げると、その柄を滑らかに掴み取った。

「始末って、何を……」

私は二、三歩退がりながら片眉を跳ね上げた。石川は偽の兵の髪を強引に掴み上げて頭を持ち上げると、その喉元に容赦なく刃を押し当てた。私は堪らず強く目を瞑った。

「これだ」

どろりと鮮血が床へ溢れ、男が最期の濁った喘ぎ声を漏らす音が響く。衣服の擦れる音、具足のガシャガシャという鈍い響き。私はどうしても目を開けることができなかった。恐ろしかったのだ。背を向けたその瞬間、凄まじい吐き気が一気に込み上げてきた。堂内の息苦しい熱気、鼻を突く炭の匂い、そして生々しい血の臭気が、今起きている事態のあまりの大きさと共に、容赦なく私を押し潰そうとしていた。

私は口元を衣服の袖で強く拭い、恐る恐る振り返った。床に引かれた血の筋が、木炭を積んだ荷車の裏へと伸びている。奴は死体を隠していたのだ。この男は、これほど容易く人をあやめることができるのか。私とて武芸の鍛錬は積んできた。されど、人殺しは……自らの意志で命を奪うなど、私にとっては到底及びもつかぬ未知の領域だった。

「……殺したのね」

あまりにも明白な事実をわざわざ口にしながら、私はたまらず外の通りへと這い出た。身体が激しくよろめき、視界のすべてが歪んでいく。天を舞う鳥たちが不気味に近くをかすめ、立ち並ぶ長屋が異常に高く見えたかと思えば、急に低く縮み、目の前にあるはずの景色が遥か彼方へと遠ざかっていく。

「熱にでも浮かされたか?」

またしても、あの石川だ。奴は何事もなかったかのように鍛冶場から出てくると、炭の粉で汚れた古い雑巾で手を手際よく拭い、それを脇へと投げ捨てた。そして、再び堂内へと姿を消した。

意識がだんだんと深い霧の中へと沈み、足元の地覚すら失われかけたその時、私はついに堪えきれず、激しく胃の中のものを吐き出した。鍛冶場の鉄の匂いが、再び容赦なく鼻腔を突く。直後、頭の上から冷たい水が容赦なく浴びせかけられた。石川が、堂内にあった水桶から手桶で水を汲み、私の頭から足元まで一気にぶちまけたのだ。その冷たさに、私は辛うじて正気を取り戻した。

「遊郭へ戻るぞ」

石川は手桶を地面へ放り出すと、足早に歩み始めた。

「なぜ、またあのような場所へ戻るの?」

私の頭は、未だにまともな思考を拒んでいた。いや、考えてはいるのだが、この石川の思惑とは、そして自分の望む道とは、あまりにもかけ離れていたのだ。一刻も早く三河へ向かい、父上が信濃――あの鶴田の領地へ攻め入るのを止めねばならぬというのに。

「お倫の身に、危険が迫っているやもしれぬ」

「……奴の言う通りやもしれぬ。偽の鶴田の兵どもは、あの遊女たちを口封じに処刑する気ではないか。されど、なぜ奴らが知っているのだ? 一体どこから漏れたというの?」

「やもしれぬ、ですって?」

私は額を押さえながら、その忍びの後をふらふらと追った。すると石川は私の肘を強引にひっ掴み、引きずるようにして歩みを進め始めた。

「あそこには番卒がいるわ。遅くなる前に、私は父上の元へ行かねばならないのよ!」

「間に合う」

驚いたことに、石川の横顔はいつになく張り詰めていた。これほどの窮地は、あの冷徹な影にさえ重くのしかかっているのだろうか。

私は未だにこの男を信じ切れてはいなかった。あまりに底が知れず、身内すら平気であやめるような不届き者だ。だから私は、この詐欺師めが懐の書状を盗み出していないか、そっと確かめた。今すぐその手を振り払い、一人で父上の元へ駆け戻りたい衝動に駆られる。書状さえ手元にあれば、ただそれを届けるだけで、父上はすべてを察してくださるはずだ。あの方ならば、私などより遥かに多くの真実を読み解くことができるのだから。

