二、満
足の激痛は、到底耐え難いものだった。歩みの一歩一歩が私にとっては試練であり、あの野蛮な女の視線の一つ一つが、私の誇りへの痛烈な一撃だった。一刻も早く、まともな医師の手にかかれることを祈るばかりだ。
あのような不遜で、私の身分も素性も敬おうとしない見知らぬ女を頼りにするなど、本意ではなかった。それでも、選択の余地はなかったのだ。彼女がいなければ、おそらくこれほどの距離を歩き通すことすらできなかっただろう。鶴田一族の忍び(シノビ)に見出される頃には、私はとっくに失血死していたに違いない。もしかすると、遠からず脱疽で命を落とすことになるかもしれないが、それは後々の話だ。今はただ、小さな棘のような存在に寄りかかりながら、命からがら屋敷へと向かって足を引きずっている。
時折、彼女が私の重さについて口の中でぶつぶつと不満を零しているのが耳に届いた。二、三度、私のことを阿呆呼ばわりしおって。もし私の後ろに護衛が控えていると知っていたなら、決してこのような無礼は許さなかったものを。まったく、あやつを躾け直してやりたいものだ。自分の立場を弁えさせるために、その後頭部を一つひっぱたいてやればよかった。
ようやく、重なり合う針葉樹の枝が途切れ、私たちを遮っていた太陽の光が降り注いだ。暗がりの陰から抜け出せたことが、これほど嬉しいとは。
視界の端でその小娘を盗み見ると、彼女が呆気にとられたように口を開けているのが分かった。まるで、その小さな脳の片隅にこの景色を刻みつけようとするかのように、あちこちを見回している。もっとも、彼女のこれまでの機転から察するに、その脳味噌は決して小さくはないのだろうが。……頼むから私の思考を悟らないでくれよ、さもないとまた額をピンと弾かれかねない。
彼女を観察しながら、私はなるべく強く寄りかからないよう心掛けていた。彼女が酷く無理をしているのが分かったからだ。そして、私は見てしまった。私の心臓が、なぜか激しく脈打ち始める原因となったものを。それは、自然の美しさに対する彼女の、あまりにも無垢な喜びの表情だった。
おそらく、私は痛みで狂いかけているのだろう。だから心臓が私の意志に背いて勝手に騒ぎ立てるのだ。
我が一族がこれほど素晴らしい場所に生きていることに、一抹の誇らしさすら込み上げてきた。無理もない、あの野蛮人は己の鬱とうしい森の他には、何一つ目にしたことがないのだろうから。
その時、突如として閃くものがあった。私はまだ、己の名すら名乗っていなかったのだ。彼女がこれほど不敬な態度を取り続けていたのは、目の前にいるのが誰なのかを理解していなかったからではないだろうか? もっとも、私の佇まいを見れば、分からぬはずもないのだが。
「……満」
私は気後れしながらも、そう呟いた。彼女がこれに興味を示すかどうか、確信が持てなかったのだ。いや、待て、なぜこの私が気圧されなければならないのだ。
非難を込めて跳ね上げられた彼女の眉を一瞥し、私は察した。――彼女は何も分かっていない。
「私の名だ」
私は先ほどよりも強い口調で付け足したが、彼女は返事すらしてこなかった。ただ、目を細めて私を睨みつけてきただけだ。まさか、それが彼女なりの好意の示し方というわけではあるまい。
ようやく、聞き慣れた竹林のざわめきが耳に届いた。我が家だ、我が愛しき家。私はわずかに歩みを早めた。一刻も早く弟と妹の姿を見たかった。きっと、あやつらは気が気でなかったに違いない。
頭の中ではすでに、絹の敷布団へと身を沈め、泥にまみれて破れた小袖を引き剥がしていた。そして、兄としての愚かさや、無責任さ、あるいは未熟さについて説教を食らっているだろう。だが、そんなものはどうにでもなる。いつもどうにかしてきたのだ。
ふと、あの野蛮な女の輝く瞳が再び目に留まった。今回、彼女は明らかに竹林の美しさに心を奪われていた。その独特な生い茂り方は、身を隠すのも、あるいは道に迷うのも、容易いと思わせるほどだった。
