五、楓
満が石川と呼んだあの忍び(シノビ)の、鋭く冷徹な声が耳に届いた瞬間、脈拍が耳の奥で激しく乱打し始めた。あやつは間違いなく私を見つけ出し、容赦なくその刃で血をすするに違いない。
無意識のうちに、俺は首筋に残るあの古い切り傷の跡に手を触れ, ごくりと生唾を呑み込んだ。
続いて、米を積んだ荷車や、交易都市のことが聞こえてきた。交易都市――そこは侍の掟も権力も及ばぬ、商人たちの惣が支配する地だ。あそこなら容易く身を隠すことができるし、熊沢の侍や忍びどもとて、そう簡単には私を探し出せまい。
満が阿呆でないことを、そして私自身も愚かでないことを、神仏に祈るばかりだ。
廊下が静まり返ったのを見計らい、俺は美味しい匂いの染みついた、丈の長い小袖に足を取られながらも、這うようにして押入れ(おしいрэ)から抜け出した。まずは、この着物をどうにかせねばならない。
あたりを見回し、一振りの刀を手にとった。太刀筋などまともに習うてはおらんし、ただ無闇に振り回すことしかできぬが、背に腹は代えられぬ。我が魂とも言える鎖鎌があれば話は別だが、恨めしいかな、そのような武器が道端に転がっているはずもない。
今あるもので凌ぐしかないのだ。
俺はその刀を抜き、長い袖や裾に思い切り切り込みを入れた。これくらい、満とて大目に見てくれるに違いない。それから力任せに布地を引き裂き、その場で二、三度跳ねてみて、足さばきを確かめた。
上出来だ。これで少なくとも、先ほどよりは俊敏に動ける。
刀を元の場所へと戻すと、俺は満の寝所から抜け出すべく動き始めた。昨夜這い込んできた道を、そのまま逆に戻るのだ。障子を開けて外へと這い出し、すぐさま茂みの中へと身を潜めた。昨日あの小僧が不意に現れて、荷車や厩への道を教えてくれたように、また誰かが出てきてくれぬものか。
あたりには下女たちがうろついていた。洗濯へと向かう者、立ち話で噂話に興じる者。人の目が途切れる一瞬の隙を突き、俺はある茂みから次の茂みへと必死に駆け抜けた。そうしてようやく下男たちの詰所へと辿り着いたが、近くにあると思い込んでいた厩は見当たらなかった。
時が尽きてしまったかのような焦燥が、胸の奥からせり上がってくる。私を救うはずのあの荷車は、もう行ってしまったのではないか。私は、永遠にこの場所に置き去りにされてしまうのだろうか。
ここは鶴田の屋敷ではない、奇怪な迷宮だ。そして俺は完全に行き詰まっていた。だが、一箇所に留まり続けるわけにはいかない。番卒が通り過ぎた隙を突き、俺は別の建物の物陰へと滑り込み、窓の下に身を屈めた。四つん這いになって壁伝いに進んでいると、幼い疾風が、足先で背伸びをしながら武器掛けの上の鎖鎌に手を伸ばしているのが目に入った。もしあやつが今、あの分銅を自分の方へ引っ張れば、鎌の刃が落ちてきてあの小僧を傷つけるのは火を見るより明らかだった。
なんと無鉄砲な悪ガキだ。どうせ届きはせまい。鎖も鎌もあやつの上には落ちず、あやつはそのまま次の悪戯をしにどこかへ駆け去るのだろう。――そう高を括っていたのだが、この若君は、あろうことかその手に鎖を引っ掛けてしまった。鶴田の数多の獲物が掛けられた頑丈な武器掛けが、ぐらりと大きく傾く。
前後の見境もなく、俺は前方に躍り出た。子供の身体を胸に抱きすくめ、必死の思いで脇へと飛び退いた刹那、あやつが先ほどまでいたまさにその場所へ、武器掛けが凄みのある音を立てて崩れ落ちた。
疾風は驚きと、ほんの少しの恐怖に目を丸くして、パチパチと瞬きを繰り返していた。こやつは、生かしておけぬ目撃者だ。そう気づいた俺は、慌ててあやつを地面に下ろし、敵意がないことを示すように両手を天に掲げた。
「お前、一体誰だ?」
