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熊と鶴  作者: Atsuko Zara
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四、満

あの白粉おしろいを塗りたくり、剃り落とした眉の跡に二つの黒い点をちょんと描いた顔は、酷く俺を動転させた。まるで人の魂を覗き込む、化けひともしか幽霊のようではないか。この目の前の小娘は, 俺の知るあの「野蛮人(ディкарка)」とは到底思えなかった。

「私は楓よ!」

小娘は頑なにそう囁くと, 開いた穴から強引に手をねじ込んできた。彼女は手際よく内側の障子の引き手を掴んで引き開けると, ドサリと鈍い音を立てて部屋の中へと転がり込んできた。――ああ, これでようやく、あやつだと合点がいった。

「貴様、何を――」

怒鳴りつけてやろうとした瞬間, 俺の口は彼女の手のひらで容ชคなく塞がれた。カッと顔が熱くなるのを感じ、続いて泥の土臭さと生臭い血の匂いが鼻腔を突いた。胸の奥がキュッと縮み上がる。

「声を出すな……」

俺をさらに強く組み伏せながら, 楓は縋るような瞳で俺を見つめてきた。

あまりの衝撃に, 俺はただ黙って頷くことしかできなかった。一体全体, 何が起きているのか、一刻も早く聞き出さねばならない。

「本当に、騒がないな?」

再び頷き, 俺は彼女の温かくも泥臭い手のひらに向かって、籠もった声で生返事をした。

彼女の肩が酷く強張っているのが分かった。視線をさらに下方へと落としたその瞬間, 俺は彼女のの裾にべっとりと付着した鮮血を目にした。途端に背筋に冷たい戦慄が走り抜ける。声を上げる代わりに, 俺は勢いよく彼女を畳(タтами)の上へと押し倒した。空いた手で彼女の両腕を頭上へと押さえつけ、手にしたカタナの刃をその喉元へと突き立てる。

もしこの血が、我が一族の誰かのものだとしたら、神仏に誓って「義理」など綺麗さっぱり忘れ、この「姫君」の喉笛を掻き切ってやる。

足の激痛が容赦なく襲ってきたが, 湧き上がる怒りがすべての痛覚をねじ伏せていた。

楓は、あの竹林で忍び(シノビ)どもに囲まれた時と同じように、怯えきった瞳で俺を見上げていた。我が一族に仇なしておきながら、のうのうとここへ這い込んできたのだとしたら、あまりにも愚か極まりない。

「……誰の血だ?」

上から彼女を威圧するように、低く押し殺した声で問うた。俺の問いに、小娘の身体がビクリと跳ねる。森の中にいた時のように身をよじって抵抗することも、生意気に口答えをしてくることもなかった。ただその瞳を見つめていると、だんだんと縁が赤くなり、涙が溢れていくのが分かった。楓は俺から視線をそらすと, 咽び泣くのを堪えるように強く唇を噛み締めた。

「……我が一族の者を殺したのか?」

涙を流すあやつに少したじろぎながらも, 俺はさらに語気を強めて畳みかけた。すると楓は力なく首を横に振り, 鼻をすすった。

「違う……」

もう一度、ズズッと鼻を鳴らす。

「……身内の、人間よ」

俺は眉をひそめた。身内を殺した? 一体誰をだ? わけが分からぬ。てっきりただの百姓女 だと思い込んでいたのだ。およそ高貴な「姫君」には見えなんだあやつが, 人を、それも身内をあやめたというのか。

今一度その姿を凝視し, 血に染まり引き裂かれた衣服を注意深く観察する。……これは、裳着もぎの儀の際に腰にまとう「」の裾ではないか。そこには精緻な刺繍が施されている。――熊の紋様( вышивка медведей )だ。……まさか、熊沢の一族か?