彼女が何かを言いかけたのが分かり、私は微かに笑みを浮かべすらした。しかし次の瞬間、彼女はまるで縫いぐるみ(ぬいぐるみ)のように、乱暴に脇へと弾き飛ばされた。支えを失った私は崩れ落ちそうになったが、強い両腕が私の両肩をがっしりと受け止めた。
石川だ。鶴田一族に忠誠を誓う忍び(シノビ)。暗殺と尋問の達人。跡取りの行方不明を知った長が、直々に捜索へ遣わしたのだろう。石川の手から生きて逃れた者はいない。そして今、彼はあの野蛮な女へ向けて明確な殺意を放っていた。彼女を脅威とみなしたに違いない。背中に武器を帯びているのだから、それも無理はなかった。
しかし、あの憎たらしい、されど命の恩人である彼女が容赦なく投げ飛ばされるのを見て、私はひどく動揺した。
楓(かえде)は勇敢な戦士さながらに武器を構えた。それだけはやめてくれ。石川の奴は、本気であの愚か者を殺してしまう。
私は突如として湧き起こったパニックを抑え込もうと、奥歯を噛み締めた。
「武器を捨てろ、小娘」
石川の毅然とした声には、いささかの猶予も残されていなかった。彼は多くの忍びを率いる、誰もが恐れ、敬う男なのだ。
日の光を浴びて仕込み杖の刃が閃いた瞬間、私の心臓はきゅっと縮み上がった。その刹那、忍びは小娘の喉元へとその刃を突き立てた。
恐怖で喉が押し潰されそうになる。わずか一日だけの付き合いだったが、私には分かっていた。彼女が武器を収めるはずがない。ただ大人しく殺されるような珠ではないのだ。私は、彼女の死を望んではいなかった。断じて。私が助けなければならない。
視線が、楓と真っ向から交錯した。彼女は怯え、救いを求めてその瞳をせわしなく泳がせている。
罪悪感と羞恥の念で、息が詰まりそうだった。彼女は、自分のことを嘲笑い、嫌味ばかり言っていた見知らぬ男のために命を懸けたのだ。それなのに、今はこうして命を脅かされている。そして今、彼女の白い皮膚から血の滴が滲み(にじみ)出た。
「石川」
私は彼女から視線をそらさぬまま、一歩を踏み出そうとした。足が再び激痛を訴える。
「その者は、私の命の恩人だ。手を出すな」
石川はわずかに目を見張って私を見つめたが、やがて深く頷いた。
「若君……」
男が手を挙げ、無言の命令を下した。配下の忍びどもは、首領の視線一つでその意図を正確に汲み取る。そして、幸いなことに彼らは一斉に武器を収めた。
「私はその者に命を救われたのだ」
誰もが聞き届けるよう、私は毅然と言い放った。誰一人として、彼女を傷つけることは許されない。
私は頷き、皆に席を外して二人きりにしてくれと頼んだ。己の不手際と優柔不断のツケを、そう簡単に払いきれるものではないと分かっていた。胸が酷く不快感で満たされる。胃のあたりがキリキリと痛んだ。彼女の怯えた瞳、不信感、そしてそれ以上に深い失望の念――それ以外のことは、何一つ頭に浮かばなかった。
義理だ。たとえどれほど奇妙で手荒なものであったとしても、彼女が示してくれた慈悲と介抱には、必ず報いなければならない。
「残らぬか?もうすぐ日が暮れる……」
石川の拘束から解かれ、私は竹の幹に身体を預けた。頬が酷く熱くなるのを感じ、どうしても彼女の目を見ることができずに、私は視線を脇へとそらした。
「行かなきゃ……」
震える声でそう告げると、小娘は弾かれたように走り去っていった。私は思わず手を伸ばし、彼女を引き留めようとした。夜の森がどれほど危険であるかは分かっていたからだ。
「石川!」
私は忍びを呼びつけた。彼らがそう遠くへ行っているはずがない。男はまるで影そのものであるかのように、竹の幹の裏から静かに姿を現した。
「影に潜み、あやつを送り届けよ」
「御意のままに」
石川は一礼して姿を消した。次の瞬間、数人の隠密たちが楓の後を追って闇へと溶け込んでいくのが見えた。
私はすっかり消耗しきっており、もうそれ以上何も考えることができなかった。手を引かれて屋敷へと連れ戻される間、下男たちが慌ただしく走り回り、医師を呼ぶよう命令が下されるのがぼんやりと見えた。
すれ違う者たちの誰もが、私をまるで浮浪者か何かを見るような目で眺めていた。泥と血にまみれた私の無様な姿を見れば、父上も母上もさぞかし眉をひそめるに違いない。この小袖はもう使い物になるまい、いっそ焼き捨ててしまえば、二度と目に触れることもない。この忌々しい一日を思い出さずに済む。「満兄様、満兄様!」
