三、楓
一晩中、そして丸一日、私はどうしても心の整理がつかなかった。年老いた下女の敦子は、このような大事な儀式を前にして心を揉むのは当たり前のことだと言う。きっと、その通りなのだろう。けれど、私の心を乱しているのはそれだけではなかった。
私に向けられるあらゆる問いかけ、すべてのアザ笑うかのような視線が、まるで咎め立て(とがめだて)のように感じられてならなかった。あの鶴田の男を救ったことに対する、痛烈な非難の視線。もし、すべてが露見していたら?もし一族の長や長老たちが私に激怒し、戦を始めてしまったら?あるいは鶴田の者たちが私を敵とみなし、やはり戦を起こすのではないか!
誰もが言う通りだ。人間なんて、信じるに値しない。あの慈悲深さが、まさかこんな恩仇の苦しみとなって跳ね返ってくるとは!これほどの精神的な苛立ちに耐える価値が、果たしてあったのだろうか!
今こうして、下女たちに囲まれて不透明な屏風の陰に腰掛けている間でさえ、誰もが私の嘘を見抜いているのではないかと怯えてしまう。偽りが、今にも滑り落ちて露わになりそうだった。
「……お歯黒を施すのかえ?」
私と目を合わせることすら恐れおののいている下女に、私はきまづそうに尋ねた。
「髪型を変え、眉を剃り落とすことになりました。どうぞご安心ください、お嬢様」
気楽に「安心しろ」などと言ってくれるものだ。深くため息をつき、私は再び目を閉じた。下女は慎重に、私の眉を剃り落とし始めた。あまりの緊張に私は袴をギュッと握りしめ、眉をひそめた。女は慌てて手を引く。
「申し訳ありません、小刀でわずかに傷をつけてしまいました……」
申し訳なさそうに、彼女は擦り傷を袖でそっと拭った。だが、私には痛みなど微塵も感じられなかった。
「続けなさい」
私はそう命じ、彼女は私の肌に分厚く白粉を塗り重ね始めた。それから、私の本来の眉があった場所よりもさらに高い位置に、墨を使って丁寧な「殿上眉」の点を二つ、ちょんと描いた。
二人目の下女が私の前髪を短く切り揃え、立ち上がるのを手伝ってくれた。膝が激しく震えていたけれど、それでも自力で立つことはできた。
その瞬間、広間の奥から「笙」の長く尾を引く音が響き渡り、それに続いて笛の音が鳴り響いた。
広間には、一族の身分の高い、人々から深く敬われる者たちが居並んでいた。長老たち、重臣たる侍たち、一族の長、そしてその正室である私の母上。
私は広間の奥に据えられた、冷たい木の板の上に立った。まず父上と長老たちに深く一礼し、それから客人たちに背を向けた。私の傍らには、幼い頃の思い出の品々が置かれた飾り棚が佇んでいる。その中には、桃色の小袖をまとった「トシ」という名の紙人形や、絹の切れ端を丁寧に編み込んだ手毬があった。それらは、今まさに別れを告げねばならぬ過去の遺物だった。とうにそんなもので遊ぶ年齢ではなかったけれど、それでも胸が躍るような気持ちには到底なれなかった。
私の脇には、後ろ盾となる男が立っていた。長老の豊光様だ。厳格だが公正な、一族の誰もが敬う重鎮である。熊沢一族の長である父、高津も、一族の政のみならず、子供の躾に話が及ぶと、いつもこの方の言葉に耳を傾けていた。
上の姉様は、ずっと前に他家へと嫁がれた。一族の誇りとも言うべき方だ。今度は、私がその名誉を汚さぬように振る舞う番だった。
豊光様は私の緊張に気づかれたのか、優しく微笑むと、私の腰に初めて「裳」の紐を結びつけ始めた。これで私は、公にも大人と認められたのだ。