小僧は両手を腰に当て、俺に向かって一歩踏み込んできた。小さくとも、一丁前に凄みのある顔をしている。
「さあ、答えろ!」
今度は小さな足で、床板をバンと踏み鳴らした。
真っ先に頭に浮かんだのは、平伏することだった。またしても屈辱だ。鶴田の子供の前に額を擦りつける羽目になるとは。
「ふん、新しい下女か?」
疾風はフンと鼻を鳴らした。
「なるほどな。だがな、次に俺を助ける時は、もう少し見栄えの佳い着物を召すことだ」
「ははっ、若君」
俺は恥ずかしさに身を焦がしながら、深く頭を下げた。
「だが、このことを誰にも口にするなよ」
悪ガキはふんぞり返り、俺の脇を通り過ぎていった。本当に気取った奴だ。
「それから、ここを片付けておけ!」
「ははっ、若君」
俺はまるで操り人形のように生返事を返しながら、己の額をパチンと叩いた。あの兄の背中を見て育つと、あのような唐変木になるらしい。
せめてもの救いは、あやつが俺の剃り落とした眉や切り揃えられた髪に気づかなかったことだ。さもなければ、下女などとは露ほども思わなかったに違いない。
ようやくあの小僧が走り去ると、俺は周囲を油断なく見回してから、隠しておいた鎖鎌を手繰り寄せ、その場から全力で駆け出した。またしても植え込みへと突っ込む羽目になったが、今度は紫陽花の茂みだった。
花の馨しい香りとて、容赦なく鼻を突く馬糞の臭気までは消し去ってくれぬ。凄まじい悪臭だ。俺は満の小袖の襟元を引き上げ、鼻を覆いながら深く息を吐き出したが、途端に頬がカッと熱くなるのを感じた。あのたわけの衣服は、紫陽花はおろか、俺の大好きな(杉)の香りと比べても、遥かに佳い匂いがする。
……俺は一体、この期に及んで何を考えているのだ。
厩の前に辿り着くと、下男たちが最後の米俵を荷車に積み終え、上から筵を被せて立ち去るところだった。身を隠すには、これ以上ない好機だ。
俺は筵をめくると、米の入った俵を一つ、また一つと引っ張り出し、物陰の角へと転がした。己の身体を滑り込ませる隙間を作りたかったのだ。それから荷車の中へと滑り込み、隅の暗がりに鎖鎌を隠して、上から筵をすっぽりと被った。
あたりには、米の香りと、埃を被った古い俵の匂い、そして饐えた端切れの悪臭が立ち込めていた。この旅は、気の遠くなるほど長く、過酷なものになるだろう。
やがて足音が近づき、何者かが黙って御者台へと飛び乗った。荷車がギィと軋んで低く沈み込み、手綱が鋭く引かれる。馬が低く鼻を鳴らし、蹄の音を響かせながら、ゆっくりと歩み始めた。
筵の僅かな隙間から、遠ざかっていく鶴田の屋敷の景色が覗いていた。胸の奥に、じわじわと暗い不安が広がっていく。満は長老たちの待つ評定の間へと向かったが、あやつに危険が及んでいるのではないか。
俺は頭を激しく振り、その不吉な雑念を振り払おうとした。俺は今、交易都市への道の半ばにいるのだ。これからは、追われし者、人殺しとしての新しい、孤独な日々が始まる。毎朝髪を整えてくれた老いた敦子もいなければ、習字や経済のことで口喧しい母上や叔母上もいない。父上のあの冷徹な眼差しも、あの見慣れた杉の森すら、もうそこにはないのだ。
なのに、なぜこれほどまでに胸が痛む。俺は望んでいた自由を手に入れたのではないか。掟に縛られることもなく、見知らぬ男に嫁がされることも、もうないというのに。
気づけば目頭が熱くなっていた。俺は鼻をすする音を立てぬよう呼吸をひそめ、指先ひとつ動かさずにじっと耐えた。
荷車は轍の窪みに合わせて激しく揺れ、馬は時折いななき、御者は黙って鞭を振るっていた。下男たちがよくやるように、馬を怒鳴りつけることも、独り言を呟くこともなく、ただ沈黙のままに馬を走らせていた。