物思いを破ったのは、愛らしいおなごの声だった。葵、私の年の離れた妹だ。春の訪れを告げる花のように可憐で、雪の結晶のように儚い(はかない)少女。彼女の姿が目に入った瞬間、私の冷え切った心にじんわりと温かみが戻ってきた。私がこれほどの無茶をしたのは、すべてはこのためだったのだ。彼女と、私の年の離れた弟である疾風――あの悪ガキのために。
檜の香る冠木門をくぐった途端、妹は私の首にしがみついてきた。どれほど愛おしく思っていようとも、今の体でこの抱擁を受け止めるのは酷だった。私の顔には、隠しようのない苦痛が浮かんでいただろう。
「あ、ごめんなさい!きっと、すごく痛むのね……」
葵の瞳に涙が浮かび、小さな唇が不細工に震えた。彼女が身体を離すと、私の腕を支えていた石川の重苦しい溜息が聞こえてきた。
「若君には、一刻も早く医師の診立てを受けていただかねばなりません」
葵は小さな手のひらで涙を拭うと、無理に笑顔を作って頷いた。すぐに私の身体を解放してくれたので、私はようやく安堵の息を漏らした。
それにしても、これほどの騒ぎが起きているというのに、疾風が真っ先に飛び出してこないのが不思議でならなかった。いつもなら、あやつ自身が騒動の火種であり、混沌の支配者であるというのに。
「疾風はどこだ?」
私は再び屋敷の広間へと視線を走らせながら、不安を滲ませた声で尋ねた。
「お兄様を捜し出すために、自分の『兵』を集めていたの……」
葵は、誰かに聞かれるのを恐れるかのように声を潜めて囁いた。
捜索の兵だと? 疾風はまだほんの子供だ。もし本当に私を捜しに外へ出ていたなら、大いなる危険に身を晒すことになっていた。
私は全身の筋肉を緊張させた。
「あやつはどこにいる?」
「心配しないで、お兄様」
葵はもう一度私にしがみついてきたが、それでは不十分だった。私は明確な答えを求めていた。
「弟はどこだ?」
私は妹の顎をそっと持ち上げ、その瞳を真っ直ぐに見据えて答えを迫った。
少女はさらに激しく泣きじゃくり、私の腹へと顔を埋めてしまった。見かねたように、石川が口を開いた。
「疾風様なら、配下の忍び(シノビ)どもが捕らえました。近所の悪ガキどもを集めて『一隊』を組織し、竹の棒切れを持たせておいででした。我が一族の者が門の近くで彼らを阻んだのです。どうやら、床下を掘り進めて脱走を図ろうとしていたようで」
疾風め。いかにもあやつがやりそうなことだ。兄として、その無鉄砲さを厳しく叱り飛ばしてやらねばなるまい。だが同時に、あやつは一人の男として立派に振る舞おうとしたのだ。そう思うと、どうしても本気で怒る気にはなれなかった。
「あやつに会うことはできるか?」
「お仕置き中よ……」
葵は私の衣服に顔を埋めたまま、籠もった声で呟いた。泥の汚れなど、今の彼女には些細なことのようだった。我が家に帰ってきたのだという実感が湧き上がり、私は愛おしさを込めて妹の髪を優しく撫でた。
「今は道場の板間に正座させられているわ。本人は平気な顔をしているけれど……私、お部屋の裏で、あの子がめそめそ泣いている声を聴いちゃったもの」
奥の襖から一人の下女が顔を覗かせ、私と目を合わせぬよう深く頭を下げた。
「医師が到着いたしました」
やがて、私は懐かしい己の寝所へと連れ戻された。歩を進めるたびにキュッキュと鳴る廊下の「鶯張り(うぐいすばり)」、和紙を透かした柔らかな光を投げかける障子、そして、どこか甘やかな稲藁の匂い。そのすべてが、たまらなく愛おしかった。
下男たちに手伝わせ、苔と沼地の臭いが染みついた衣服を脱ぎ捨てる。これには抗わなかったが、下女たちが湯桶と布を運び込んできた瞬間、私はすぐに眉をひそめた。
「身体は自分で拭く」
視線をそらしながら、下男に長い髪をまとめさせる。今日はすでに十分すぎるほどの屈辱を味わったのだ。これ以上の恥晒しは、何としても勘弁願いたかった。