豊光様は脇へと退がり、私の座る畳の向かい側へと腰を下ろした。遠くの方で母上が笑みを浮かべていたが、父上は違った。その冷徹な視線に、背筋をすっと粟立つような戦慄が走り抜ける。
それから私は、父上と後ろ盾の前に座した。この儀式さえ終われば、ひとまずは息を吐くことができる。手の震えが緊張を物語っていたが、父上の眼差しは冷たく、その胸中を読み解くことは叶わなかった。だからこそ、余計に息苦しかったのだ。
私たちの間には、小さな平坏が置かれた低い文机が据えられていた。顔に黒子のある十八歳ほどの若者が、そこへなみなみと清酒を注ぐ。その下男は、高貴な者たちと目を合わせぬよう俯きながら、役目を終えるとすぐに退がっていった。平坏を両手で持ち上げると、透明な波紋が微かに広がった。私は深く考えることもなく、儀礼の通りに九度、小さく口をつけた。酸味と甘みの混ざり合ったドロりとした液体が、容赦なく舌を焼く。清酒など口にしたことがなかったから、危うくその場で不作法にぶっと吹き出してしまうところだった。
張り詰めていた広間の空気が、一瞬にして和らいだ。あるいは、その強い酒のせいだったのかもしれない。居並ぶ者たちはにわかに活気づき、父上へ、そして私へと、成人の祝いの言葉をかけ始めた。
「楓」
私が広間からそっと抜け出そうとした時、母上が声をかけてこられた。
「おめでとう。お前も、もう立派な大人ですね」
私は作り笑いを浮かべ、癖で前髪を指に巻きつけようとしたが――ああ、そうだった、前髪は短く切り揃えられていたのだ。
「……かたじけなうございます」
「婚礼の覚悟はできていますか?父上と長老たちが、すでに佳きお相手を探しておいでですよ」
母上は、誰かに見られ、あるいは聞かれるのを恐れるかのように、私の肩をそっと抱き寄せた。本来、女が一族の長の決定に口を挟むことなど許されない。けれど、「婚約者」という言葉を耳にした瞬間、私の身体は一気に凍りついた。白粉の白さよりもさらに白く、私の血の気が引いていくのが分かった。それを見せるわけにはいかなかったけれど。
「どなたなのですか?」
私は震えを抑えようとしながら尋ねたが、母上はただ首を振るだけだった。
「分かりません……高津様は、私には何もお話ししてくださらないのです」「そうですか……」
私はさらに深くうつむいた。私の未来も、きっとこうなるのだ。子供の行く末すら教えてくれず、何の関心も払ってくれない夫。せめて、子供たちのことだけは愛してくれる人だと良いのだけれど。
これ以上この場に留まり、祝いの言葉を聞きながら清酒をすする気にはなれなかった。今の私は、そのような華やかな席に身を置く資格などないように思えてならなかったのだ。
思考はまたしても、戦のことへと引き戻される。一刻も早く、流血なしですべてが終わってほしい。不吉な予感が、じわじわと私を狂わせていく。
「少し、庭を歩いてまいります」
私は急に疲れを覚えてそう告げると、顔の前でひらひらと手を振った。堂内は酷く蒸し暑かった。それに、新調されたばかりの「裳(mo)」のせいで、裾をたくし上げねばまともに歩くことすらままならなかった。
母上は気にする様子もなく、まだ言葉を交わしていなかった他家の女たちの元へと急ぎ足で戻っていった。
私はといえば、行灯を一つひったくるように掴んで外へと飛び出し、この胸の沈みを宥めてくれることを願って、ある場所へと向かった。
武運の神を祀る――八幡宮だ。