外からは鳥のさえずりや蝉の鳴きしきる声、そして風のざわめきが聞こえていた。その響きが、だんだんと俺を深い微睡みへと誘っていく。重い瞼が閉じていき、気づけば俺は完全に眠りに落ちていた。米俵の上が、鶴田の敷布団と比べても何ら遜色のないほど心地よい寝床になるとは、一体誰が想像しただろうか。
不意に荷車が止まり、俺はハッと目を覚ました。ようやく交易都市に辿り着いたのだろう。だが、いくら耳を澄ませても、市場の喧騒も商人たちの笑い声も聞こえてこない。ただ、せせらぎの水音と、馬の荒い息遣いだけが響いていた。まさか御者が、川べりで一息入れるつもりなのだろうか。
「……さて、どうする」
外から声が響き、続いてガサリと何かが擦れる鈍い音が聞こえた。俺は全身を硬直させ、鎖鎌(くさりがма)の柄をきつく握り締めた。石川の、あの血も凍るような冷徹な声だ。途端に頭髪が逆立つような戦慄が走った。
「自ら出てくるか。それとも、この手でその首根っこを掴み上げ、引きずり出してやろうか、姫君」
疑う余地はなかった。あやつは、どうにかして俺の存在を察知していたのだ。なぜこれほど高貴な忍び(シノビ)が、自らこのような忌々しい荷車を御しているというのだ。やはり、死の運命からは逃れられぬということか。
ごくりと生唾を呑み込み、震える手で筵を僅かに持ち上げた。容赦ない陽光が差し込み, 俺は思わず目を細めた。しかし、眩む視界の向こうに、脇差を手にし、小さな砥石でその刃を研いでいる石川の姿を捉えた。俺の喉笛を瞬時に掻き切るべく、獲物を研ぎ澄ましているに違いない。
「……お命を奪うと、お決めになる前に」
両手を天へと掲げ、忍びから片時も目を離さぬよう睨みつけながら、俺は荷車から這い出した。
「お答えくだされ。我が若君の寝所で、一体何を企んでいた」
俺の身体が小さく震えた。満自身がすべてを白状したのか、それともこの忍びの洞察が恐ろしく鋭かっただけなのか。しかし、あやつの放つ凄まじい威圧感と獲物の前では、喉が干からびて言葉が立ち上がってこない。
地面に足を下ろすと、俺は一歩、また一歩と慎重に後退さった。石川の目が、獲物を狙う凶悪な肉食獣のように細められる。奴は今、一人だ。もし俺が俊敏に動ければ、一手二手は立ち向かえるかもしれぬ。だが、結局は敗れるだろう。奴の積み重ねてきた殺しの経験は、俺などの到底及ぶところではない。
「おなごの血で、我が刃を汚させぬおくれ」
切っ先をこちらに向け、男が冷酷に言い放った。その言葉に背中を押されるように、俺はようやく声を絞り出した。
「……満は、私への恩を返していただけよ」
「若君をここまで送り届けた時、家の者は皆、お前をそこらの孤児だと思い込んだ。無論、若君もな。……だがな、お前のその鎖鎌は、到底孤児の持つような代物ではなかったぞ」
「なぜ、そのようなことを俺に言う……」
俺は身構え、武器をいつでも繰り出せるよう手元で引き寄せた。
「事の次第が、あまりにも奇妙でな。熊沢の小娘が、いかにも殊勝な面を下げて鶴田を救う。その男が、今度は全身を返り血に染めて若君の寝所に現れるとは……」
「なぜそれを……」
「若君の寝所の、屏風の陰に残されていた返り血に染まった裳の裾よ」
俺の問いを遮り、男が淡々と言い放った。まさか俺と満は、あのような目立つ場所に証拠(おえ/うりか)を残したままにしておいたというのか。すべてが水の泡だ。満はきっと謀叛人と見なされ、すでに首を撥ねられているに違いない。すべては、俺のせいで。
あまりの絶望に膝の力が抜け、崩れ落ちそうになった。しかし石川は、そんな俺の動転など目にも留めぬ様子で先を続けた。
「そこで、いくつか疑問が浮かぶ」
男は指を一本立てた。