いや、やはり洗うのはやめだ。一日くらいこのままでいたところで、どうということはない。それほどまでに私は疲れ果てていた。今にも床に倒れ伏しそうなのだ。それなのに、肝心の医師は未だに私の傷を診にこない。一体どこをうろついているのか。
苛立ちと疲労にまみれ、激痛に耐えながら敷布団へと身を横たえ、深く息を吐き出す。ようやく我が家に戻れたのだ。ひとまずは、まだ生きて。
うたた寝をする間もなく襖が開き、せわしない足取りで医師が立ち入ってきた。その医師は、三つ編みに結った髭を蓄え、頭頂部は禿げ上がり、後頭部で小さな毛髷を結った、背の低い老人だった。
「若君、おみ足を拝見に参りました」
老医師はそう言って、愛用の木製の薬箱を大事そうに抱えながら一礼した。
ようやく来おったか。もう来ないのではないかと、本気で思い始めていたところだ。しかし、到着が遅れたことを咎め立てするのはやめておいた。へそを曲げた医師が、あの「野蛮人」の楓のように、酸っぱい草で私を本当に毒殺し兼ねないからだ。医師は、黒くこびりついた傷口を一瞥すると、重々しく首を振った。流れ出た血は、緑色のドロドロとした薬草の塊と混ざり合い、すでにカピカピに固まっている。そのおぞましい光景に、喉の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。
「どうなのだ?やはり脱疽か?」
医師は思案に暮れた表情を浮かべた。小さな小刀を取り出すと、彼は慎重に薬草の塊を削り落とし始めた。
再び、あの地獄のような激痛が走る。私は唇を強く噛み締め、口の中に生鉄のような味が広がるのを感じた。その直後、鼻を突いたのはあの生魚のような生臭さだ。やはり、脱疽とはこのような臭いがするものなのだろうか。
「どなたが、この薬草を施されたのですか?」
傷口を水で洗い流しながら、老人は尋ねてきた。
「野蛮人だ……森の、野蛮な女が」
脳裏に、あやつの不敵な笑みが思い浮かぶ。あの小娘、やはり私を毒殺しようとしたのだ。命の恩人などと、買い被りもいいところだった。
「では、そのおなごに出会えたのは、万死に一生の幸運でございましたな。この草が一族の毒を吸い出し、炎症を食い止めております」
医師は深く頷きながら、己の髭を撫でた。私は声を失い、呆然と目を丸くするしかなかった。
「……ということは、私の足は助かるのだな?」
私は、締まりのない愚かな笑みが顔に広がるのを抑えきれなかった。
「まだ断言はできませぬが、おそらくは。これから、特製の膏薬を塗って包帯を巻きましょう」
心強い言葉だ。この医師は、なかなか人を安心させる術を弁えている。私はようやくいくらか緊張を解くことができたが、それでも興味を惹かれ、老人が薬箱を探る手元をじっと凝視し続けた。
その箱の中には、丸みを帯びたものや箱型のものなど、様々な形状の土器の小壺がぎっしりと詰まっていた。その脇には、油紙に包まれた乾燥薬草の束もある。その中に、ハートの形をした葉が混ざっているのが見えた。――あの野蛮人が毟り取っていた、あの凄まじく臭い草だ。
小壺をじゃらじゃらと鳴らしながら、老人は丁寧な木製の蓋がついた小さな竹筒を取り出した。
私は期待を込めて身じろぎし、彼の方へと少し足を突き出した。
老いさらばえた指先で、老人は紫色の、どこからどう見ても酷く不快な臭いのする膏薬をすくい上げた。私は眉をひそめ、手のひらで鼻を覆いながら顔を背けた。
「……それは何という膏薬だ?」
「これは若君、豚脂と蜜蝋、そして紫根を練り上げた『紫雲膏』にございます。これさえあれば、どのような深い傷も瞬く間に癒えましょう」
「そうか……」
冷たい塊が引き裂かれた傷口に触れた瞬間、私は再び身体を強張らせた。両手で敷布団の端をギュッと掴む。あまりの激痛に、息をすることさえ忘れてしまうほどだった。
医師は私の悶絶などどこ吹く風で、淡々と処置を続けた。膏薬を塗り終えると、手際よく包帯を巻き始める。その手は一見か弱そうに見えて、恐ろしく器用だった。あの無残な傷口は、あっという間に白い布の下へと覆い隠されていく。
「……かたじけない」