「色街なら何も問題はないはずよ。なぜ奴らが、あの者たちに手を出す必要があるの?」

隠密は突如として私の身体を激しく引き寄せ、我が身の前に立ちはだからせると、私の袖をぐいと引っ張った。……お倫の茶屋の、あの禿の衣服。そうだ、私はすっかり忘れていた。私の胸の内に、さらなる焦燥と恐怖が広がっていく。あの場所には激しい嫌悪感を抱いていた。されど、そこには人がいるのだ。私の浅はかな不手際のせいで、何の罪もない人々が、今まさに恐ろしい危険に晒されているのではないか。

私たちは市場の雑踏を押し分けるようにして進んだ。朝方よりも、さらに人が増えている。せわしない怒号や下卑た笑い声が耳の奥を激しく突き、漂ってくる焼き餅の匂いも、今の私には酷く吐き気を催させるだけだった。

遊郭の大きな大門へと近づいた時、最初は何も妙なところなどないように思われた。男や女たちが、相も変わらず忙しなく行き交っている。されど、目を凝らして私は息を呑んだ。――番卒の姿が、一人もない。人々の顔からは生気が消え失せ、私の衣服を見つめるその視線とひそひそ話には、明らかな警戒の色が満ちていた。

「遅かったか」

肘を掴む奴の手の力がいっそう強くなった。言うまでもなく、この男は動かぬ証拠である私と、あの書状を失いたくないのだ。私は不吉な予感に身震いしながら、必死にあの偽の兵どもの姿を視線で捜し求めた。今や石川も私も、私の不細工な変装のことなど、完全に頭から吹き飛んでいた。

まもなく、おなごの激しい泣き声が耳を突いた。私たちはようやく、お倫の茶屋の前へと辿り着いた。野次馬たちが門前をびっしりと取り囲み、口々に噂話を囁き合っている。主であるお倫の姿は無残に乱れ、髪型はすっかり崩れ、その唇は激しく割れて血が滲んでいた。彼女の背後には、小さな禿たちが一塊に身を寄せ合い、身体を小刻みに震わせながら声を上げて咽び泣いている。

そして――その女の足元には、一躯の死骸が横たわっていた。

それは鶴田の具足をまとった男の遺体であり、その背中には、私が満の屋敷から盗み出した、あの忌々しい鎖鎌が深く突き刺さっていた。

石川はその凄惨な光景を一瞥すると、お倫の視線と真っ向から交錯した。女は慌てて目を逸らし、隠密はすぐさま私を連れて、向かい側にある建物の物陰へと身を潜めた。野次馬どもは目の前の大騒動に完全に心を奪われており、この慌ただしさの中で、私たちの動きに気づく者は誰一人としておらなかった。

心臓が、まるで閉ざされた門を打ち破らんとするほどに激しく肋骨を叩いていた。石川は隙間風の入る戸口に身を寄せ、外の様子をうかがうためにわずかに扉を開けた。私もその脇に潜り込んだが、外の様子はよく見えなんだ。番卒どもがあたりを慌ただしく駆け回っており、そのうちの一人が首をすくめながら遊郭の茶屋から飛び出してくるのが見えた。

「おのれ……」

忍びは静かに戸を閉めた。

「これでは、いくさ場の陣幕をひっくり返したような騒ぎだな」

「何があったのです? 何か見えますか?」

私は身を縮め、少しでも気配を消そうと床の間に膝を突いた。

「あそこに、あの偽の鶴田の兵がいたはずよ……」

「偽の兵か」

奴は片眉を跳ね上げ、不敵に鼻で笑った。

「ああ、そうだ。お倫があやつを仕留めた」

私は喉を鳴らし、一瞬だけ息が止まった。されどそれは、自らの命が狙われているという恐怖のせいではなかった。他ならぬあのお倫が人をあやめたという事実に、激しい衝撃を受けたのだ。彼女は、我が身を挺してあの幼い禿たちを、己の城を守ったというのか。