「一つ、なぜ熊沢の頭領の娘が家を逃れねばならなかったのか」
続いて二本目の指を立てる。
「二つ、あの血は誰のものか」
「それは……」
言い淀む俺の言葉を待たず、奴がまたしても先を紡いだ。
「一つ目の答えはこうだ。お前は熊沢の長老・豊光様を刺し、若君の『情け』に縋るべくここまで逃れてきた」
奴は呆れたように首を振り、薄汚い笑みを浮かべた。俺は、この忍びが事の真相をここまで見抜いていることに、激しい衝撃を受けていた。
「そうだ、俺があの長老を殺した!」
溢れ出す感情に任せ, 俺は手を振り回しながら叫んだ。
「死んではおらん。息は吹き返した。……そこでだ、俺はこう睨んでいる。お前はあの長老と裏で手を結んでいるのではないか、とな。若君の刀であやつを刺して鶴田に濡れ衣を island (着せ)、さらに自ら若君の元へ転がり込むことで、若君を完全に一族の裏切り者に仕立て上げる。見事な離間の計よ」
「違う!」
俺は叫び、一歩前へ踏み出した。
「満を陥れるつもりなどなかった! 豊光と通じてなどいない!」
「ならば妙だな」
奴はわざとらしく首をひねると、手にした脇差を地面に突き立てた。
「なぜ豊光様は、自分を刺したのは鶴田の満だと、声高に主張しておいでなのだ?」
俺は言葉を失った。今になってようやく、凄まじい衝撃が頭を殴りつけてきた。あの悪党め、生き延びていたのか。しかし、どう考えても石川の言い分には無理がある。
「もし俺がその謀略の仲間だと言うなら、なぜ俺がこんな交易都市へ逃れねばならぬのだ。なぜ、荷車にまで隠れて息をひそめている? 屋敷に留まり、鶴田に拐かされたとでも触れ回れば、熊沢はさらに大義名分を得られたはずではないか!」
深く考えずに口から出た言葉だったが、百戦錬磨の暗殺者の心に、それは確かに爪痕を残したようだった。俺自身、この状況が完全に破綻していることに気づいていた。なぜ豊光は、俺に刺されたと言わなんだのだ。なぜ満を指指した。俺にあやつ自身の面目を潰されたのだから、俺を殺すか、せめて追っ手を放って俺の口を封じるのが道理ではないか。
石川の無表情な顔からは、奴が何を思案しているのか、まるで見当がつかなかった。奴はただ、突き立てた脇差を引き抜くと、その刃を左右にゆっくりと揺らし始めた。
「お前の言う通りだ」
奴は刃を荷車に擦り付けながら、こちらに向かって一歩ずつ近づいてきた。腹の底が読めぬ。なぜ俺の言い分を認めながら、今にも俺を屠り(ほうり)かねないような、あの冷酷な目を向けてくるのだ。
理由を問う猶予などなかった。俺は奥歯を噛み締め、迎撃の構え(たたかいのかまえ)をとった。裸足が冷たい土を踏み締め、膝を僅かに沈める。
「本当の裏切り者でないとすれば……お前は、豊光様にとって生かしておけぬ脅威というわけだな」
俺は体をさらに強張らせた。石川の言う通りだ、なぜ今まで気づかなかったのだろう。豊光の奴、意図して嘘を吐いたのだ。だが、何のためにそのような大嘘を仕掛けたのか、今の俺にはまるで見当もつかない。ただ一つ確かなのは、あの夜、満は八幡様の社には絶対におらなかったということだけだ。
「荷車に飛び乗れ。このまま交易都市まで運んでやる」
奴は身軽に御者台へと跳ね上がると、手綱を厳烈に握り締めた。この男を真に信じてよいものか、心の内で引き裂かれるような迷いがあった。だが、今この瞬間まで俺をあやめなかったのなら、差し当たって命を脅かされる心配はあるまい。
「さっさとせぬか」
男は俺を急きょ急き立てるように、手綱で馬の背を鋭く叩いた。馬が不満げに鼻を鳴らし、再び歩みを進め始める。
俺は奥歯を噛み締め、米俵の山へと飛び込んだ。忌々しいが、今の俺にはこの荷車に縋るしか、生き延びる手立てはないのだ。