「……熊沢なのか?」

確信の持てぬまま問うと, 俺は衣服からあやつの顔へと視線を戻した。白粉おしろいの塗られた頬を涙が伝い, 濡れた一筋の筋を作っている。楓は静かに深く頷いた。

「……何があった?」

あの「野蛮人」がここまで打ちひшがれている姿を見るのは, 奇妙なほど胸が苦しかった。俺はそっとあやつの両腕を解放した。あやつはすぐさま、その手で涙を拭い始めた。手の泥と、乾きかけた血、そして白粉が涙と混ざり合い、ぐちゃぐちゃに擦れていく。

「約束して……助けると、言って……」

あやつは取り乱し、息を詰まらせながら言葉を絞り出した。必死に両手で顔を擦るせいで, 頬がみるみるうちに赤くなっていく。

「助けるにしても、事の次第を知らねば何もできん」

俺はわざと突き放すようにぶっきらぼうに答えると, 溜息をひとつつき、傍らにあった湯桶ゆおけと布をあやつの前へと押しやった。俺が身体を拭うために下男に用意させた水が, そのまま残っていたのだ。

あやつの姿をまともに見つめているのは、酷く居心地が悪かった。あの強情な野蛮人が、このように押し殺した声で咽び泣くなど, まるで現実のこととは思えなんだ。

「私は……私は……」

あやつは言葉を詰まらせながら, ぽつりぽつりと語り始めた。俺は一言半句たりとも聞き漏らさぬよう, 全神経を集中させる。

「裳着の、儀式があって……。それから、八幡様の、社へ、お参りに……」

楓は湯桶を引き寄せると, 俺に背を向けた。このような無様な姿を, 敵である俺に晒したくはなかったのだろう。

「そこへ……あの男が、来たの……」

やがてあやつは、布をきつく絞ると、顔の白粉おしろいを乱暴に拭い始めた。あやつの言葉が重なるたびに、俺の胸はまるで禍々しい不吉な予感に怯えるかのように、きりきりと締めつけられていった。

「誰が来たのだ?」

堪りかねて、俺は少し身を乗り出した。楓はそれを察したように、湯桶ゆおけを抱え込んだまま、さらに奥へと後退すささった。桶の水がバシャバシャと激しく波打ち、床へ零れ落ちる。

「長老の……豊光とよみつ様よ……。あの方が……私に……」

楓は両手で顔を覆い、激しく首を振った。

「言えない……どうしても、口にできない……」

頭の中で、無数の疑問が渦を巻く。一体何が起きれば、一族の長老をあやめるような事態になるのだ。俺の貧弱な想像力では、まるで見当もつかなかった。問い詰めようとした刹那、あやつは残された力を振り絞るようにして、先を続けた。

「……あやつは、私を辱めようとしたのよ」

楓は羞恥に耐えかねるように視線を逸らした。途端に、俺の胸の奥から凄まじい怒りが沸き起こった。

「頼むから、これだけは誰にも知られないで!」

あやつは急に引きつったように呼吸を荒くし、目を丸く見開いた。危うく湯桶をひっくり返しそうになるほど、激しく取り乱している。

言いたいことは山ほどあった。おなごを……それも一族の姫を辱めるなど、言語道断。武士ものふの風上にも置けぬ、最も卑劣で、万死に値する大罪だ。サムライとしてはもちろん、一人の男としても、断じて許される所業ではない。もし俺が楓の立場であっても、迷わずその不届き者を叩き斬っていただろう。

「あやつは、森で脇差わきざしを拾っていたの……」

今度は怒りだけでなく, 凄まじい衝撃が俺の全身を貫いた。楓は濁った湯桶の水をじっと見つめたまま、言葉を紡ぐ。

「……私の身体を寄こせと言ったわ。もし、熊沢の頭領である父上(高津様)に……お前のことを、ばらされたくなければな、と……」

あまりの激怒に, 俺は拳を骨が白く浮き出るほどきつく握りしめた。脳内で血が沸騰する。そして次の瞬間、すべての全貌が脳裏を駆け巡り、目の前が真っ暗になった。

長老・豊光は、俺の脇差で刺されたのだ。ならば、窮地に立たされているのは楓一人ではない。我が鶴田一族もまた、底なしの深淵へ引きずり込まれたのだ。

熊沢の屋敷では、もう死体が見つかったか、遅くとも明朝には大騒ぎになる。そしてその骸の側には、鶴田一族 color の紋様(グラヴィровка)が刻まれた俺の刀が残されているのだ。