「一体、どうすればいいの? ただここで突っ立って待っているわけにはいかないわ」

「分かっている」

石川は建物の奥へと足早に向かった。歩を進めるたびに床板がギィと鳴り、襖が次々と引き開けられていく。やがて静寂が戻ると、奴は一振りの羽織と袴を手に抱えて戻ってきた。その衣服が何を意味しているのかなど、問い詰めるまでもなかった。私は無言でそれらをひったくるように受け取ると、小さな部屋の隅へと身を隠した。

そこは、お倫の店に比べれば大層小綺麗な、されど慎ましい佇まいの茶屋の一室だった。室内には甘い香香の匂いではなく、瑞々しい茶の香りが漂っており、墨絵の描かれた豪奢な障子もない。卓の上に未だ温かい茶や菓子が残されているのを見るに、客も遊女たちも、ほんの数分前に外の大騒動を野次馬しに飛び出していったのだろう。私は激しい眩暈と吐き気に襲われながらも、貪るように卓の上の食べ物を口へと放り込んだ。指先を餡の小豆で黒く汚し、誰が口をつけたかも分からぬ茶碗から残った茶を一気に飲み干す。生き延びるためには、なりふり構っていられなかった。

まもなく、外から無数の足音が響いてきた。野次馬どもが散り始め、番卒たちが通りを検分し始めたのだ。私は大慌てで袴の紐をきつく締め上げると、懐のあの忌々しい書状に目を落とした。脳裏に再び、様々な陰謀や、長老の豊光様の冷酷な顔が駆け巡る。私は激しく頭を振り、その不吉な雑念を振り払うと、書状を小袖の奥深くへと仕舞い込み、石川の元へと這い戻った。

私たちは建物の薄暗い隅に身を潜め、戻ってきた客たちの目をやり過ごした。男たちは目の前の騒動に完全に心を奪われており、私たちの存在など露ほども気づいていなかった。

「おい、聞いたか! 鶴田の奴ら、そこまで増長していたとはな!」

「哀れなお倫様、あの幼い娘たちを守るために、自ら手を下さねばならぬとは!」

「ああ、なんたる不運だ。店の壊されようも見ろ! 大層な大損害だな!」

人々の噂話に紛れ、私たちは音もなくその場を泥棒のように滑り出た。通りでは、偽の鶴田の兵の死骸に白布が被せられていた。番卒の若者が、涙を拭うお倫の前に平伏し、必死に言葉をかけている。彼女の顔には悲しみなど欠片もなく、あるのは激しい怒りと、忌々しげな苛立ちだけだった。私はその横顔を見つめ、胸の奥に言い知れぬ痛みを覚えていた。

「……本当に、あの不届き者どもが何を企んでいたのか、私にはさっぱり分かりませぬ」

女は深く首を振り、言葉を続けた。

「私の可愛い娘たちが、どれほど恐ろしい目に遭ったか!」

「お倫様、どうぞご安心くだされ! 壊されたものは、我らが必ずや元の通りに直してみせます!」

一人の番卒が、麻の白布を恭しく差し出し、女はそれでそっと目元を拭った。

「……早くその死骸を片付けておくれ。娘たちが怯えて夜も眠れぬわ。店の大事な稼ぎ時に、なんてことをしてくれたの!」

「ははっ、直ちに!」

もう一人の若者が、我が一族の、あの血塗られた鎖鎌を両手で持ち上げ、お倫の前で深く頭を下げた。彼らはまるで飼い慣らされた犬のように、その бес恐れを知らぬ高慢な女の前に跪き、何でも命じる通りに動こうとしていた。どのような身分であろうとも、これほどの知略と威厳を持つおなごには、敵ながら敬意を抱かざるを得ない。番卒どもはお倫に未練がましい視線を送ると、死骸の手足を引きずり、慌ただしく立ち去っていった。死体に被せられた筵が、風に煽られて帆のようにひらひらと揺らめいている。私はその不気味な行列から目を逸らすように、己の履いた袴の裾をじっと見つめていた。