社に近づくにつれ、私は喉を鳴らした。鈍い灯籠の明かりに照らされた鮮やかな朱色の鳥居は、まるで血に染まっているかのように見えた。その光のせいで、あちこちに伸びる茂みや庭石の長い影が、酷くおぞましいものに思えてくる。
もう一度、心の内で引き返すか否かを天秤にかけ、私は重苦しい扉を押し開けた。床に黒木が敷き詰められ、壁が白く塗られた外拝殿を通り抜け、私はその奥の間に足を踏み入れた。
もじもじと躊躇いながら足を動かし、行灯を隅に置くと、私はその場に膝を突いて目を閉じ、祈りを捧げ始めた。
堂内には鉄と木の匂いが立ち込めており、行灯から立ち上る微かな煙が、静かに空間を揺らしていた。
「……どうか両家を鎮め、鶴田と熊沢の間に戦が起きぬようお守りください……」
震える声で、私は蚊の鳴くような細い声で祈りを呟いた。武運の神たる八幡様が、風の唸り声を通じて私に語りかけているかのようで、その気配に全身が粟立つ。どうにかして神の心を宥めたかったが、私は手ぶらでここへ来てしまった。だから私は、自分に捧げられる最も尊いもので誓いを立てることに決めた。「……慎み深く、従順であると誓います。夫と、父上の言葉に耳を傾けると……」
その誓いを口にした刹那、私の背後から重々しく、確かな足音が響いてきた。続いて、扉の擦れる鈍い音。誰かが社の扉を閉めたのだ。
私は耳を澄ませた。きっと下女の敦子だろう。……いや、下女にしてはあまりにも確かで力強い足取りだ。これは男の……地位と権力を持つ男の歩み。
「おやおや、こんなところにいたのかえ、愛しの楓」
暗がりの静寂を切り裂いたのは、長老の豊光様の声だった。てっきり恐ろしい化け物でも出たのかと肝を冷やしたが、豊光様でしかなかった。
私は膝を突き、裳の裾を整えながら立ち上がってその男を見つめた。彼はいつものように両手を後ろで組み、私を値踏みするように見つめていた。
「……はい、ここに」
決まり悪そうに首筋を擦りながら、私は行灯を持ち上げた。
「髪上げの儀(裳着)を終えたおなごが、真っ先に武運の社へ足を向けるとはな」
豊光様は片手で社の壁を指し示した。私の心臓が、裏切りのようにドクンと跳ね上がる。嘘を吐くわけにはいかない。私はすぐに、ありのままを告げることにした。
「……不穏な時代ですから。戦など、起きてほしくないのです」
その言葉に、豊光様は深く長い溜息を漏らした。この方は戦の凄惨さを知り尽くしている。数々の修羅場をくぐり抜けてきた侍であり、そのことには敬意を抱かざるを得ない。
「お前の言う通りだ」
男は壁の方へと歩み寄り、神の依り代が安置されている、分厚い絹の帳――「御簾」の前に佇んだ。私はその傍らに立ち、彼の視線を追う。この場所へ立ち入ることは厳しく禁じられており、許されているのは神職の者たちだけだった。「八幡様がお前の祈りを聞き届けてくださると良いがな。……だが、戦を止める力を持つのは、神仏だけではないぞ」
私は心の内で、剃り落とされたばかりの眉を跳ね上げた。
「……神仏でなくば、一体どなたが?」
もしそのような者が本当に存在するのなら、私は何が何でも知らねばならなかった。日夜その者に祈りを捧げても良い。もしそのような存在がいるのなら、早く教えてほしい。けれど、私はこの募る好奇心を声に出して悟られるわけにはいかなかった。
「……私の手の中にある」
豊光様はいつもの笑みを浮かべて私を見つめたが、その薄暗がりの中では、その笑みもどこか酷く不気味に感じられた。
堂内を一瞬、隙間風の音だけが通り抜ける静寂が支配した。次の瞬間、豊光様は背後から一振りの脇差を取り出した。私は恐怖に目を見張り、思わず一歩後退りした。それはまぎれもなく――鶴田満の脇差だった。