突如として、自分でも思いがけず、小さな声が口をついて出た。途端に耳の付け根が熱くなるのを感じたが、老医師はそれを見てただ優しく微笑んだ。
阿呆な老人め。何が可笑しくて笑っているのか。だが、もう何も考えたくはなかった。私は再び敷布団へと身を沈める。結び目を解かれた長い髪が四方八方へと広がり、後頭部に柔らかな枕の感触を覚えた刹那、私は深い眠りへと落ちていった。
鼻を突いたのは、瑞々しい青草と竹の匂い。耳の奥では、聞き慣れた子供の笑い声が響いていた。疾風だ。あやつは広大な平野を駆け回り、些細なことにいちいち声を上げて笑っていた。ひらひらと舞う蝶を見つけては喜び、空高く円を描く猛禽を見上げてははしゃぐ。だが、あやつが本当に度を越した悪ふざけを始めたのは、その後のことだった。
葵がその短い足を必死に動かし、大声を上げながらその後を追いかけていく。
「疾風!大人の付き添いなしで、こんなに遠くまで来ては駄目って言われているでしょう!早く戻りましょう!」
弟はそれを受けてさらに調子に乗り、坂を駆け上がって杉の密林へと向かった。――熊沢一族の領地。我ら平野の民にとっては、決して立ち入ってはならぬ禁忌の場所だ。
木陰に身を隠し、妹を驚かせてやろうと手のひらを擦り合わせている疾風の姿が見えた。しかし、少女はなかなかやってこなかった。彼女は踵を返し、屋敷の方へと走り去ってしまったのだ。
そこで私は、脇差を手に取って鍛錬を始めようと思い立った。枕元の左手側に据えられた刀掛け(刀架)から、それを引き抜く。不意の襲撃に備え、いかなる時も即座に武器を抜けるよう、そこに据えてあるのだ。
普段なら、疲れ果てるか、あるいは腹が減って習字の時間になるまで、竹林の傍らで木刀や刀を振り続けるのが常だった。それにはいつも、二、三刻ほどの時間を費やすのだったが。
今、私は夢の中で再びいつもの場所で稽古に励んでいた。この辺りに忍び(シノビ)が姿を現すことなど滅多にない。高貴な一族の者が行方不明になったり、下男が逃亡したりといった緊急事態でも起きぬ限りは。
その鍛錬の手を止めさせたのは、葵の泣き声だった。
「お兄様!」
彼女は両手を伸ばし、なりふり構わず私の方へと駆けてきながら叫んだ。
「疾風が山へ逃げちゃったの!」
「どこへだと?」
私はあり得ぬことだと確信しながら眉を跳ね上げた。疾風とて、あの禁忌を知らぬはずがないのだ。
「本当よ、山の方へ!私は行かなかったわ。私たちはあそこへ行っちゃいけないんだもの」
あの時、私はあの忌々しい境目を越えてしまったのだ。今、夢の中でその光景を目にしながら、私は全身が凍りつくような感覚に襲われていた。身体が激しく震え、額には冷たい汗がにじみ出てくる。
だが夢の中の私は、杉の木の下で葵の到来を退屈そうに待ち続けている、あの疾風の姿をなおも捜し求めていた。あやつが一匹の蜘蛛を捕まえているのが見えた。おそらく妹の首元に放り込むか、後で台所にでも忍ばせるつもりだったのだろう。あやつはよくそんな悪さを働いていた。
葵は、私が屋敷に残るよういくら宥めても聞かず、まるで私の影のように後ろをぴたりとついてきた。彼女は「お兄様と一緒に敵対する一族の領地へ行くのなら、掟を破ったことにはならないわ」と言い張るのだった。
だんだんと息をするのが苦しくなっていく。山々は決して険しくはなかったが、何かが私の胸を強く圧迫し続けていた。
平野を照らしていた太陽は分厚い雲に覆い隠され、杉の木肌を覆う苔が不気味に明滅している。
その時、疾風の耳を突き刺すような悲鳴が響き渡った。
「疾風!」
私は何度も、何度も弟の名を呼び叫び始めた。
「疾風!」
しかし、返ってきたのは猛々しい熊の咆哮だけだった。次の瞬間、目の前に凄惨極まりない光景が広がった。熊がその強靭な顎で、私の幼い弟の身体を無残に引き裂いている。辺りは血の海だった。私の足元には、疾風がいつも履いていた、無残にかじられた一足の草鞋が転がっていた。
喉の奥に塊が詰まったようになり、叫ぼうとしても、あの獣を八つ裂きにしようと狂いまわっても、どうしても声が出なかった。