石川は私の腕を再び引き、今度はお倫の元へと足早に向かった。彼女はすでに偽りの涙を拭い去り、手際よく獲物を巻き直していた。

「一体全体、どういうことなのさ?」

お倫は舌を鳴らし、私に向かって酷く粗野な言葉をぶつけてきた。それから辺りを見回して目撃者がいないか確かめると、足音を荒く響かせながら茶屋の奥へと入っていった。

堂内はまさに混沌の極みだった。押入れは裏返され、習字の道具を入れる箱はひっくり返り、障子や窓の和紙までもが無残に切り裂かれている。まるで、茶屋の中に凄まじい嵐でも吹き荒れたかのようだった。床板の上には、赤黒い足跡――鮮血が点々と残されている。その脇を下女たちが慌ただしく駆け回り、散らばった道具を片付けながら、必死に大損害の勘定を立てようとしていた。

お倫は私たちを己の寝所へと案内した。そこはどこよりも酷く荒らされており、白粉の入った陶器の小壺は悉く粉々に砕け散り、掛け軸は引き裂かれ、敷布団は無残にひっくり返されていた。

「あの馬鹿ども、お前を捜し回っていたんだよ、この大馬鹿者が!」

彼女は声を張り上げそうになったが、床に転がっていたキセルを拾い上げると、すぐにそこへ火をつけた。煙管は長く、金属でできており、その小さな雁首にはほんの一抓みの煙草の葉が収まっている。紫煙がたちまち主の寝所へと満ちていった。私は申し訳なさそうに頭を垂れ、返す言葉も見出せなかった。

「まったく、なんてことさ……」

お倫は深く煙を吸い込むと、石川の身体に寄りかかった。隠密は嫌がる風でもなく、その細い腰をそっと手で支えた。

「奴らに、何を話した?」

「話すも何も、あの鶴田の奴ら、私の目の前にこれを突き付けてきたんだよ」

煙管の細い吸い口で、彼女は一客の化粧箱(紅皿)を指し示した。他の道具の中に混ざれば大して目立つものでもなかったが、よく見れば、それは道端の泥と剥げ落ちた白粉にまみれていた。……父上への文を隠した、あの化粧の小壺だ。奴らがこれほど血眼になっていた理由が、ようやく合点がいった。もしあの小壺を見付けたのだとしたら、中の文も読まれたに違いない。そこには、この私の名がはっきりと記されているのだから。

「お倫様……」

私は生唾を呑み込み、さらに深くうつむいた。

「すべては、私の不手際です」

「全くだよ、お嬢さん。このような命懸けの化かし合いは、お前のような生ぬるいおなごの手に負えるものじゃない」

お倫は煙を吐き出し、それを手でゆるやかに払った。

「お前はもう逃げ出したと、そう言ってやったさ」

「お倫」

石川は驚くほどの優しさで彼女の肩に手を置いたが、女は誇らしげにそれを撥ね退けた。

「私がただの友人ではなく、真に金の価値がある女だということは知っているだろう?」

主はくすっと笑い、目を天に向けた。

「あの不届き者の首を一つ、撥ねてやる羽目になった。お前に少しばかり武芸を習うておいて、本当に命拾いをしたよ。次にまた、このような厄介な小娘を連れ込む気なら、せめてもう少し敵の少ないおなごにしておくれ」