熊沢は血眼になって楓を追うだろう。武士の掟において最も重い罪――高貴な宿老の殺害、そして宿敵である敵対一族への内通という、最悪の謀叛人として、あやつの首を撥ねるために。

手から離れたカタナが、畳の上へ鈍い音を立てて転がった。怯えきった小娘から目を離さぬまま、俺は必死に頭を働かせ始めた。楓をこのまま俺の(へや)に匿い続けるなど、到底できるはずがない。

「……出ていくわ」

こちらの心中を察したのか、あやつがぽつりと言った。その顔には、底知れぬ絶望が滲んでいる。濡れ布を湯桶に落とすと、あやつはよろよろと立ち上がった。全身が小刻みに震えており、の紐は無惨に解け、剥き出しになった足首は傷だらけだった。

このまま放り出すわけにはいかない。あやつは俺の命の恩人だ。今度は俺が、この義理に報いる番ではないか。だが、状況は身動きが取れぬほど厄гиに拗れている。この傷ついた足のまま、我が父上からも、あやつの身内からも守り抜くなど至難の業だ。かと言って、どこか安全な場所へあやつを逃がそうとすれば、一族が存亡の危機に瀕している最中に、俺は家を捨てることになる。そんな不忠が許されるはずもない。ちくしょう、なんということだ……。

カチャリと窓の引き手が鳴り、楓が這い出ようと身体を乗り出した。

させるか。

痛む足を踏み締め、激痛を強引にねじ伏せて跳び起きると、俺はあやつの腕をひっ掴んだ。楓は、手首をきつく締め上げた俺の手を、呆然と見つめた。男女のぶんを超えた不躾な振る舞いだったと気づき、俺は慌てて手を離した。

「……すまぬ。だが、俺にできる限りの手立ては尽くす」

涙に濡れたあやつの顔が, 救われたように一瞬でぱっと輝いた。おそらくは感謝の念によるものだろう。だが、その微笑みを見た瞬間、俺の胸の奥で、あやつの狂乱を見ていた時とは全く異なる、妙な疼きが走った。それが、少しばかり恐ろしかった。

楓は現金なもので、俄然勢いづくと、石で破った障子の穴をどうにか隠そうと弄り始めた。その姿は、我が弟の疾風はやてにそっくりだった。あやつも何か企みがある時は、急に殊勝で愛想の佳い顔をする。

「……そこはもう構うな」

視線が交錯した刹那、俺は慌てて目を逸らした。「――そこに座れ」

敷布団ふとんを指差し、俺も腰を下ろそうとしたが、無理に動いたのが災いした。足の傷口が、再び地獄の劫火に焼かれるように激しく疼き始めた。すると、この不届き極まりない小娘は、恥じらう素振りすら見せず、いきなり俺の身体を抱き支えて畳の上に横たえさせたのだ。

なぜ、武家の嗜みや礼儀というものを、俺一人だけが気に揉まねばならぬのだ。やはり、こやつには「姫君」の品格など欠片も持ち合わせていない。

「少しの間だけ、ここに置いてくれる? 約束するわ、隅っこで小さくなっているから」

楓は、我が一族の家訓が掲げられた床のとこのまの脇を指差した。俺は思わず片眉を跳ね上げた。

「私、あそこで寝るから」

「なんと野蛮な小娘だ……」

呆れ果теてこめかみを揉み、深く溜息をつくと、俺はあやつの下から強引に敷布団ふとんの夜着を引っ張り出した。楓は少し身を浮かせると手際よくそれを手伝い、また畳の上へちょこんと腰掛けた。