私は武器を放り出し、素手で熊へと躍りかかった。そいつを激しく引っ張り、なんとか弟から引き離そうとあがく。
「満!満兄様!やめて!」
また、誰かの声がした。それは疾風の声だった。私は慌てて辺りを見回し、ほんの一瞬、あの野蛮な女が不敵ににやりと笑いながら私の額をピンと弾く姿を見た。私は強く目を瞑り、そして再び目を開けた瞬間、疾風の姿が視界に飛び込んできた。
どうやら、私は夢遊病者のように弟の両肩を激しく揺さぶっていたらしい。あやつはまるで玉座にでも腰掛けるかのように私の上にまたがり、恐怖に怯え、涙で濡れた瞳で私を見つめていた。
喉はカラカラに乾き、身体は未だに激しく震え、さらに私の上に乗る弟の重みのせいで息をするのも苦しかった。けれど、そのような不快感などどうでもよくなるほど、あやつの姿を目にできたことが心から嬉しかった。
たわけ」
熱と疲労で声をかすれさせながら、私は弟を抱きしめた。あやつは抵抗し、腕から逃れようともがいたが、最後には諦めたように、紅潮した頬を私の胸へと押し当ててきた。
「その、伝えたくて……」
疾風は鼻を少しすすりながら口を開いた。泣いていたのだ。
「もう二度と、勝手に逃げ出したりしない。……ごめんなさい」
言葉だけでなく、私の寝間着にじわりと染み込んでいく少年の涙が、その本心を伝えていた。
「怒ってはいないさ……」
あやつを責める気にはなれなかった。あの谷底にいた時でさえ、怒りなど湧かなかったのだ。どれほど無鉄砲であろうとも、家族を守ることこそが私の義務なのだから。私は天井を見上げ、深く息を吐き出した。
疾風は私の腕の中で身じろぎすると、怯えた猫さながらに勢いよく飛び出していった。なるほど、合点がいった。あやつは道場での詮議の場から、お仕置きが終わらぬうちに抜け出してきたのだ。このような不作法を容認するわけにはいかないが、それでも私のために危険を冒したのだと思うと、胸が詰まる。
「疾風……二度と掟を破るでないぞ……」
私の言葉に、弟はただ袖で目を拭い、生意気そうに不敵な笑みを浮かべただけだった。返事などしてこない。それもそのはず、あれほど我がままで好奇心の強い塊のような男が、そのような約束を素直に守るはずがないのだ。少年は廊下の様子を窺うと、別れの挨拶代わりに小さく頷き、私の寝所から飛び出していった。直後にキュッと床板の鳴る音が響く。どうせ、またすぐに見つかって手酷くお灸を据えられるに違いない。
それからの丸一日、あるいはそれ以上の時間を、私はただ眠って過ごした。すっかり時の感覚を失ってしまっていた。
一族の長である父上からの呼び出しや叱責は、今のところなかった。職務で多忙を極めているのか、あるいは私が眠っている間に様子を見にこられたのかもしれない。目を覚ますと、外はすっかり暗くなっていた。枕元には、並々と水の注がれた土器の器と、小さな汁椀に入った味噌汁が置かれていた。まさに極上の時。喉の渇きも、腹の虫の鳴き声も、すでに限界に達していた。
二、三口で器の中身をすべて飲み干し、私は満足げに息をついた。今の私には、作法も躾もあったものではなかった。
外の灯籠の明かりは微かで、廊下をはじめ屋敷のすべてが静寂に包まれていた。部屋を見渡し、退屈を紛らわせる方法を考える。足に視線を落とすと、包帯は膏薬のせいで紫色に染まっていた。それから、文机の方へと目を向ける。筆は、私が置いていった時のままの姿で並んでいた。さらにその奥、床の間には、我が一族の家訓が記された掛け軸が厳かに掲げられている。――『蒼天の如き高み、揺るぎなき忠義』。
何度も目にし、とっくに暗記しているその言葉をなぞった、まさにその時――外の方から、パキリと何かが折れるような鋭い音が聴こえた。私は息を呑み、反射的に刀掛け(カタナかけ)から刀をひったくるようにして引き抜いた。
その野蛮な女の前髪は短く切り揃えられ、あれほど豊かだった眉は綺麗に剃り落とされて、その跡には小さな黒い艶ぼくろのような点が二つ、ちょんと描かれていた。――こやつは野蛮人などではない。どこからどう見ても、身分の高い「姫君」の姿であった。