「分かっている、分かっているさ」

忍びは女の額に微かな口づけを落とすと、その手から素早く鎖鎌をひったくった。

「まあ、なんて不躾な男だよ」

お倫はふんと鼻を鳴らしたが、それでも口元には微かな笑みが浮かんでいた。

彼女に別れを告げ、私たちはようやく前方へと歩み始めた。石川は私に、先ほどと同じように武器を衣服の陰へと隠すよう命じた。その刹那、私の身体を心地よい安堵感が満たしていった。使い慣れた我が魂が、ようやくこの手へと戻ってきたのだ。これで、いかなる敵が襲いかかろうとも自らの身を守ることができる。

「手立てを練らねばならぬ」

私は石川の後ろを必死に追いかけた。奴の歩みは恐ろしく速く、どこへ向かっているのか、まるで見当がつかなかった。私たちは慎ましい佇まいの長屋を通り抜け、小さな梅の庭を横切った。

「その顔に泥を擦り付けろ。男の小僧に見えるようにな」

実を言えば、この男の指図には何度も言い返してやりたい衝動に駆られたが、そのたびに私はぐっと言葉を飲み込んだ。素直に泥の中へ手を突っ込むと、それを自分の頬へと容赦なく叩きつける。白粉を塗りたくった時と全く同じ手順であったが、今度は手元にあるのは、どこか饐えた土臭さと野獣の脂のような匂いの混ざり合った泥だった。されど、私は普段から森を駆け回る身だ。今更、泥にまみれることなど何一つ恐ろしくはなかった。

「この辺りに、三河からの荷車が来ているはずだ」

石川は広場を見回しながら呟いた。そこは馬喰や商人どもがせわしなく行き交う雑踏だった。我が熊沢の森は、毛皮や山の果実、そして何より大層な木材や、世にも稀なる「餅鉄」の鉱石といった豊かな資源を誇っている。されど、今日運び込まれた荷車を見るに、その貴重な鉱石の量は奇妙なほど少なかった。

「あそこに、餅鉄を積んできた荷車があるわ」

私は小さな荷車を指差した。腰の曲がった老人が、積んできたものを別の大きな車へと手際よく移し替えている。あの大きな車が、いずれこれらを各々の鍛冶場へと運び去るのだろう。商人は代金の一袋を受け取ると、空になった手桶を掴み、井戸の方へと水を汲みに歩き出した。その足取りは、歳の割りには酷く俊敏だった。

「あのまま帰路に就く気だな」

石川はそう確信すると、私の背中を強引に突き、荷車の方へと急き立てた。私は荒い筵の陰へと身を潜め、必死に息をひそめた。あの平野の民、鶴田の覆い布とは違い、我が熊沢の筵は酷く固く、ざらついていたが……その匂いは、遥かに心地よかった。車内は酷く狭く、息が詰まるようだったが、この懐かしい故郷の匂いは、他人の古着の悪臭も、隣にいる石川の気配をも、綺麗さっぱり掻き消してくれた。

「ほら、飲め。老いぼれ」

商人が、年老いた馬に向かって手桶の水を差し出した。馬は濁った鼻鳴らしを上げ、水の中へと無作法に頭を突っ込んだ。私はその様子を、一抹の羨望の眼差しで見つめざるを得なかった。今すぐあの冷たい山の渓流に足を浸し、瓢箪に並々と水を汲んで一気に飲み干せたら、どれほど救われるだろう。

獣が十分に水を飲み干すと、老人は周囲を顧みることもなく、その空の手桶を私たちの足元へと乱暴に放り込んできた。どうやら、この中立の街から手桶を一つ、そのまま掠め取って一族の領地へと持ち帰る気らしい。

私は羽織の奥で、あの決定的な書状をきつく握り締め、一瞬だけ強く目を瞑った。もうすぐ、父上にまみえることができる。己の犯したすべての罪を白状し、この書状をあの御手へと委ねるのだ。さすれば、すべてが元の正しい場所へと収まるに違いない。


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