「お前は一族の姫 なのだろう。熊沢の領地くにの掟は知らぬが、鶴田の家ではな、身分の高きおなごが浮浪人のように部屋の隅で転がるなど、あってはならぬことだ」

今回ばかりは、あやつも俺の鼻をピンと弾いてはこなかった。珍しいこともあるものだ。

楓は膝を抱え込み、汚れた足元が見えぬよう小袖の裾を固く引き締めた。だが、このような煤けた泥まみれの見苦しい姿のまま、俺の敷布団の上に座らせておくのは、あまりにも無鉄砲が過ぎる。いや、ここ数日の俺の行いすべてが、すでに無鉄砲の極みなのだが。

「野蛮人」

俺が声をかけると、あやつは小さく鼻を鳴らした。

「そのような薄汚れた格好で、俺の寝所に居座るな」

「……あんたがここにいろって言ったんじゃない……」

楓は裾から足を突き出すと、やはり拗ねたように例の隅っこへと這っていった。どうやら、俺の言い方がまた悪かったらしい。武家の男として、おなごへの言葉選びというものが、俺にはいささか難しすぎる。

あやつが壁際に縮こまる間に、俺は痛む身体を何とか引きずり、枕元の奥にある押入れ を開けた。棚に手をかけ、手近にあった小袖こそを一枚引っ張り出す。我が一族の者が普段着として袖を通す、極めて飾り気のない無地の衣服だ。

それを、壁側の小娘に向かって放り投げた。楓は眉をひそめ、丸まった着物を広げると、あろうことかそれを丸めて俺の顔面に投げ返してきた。

「ちょっと、何するのよ!」

謂れのない不意打ちを喰らい、俺は声を荒らした。こちらは良かれと思って着替えを差し出したというのに、相変わらず手のかかる奴だ。

「それはあんたの服でしょう、バカ!」

あやつの頬が朱に染まっていた。それはきっと、涙のせいだけではあるまい。

「……なるほどな」

俺は指先で顎をトントンと叩き、ようやく得心がいった。あやつが「熊沢の姫」であるという事実が、未だに俺の頭の中で上手く結びついていなかったのだ。

「武家の娘 ともあろう者が、男の衣服に袖を通すなど、その矜持 が許さぬというわけか」

「そういうことじゃないわよ!」

傷を負った眉の上の黒い点をがしがしと指で引っ掻きながら、楓はさらに顔を真っ赤にさせた。男の着物を着るという、その「気恥ずかしさ」に向ける羞恥の心が、あやつにも一応は残っていたらしい。

「我がままを言える身分か、この状況で」

俺は少し語気を強め、今度は容赦なくその衣服をあяつの足元へと叩きつけた。だが、楓も負けてはいない。投げ返された衣服が再び宙を舞い、俺の元へと戻ってきた。

本当に、頭が痛くなってくる。俺はどんな報い でこの大罪を犯し、この不届き者 を押し付けられるという罰を喰らっているのだ。あるいは森での傲慢な振る舞いのせいか。それとも、子供の頃に俺が阿呆( дурачок )だったからか? いや、子供の頃の俺は誰よりも大人しく、素直な良い子だったはずだ。――ならばこれは、神仏が与えし試練か。

溜息を深くつき、俺は今度こそ怒りを押し殺しながら、衣服をあやつの足元へと静かに置いた。これ以上手荒に扱えば、あの美しい頭を本気で壁にぶつけかねない。

楓はようやくその贈り物を拾い上げると、屏風( бёбу )の陰へと身を隠した。まもなく衣擦れの音が響き始め、俺は思わず息を止めた。頭の中の雑音 を消し去ろうと必死に目を瞑るが、思考がまとまらない。