「受け取れ……」
彼が私へと脇差を差し出したので、私は恐る恐るその柄を握った。この武器をどうすべきか、私には分からなかった。隠すべきか、あるいは何も知らぬ存ぜぬで通すべきか。けれど、この武器こそが、鶴田の者が我が領地に足を踏み入れたという動かぬ証拠であり、戦端を開くには十分すぎる大義名分だった。両家の関係は、すでに一触即発のところまで張り詰めているのだ。
「だが、この衝突を阻めるのは、私一人だけではないぞ……」
脇差を握る私の手の上に、彼の傷だらけの熱い手のひらが重なり、滑り落ちてきた。私はその手を振り払うこともできず、彼が何を企んでいるのかを必死に読み解こうとしたが、心臓は「今すぐ後ろを振り向かずに逃げろ」と激しく警鐘を鳴らしていた。
「楓、お前は掟を軽んじ……森を宛てもなく彷徨っている。まるで……」
男は言葉を濁し、相応しい表現を探すように間を置いた。
「……狼の仔のようだな。野蛮で、我がままで……」
豊光様の空いたもう片方の手が私の頬へと伸び、私は思わず息をのんだ。その指先が触れた瞬間、これが稽古の後に顔の泥を拭ってくれていた時のものとは、全く異なる異質なものであることを察した。彼の親指が、白粉の塗られた私の頬を滑り、首筋へ、そしてあの忍び(シノビ)につけられた切り傷の跡へと這い上がっていく。
張り詰めた緊張のせいで、私の呼吸はみるみるうちに乱れていった。
長老はさらに数歩私へと近づき、私は背中が壁にぶつかるまで後退りするしかなかった。彼はその様子を見て、いっそ愉しげに笑みを深めた。この状況を面白がっているのだ。
完全な恐怖が、私の身体を金縛りのように縛りつけた。あの竹林の奥で、鶴田の忍びを前にした時と、全く同じ戦慄だった。
「……もう、戻ってもよろしいですか?」
私の声は、酷く押し潰されて無力に響いた。豊光様は私の上に覆いかぶさるように立ちはだかり、灯籠の微かな明かりを遮ると、私の耳元へと顔を寄せた。
「楓、お前はもうどこへも行かぬのだ……」
その脅迫めいた鋼のような声が、私の身体を再び激しい戦慄で満たした。幸いにも、彼は私の手から手を退けた。しかし、安堵の息を漏らす間もなく、彼の掌が私の太ももへと置かれた。
「お前は敵を救い、それを隠蔽した。だが、幸いなことに、私はお前のその健気さに深く心を打たれてな……。お前のような跳ねっ返りを飼い慣らすのは、さぞかし愉しいことだろう」
彼の指が太ももを強く掴み、私の目の奥から涙が溢れ出た。
「今この場で、私のものになれ……。さすれば高津様も、この……些細な間違いを知らずに済む」
最後の言葉を彼はあまりにも悦ばしげに口にしたので、私の胃のあたりが不快感で激しく収縮した。
私は完全に動転し、恐怖に突き動かされていた。彼の両手が私の腰へと滑り落ち、裳の紐を解き始める。身体が跳ねるように強張った。私は深く考えることもなく、手にした脇差を彼の腹へと突き立てた。
鮮血が噴き出し、私の衣服を赤く染めていく。私はその血塗られた武器を、すぐさま地面へと投げ捨てた。
「愚かな小娘が……!」
長老は激しく血を流しながら、私の首を掴もうと手を伸ばし、低く唸った。今度こそ私はその手をすり抜け、狂ったように駆け出した。背後で、豊光様が床へと崩れ落ちる鈍い音が響いた。
死んだ。
私が、あの方を殺したのだ。
今や私は、一族の裏切り者であり、人殺しだった。一体どうすればいい? どこへ逃げればいいの?