殺生。一族の確執。

……いや、まずは目の前の問題を一つずつ片付ける。それにしても、酷く頭が痛み始めてきた。

屏風の陰からの衣擦れが止み、楓が恐る恐る顔を覗かせた。その瞬間、一族の行く末などという大層な懸念は、一瞬で頭の彼方へと吹き飛んだ。胸の奥で、またあの妙な疼きが跳ね回る。

俺の小袖を着た楓は、文字通り布の中に溺れていた。ぶかぶかの袖から小さな手が覗いている。そのあまりの不格好さに、俺は口元が緩むのを抑えきれなかった。耳の付け根から首筋にかけて、カッと熱くなっていくのが自分でも分かった。

「……おい、野蛮人。随分と丈が余っているようだが?」

敷布団から少し身体を遠ざけ、何とか平静を装って声を絞り出す。

「さっさと横になれ。俺はこれから、手立てを練る」

楓は未だに疑り深い目を俺に向けながら、おずおずと敷布団の上へと身体を横たえた。夜着を頭まで引き上げながらも、その視線は片時も俺から逸らさない。いつでも飛び起きられるよう、警戒しているのだ。無理もない。まだ怯えが抜けていないのか、それとも俺を信用していないのだろう。俺が逆の立場でも、決して信じはしない。

壁に背を預け、俺は静かに目を閉じた。眠気など、この張り詰めた状況では一欠片も訪れそうになかった。一族の戦が間近に迫っているというのに、眠れるはずがない。

「あんたの弟、可愛いわね」

気まずい沈黙を破ったのは、またしてもこの小娘だった。一体いつの間に疾風と知己を得たというのだ。もしあやつに見付かっていたのだとしたら、新たな火種ではないか。

俺は思わず目を開け、身体を硬くした。

「……奴にお前を見られたのか?」

「ううん」

楓は首を横に振り、夜着の端を顎の下まで引き上げて、再び口を噤んだ。誰にも見付からなかったのは、せめてもの救いだ。さもなければ、俺の額に的を貼り付け、「敵の身内を内通せし者」と大書されるところだった。……果たして、あやつを真に「敵」と呼ぶべきなのかは分からぬが。

額の的、か。

俺は件の逃亡者に視線を向け、それから刀掛け、そして穴の空いた障子へと目を移した。今まさに喉から手が出るほど欲している答えが、この部屋のどこかに隠されているのではないか。視線が楓の汚れた裳の衣へと滑り落ち、俺は考え込みながら指先で顎をトントンと叩いた。

ようやく、一つの策が頭の中で形を成し始めた。だが、これを動かせるのは朝になってからのことだ。それまでは、睡魔に襲われながらも必死に目を開けようとしている野蛮人の姿を、ただ眺めるしかなかった。あやつはあくびを噛み殺して眠りに落ちたかと思うと、ハッと身を震わせては周囲をキョロキョロと見回していた。

俺は不自由な足を床に引きずり、立ち上がることも億劫なまま、カサカサと文机の方へと這っていった。またこれだ。俺は自分の立てた策を、そして起こりうるすべての事態を、それがどれほど最悪な結末であろうとも、余さず紙に書き出すつもりだった。すべてを予測せねばならない。俺の犯したあの過ちを、自らの手で正さねばならぬのだ。

時折、楓の方へと目をやった。この切迫した状況において、唯一滑稽だったのは、あの森での立場が、今や完全に逆転していることだった。

外の景色が白み始めていた。筆を走らせて策を練っていると、背後で微かな衣擦れの音が聞こえ、続いて首筋に熱い息が触れた。ゾクッとして鳥肌が立つ。

「俺の背中に息を吹きかけるな」

俺は呆れて天を仰ぐと、筆の木の軸の端で楓の頭を軽く小突いた。するとあやつは目を細めて睨み返し、俺の額を指先でピンと弾いてきた。

「何するのよ……」

ぶかぶかの小袖を手で手繰り寄せながら、楓は小さく憤慨してみせた。

あやつはすっかり生気を取り戻しているというのに、こちらは一刻も早く横になりたい。これ以上の戯れに付き合うつもりはなかった。そう、これはただの戯れだ。だが、やはり黙っていられず、嫌味を返してやりたくなった。