心臓が耳の奥でうるさいほどに脈打っていた。私は森へと飛び込み、片足ずつ跳ねるようにして草履を蹴り脱いだ。そこからは裸足で走り続けた。乾いた松葉や折れた枝が容赦なく足の裏を切り裂く。新調された裳がまとわりつき、動きを酷く制限していた。
屋敷を包んでいたあの華やかな祝祭の空気が、一瞬にして重苦しいおぞましいものへと変わっていくのを感じていた。今日明日にも長老の骸が見つかり、私に対する一斉捜索が始まるだろう。誰もがすぐに、犯人が私だと気づくに違いない。いっそ屋敷に戻り、父上にすべてを打ち明けて弁明すべきだろうか?
いいえ。
父上は耳を貸してはくださらない。
どれほど冷静に思考を巡らせようとしても、押し寄せるパニックがそれを完全に阻んでいた。足は私の意志に背き、宛てもなくただ走り続けていた。そして気づけば、私をあの「鶴の屋敷」の壁際へと導いていた。
私は竹林に足を踏み入れるのを恐れ、遥か遠くへと大きく迂回してきたのだ。目の前には、白塗りの高い壁が立ちはだかっていた。その向こうには、間違いなく多くの警護の侍たちが控えているはずだ。血にまみれた私の姿を見れば、彼らは事情を詮議することもなく、その場で即座に私の首を刎ねるだろう。
両手で頭を抱え、絶望に声もなく叫びながら、私は壁に背を預けて地面へとへたり込んだ。いっそのこと、ぎゅっと体を丸めて鞠にでもなり、そのままどこかへ弾け飛んで永遠に消えてしまいたかった。
私は本当に、身を縮めて壁の根元に横たわった。その時、足をきつく引き寄せるよりも早く、右の踵が不意に沈み込んだ。足が何かの穴に落ちたのだ。妙なこともあるものね。
私は唇を噛み締め、恐る恐るその穴を両手で探ってみた。土は湿っていて柔らかい。ごく最近掘られたものだ。さらに深く手を差し入れて確信した。――これは犬走り(抜け穴)だ。これこそが、私の活路だった。
耳を澄ますと、門の近くに集まった衛士たちが、何やら声高に熱く議論を交わしているのが分かった。彼らが何を話しているのかなど、今の私にはどうでもよいことだった。
穴の大きさと自分の体躯を比べ、私は一か八か賭けてみることにした。一族から逃亡し、あろうことか敵対する鶴田の屋敷へと忍び込もうというのだから、自分が一体何を目論んでいるのか、我ながら説明がつかなかった。
けれど、あの森にいれば、熊沢の忍び(シノビ)どもに瞬く間に見つけ出されてしまう。彼らは私以上にあの森を熟知しているのだ。だが、ここなら彼らとて捜そうとはまい。そして鶴田の者は……もし彼らが「名誉」と「義理」という言葉を知る侍ならば、今度は満がその恩を返す番のはずだ。
私は身を翻し、その狭い穴へと這い進み始めた。四方から圧迫感が襲いかかり、髪型はすっかり乱れ、白粉は半分近くが剥げ落ち、衣服は泥まみれになった。ようやく頭が向こう側へと抜け、私は辺りを見回した。人影はない。衛士たちは相変わらず大声で笑い合っていた。目の前にあるのは、おそらく下男たちの小さな詰所だろう。そしてその少し先には、道場が佇んでいた。
這い出し終えた私は、詰所の物陰へと身を潜めた。衛士たちが見回りを始める前に、次へ進むべき道を考えねばならない。その時、道場の方からカサリと微かな物音が聴こえた。
途端に息が止まる。もし見回りの者なら、どこへ逃げればよいというのか。鶴田の忍びの恐ろしさを知る身としては、見つかれば一瞬で喉を掻き切られるのは火を見るより明らかだった。
だが、茂みから這い出てきたのは、わずか九歳ほどの小さな少年だった。あやつは私と同じように、きょろきょろと辺りを警戒している。どこかの悪ガキが、悪戯でも企んでいるのだろうか。
子供が足音を忍ばせて道場へと向かう隙に、私は見つからぬようさらに先へと移動した。パキリ。裸足の足元で、一本の小枝が鋭い音を立てて折れた。少年はピタリと動きを止め、両手を頭の上へと挙げた。
「父上、私は満兄様のところへ逃げ出したりしていません!」
あやつは申し訳なさそうな顔で一気に捲し立てた。なるほど、やはりこの「たわけ」の弟だったのね。
「私は今もお仕置きに耐えています! ほら、ご覧の通りです!」
少年はその場にバッと正座し、背筋をピンと伸ばしてみせた。
この小僧、なかなか面白い。あの兄に比べれば、ずっと愛嬌があるわ。
けれど、今の私にとっては厄介な火種でしかなかった。もしここに父上がいないと気づかれたり、それどころか、この角を覗き込まれでもしたら……。だが、いくら待っても返事がないことに気づくと、あやつはふんと鼻を鳴らし、さっきまでめそめそしていたのが嘘のように膝を払って立ち上がった。そしてそのまま道場の中へと入り、後ろの扉をパタンと閉めた。
私は、はあっと深く息を吐き出した。
ということは、あやつは満のところへ行っていたのだ。私は目を細め、頭を働かせ始めた。けれど、のんびりと考えに耽っている時間などない。壁伝いに、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。私は恐怖と危険を顧みず、道場の脇に生い茂る梅の茂みへと飛び込んだ。
梅の枝が私の頬や手のひらを容赦なく引っ掻く。下手に動けば衣服が裂けてしまう。その物音は、確実に敵の注意を引くだろう。
通りかかった衛士が、ぴたりと足を止めた。まさか、私の音が聞こえたのだろうか!私は咄嗟に手で口を覆い、荒くなる呼吸を必死にひそめた。
男が道場の扉を開けると、中からトトトッと小さな足音が響いてきた。
「私はお仕置きの最中だ!」
中からそんな声が聞こえる。どうやら、このお調子者はやはりまともに正座などしていなかったらしい。
「若君、もうお休みになる時間です。大殿より、お送りするよう仰せつかっております」
衛士の声は、どこまでも恭しく穏やかだった。子供は一瞬で道場から飛び出し、護衛を追い抜くようにして駆け去っていった。なんという素早さ、実になんと間を心得た戻り方かしら。
「疾風様、お待ちください!」
男は鎧をガシャガシャと鳴らしながら、その小さな主君の後を追っていった。
この疾風という小僧が、ますます気に入ったわ。おかげで余計な目を取り払うことができたのだから。
梅の木立を潜り抜け、私は本館(主屋)のすぐ近くへと這い出た。外は灯籠の明かりで薄明るく、またしても私が忌み嫌う障害が行く手を阻んでいた。
障子の和紙の向こう側に、かすかな人影の動きが見えた。背が高く、そして足を引きずっている。――間違いない!あの足の不自由さは、満だ!ようやく、あの男を見つけ出したのだ。
私は辺りを油断なく見回し、裳の裾をそっとたくし上げると、爪先立ちで彼の部屋の壁際へと近づいた。明かりがあるとはいえ、この薄暗がりの中では、ここから扉を開けられるのかどうか、私には判然としなかった。我が一族の屋敷では、寝所には内側からしか入れないようになっているのだけれど。
私は小さく舌を鳴らし、足元に何かないかと探し始めた。植え込みの周りには小石が敷き詰められており、これを使えば障子紙を切り裂くことができるのではないかと思いついた。
小石を一つ掴んで手に力を込め、和紙に向かって引き裂いた。パキパキという鋭い音が夜の静寂に響き渡る。心臓の鼓動が一段と速くなった。一刻を争うわ。
中に入れば、それが私の借りを返すべきあの男ではないかもしれない、などという懸念はすでに頭になかった。まさに、直感に突き動かされていた。
部屋の中から、キィィンと鋭い金属の擦れ合う音が聞こえた。穴を広げて覗き込むと、私は武器を構えた満と真っ向から視線を交わした。彼の青い瞳は驚愕に丸くなり、その手は刀の柄をきつく握りしめていた。