「これでもまだ、本気を出していないのだぞ」

もう一度筆を振り上げたが、今度は額ではなく、あやつの頬をちょんと突いてやった。楓は鬱陶しい羽虫でも払うかのように、手を激しく振り回した。

「やめてよ」

楓はむすっと膨れたが、その姿を見ていると、余計に可笑しさが込み上げてきた。なるほど、この不届き者をからかうのは、この上ない愉悦であるらしい。しかし悲しいかな、このような平穏が長く続くはずもなかった。俺は冗談を切り上げ、本題に入ることにした。いや、そうせざるを得なかったのだ。

「……手立てがある」

俺が言葉を紡ごуとしたその刹那、廊下の向こうから鶯の鳴き真似のような鋭い合図が響き渡った。誰かが、この寝所に向かって近づいている。

全身を恐ろしい戦慄が駆け抜けた。どうする。もし今ここで楓が見付かれば、俺は一族を追われて浪人になるか、さもなくば腹を切るしかない。平時であれば迷わず後者を選んだだろう。だが、俺のことはどうでもいい。問題は楓だ。あやつは間諜として容赦なく首を刎ねられ、その首は父親への皮肉な贈り物として送り届けられるに違いない。

刻限は一刻を争う。俺は痛む足を引きずって跳び起きると、あまりの激痛に小さく悲鳴を上げながら、楓の身体をひっ掴んだ。そして強引に押し入れの戸を開け、あやつを中に押し込んだ。楓は手足をバタつかせて抵抗し、挙句の果てに俺の耳の付け根に噛み付いてきたが、戸のすぐ外で床板がギィと軋む音を聞くと、パニックになってぴたりと静まり返った。

押し入れの戸を閉め、俺は命からがら敷布団の中へと滑り込んだ。

神仏よ、足が引き裂かれるように痛む。間違いなく、傷口が再び開いてしまった。

次の瞬間、ふすまが静かに滑り開き、部屋の中に石川が足を踏みえれた。その佇まいはいつも以上に冷徹で、まるで俺の魂を奪いにきた死神のようであった。

「若君、頭領がお呼びです。ただちに評定の間へお越しくだされ」

その声音には、いささかの猶予も拒絶も許さぬ響きがあった。「ただちに」か。ならば、これ以上深く思案を巡らせる時間はない。今まさに押し入れの中で身を潜め、この会話を一言半句漏らさず聞いているであろう楓に、すべてを賭けるしかない。あやつが、俺の意図を正しく察してくれることを願うばかりだ。

石川は俺の肘を支え、立ち上がらせようとした。

「何かあったのか?」

俺は男の身体に寄りかかりながら、平静を装って問うた。評定の理由が何であるか、俺がすでに察していることを、この忍びに知られるわけにはいかない。しかし、石川の鋭い視線が寝所の手入れの行き届かぬ隅々へと向けられた瞬間、俺の心臓はぴたりと止まるかと思った。

「某には分かりかねます」

無論、そのような返答が返ってくることは承知の上だ。奴は十中八九、嘘を吐いている。

「石川、日の高くなる前に、あの交易都市へ向けて荷車を出せ」

男の顔に一瞬、不審の影が走るのを見逃さず、俺は言葉を重ねた。

「米を積んだ、あの荷車だ。お前に手配のやり方を今更教える必要はあるまいな?」

何が起きようとも俺はこの家の若君であり、その辺の小僧とは違うのだ。ならば、主君として毅然とした振る舞いを見せねばならぬ。

石川は即座に深く頭を下げると、俺を抱えるようにして、急ぎ評定の間へと連れ出した。

「御意にございます、若君。直ちに荷車を手配いたします」


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