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熊と鶴  作者: Atsuko Zara
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一、楓

人は城、人は石垣、人は堀。

情けは味方、仇は敵なり。

武田信玄

一、楓

清々しい山の空気が肺を満たしていく。杉や桧に囲まれたこの場所では、自分が自由になれるのを感じる。ここには、一族の掟も、伝統も、他人の期待もない。ここでは心を落ち着かせ、胸いっぱいに自由を吸い込むことができる。だが、そんな自由も、あと一時間か二時間すれば二度と手に入らなくなるかもしれない。

明日はいよいよ、成人式――「裳着」の儀だ。私は大人とみなされ、近いうちに嫁ぐことになる。ただ、未来の婚約者が誰なのかは知らない。知りたくもない。一人前の女性になれば、もうこうして森の奥深くへ忍び込んだり、山の渓流で泳いだりする夢を見るくらいしかできなくなるのだろう。もしかしたら、私の夫となる人はこの土地の人間ではないかもしれない。私の大好きな三河の人間ですらないかもしれないのだ。こんなにも美しい景色を誇れるのは、我が熊沢一族だけなのに。

熊沢は、山林に生きる、人々から深く敬われる侍の一族だ。私たちは子供の頃から、男女問わず武芸や経済、そして習字や音楽といった退屈な諸芸を叩き込まれる。長老の豊光様にはいつも叱られてばかりだ。「お前には慎み深さが足りん。だから経済が身につかないのだ」と。どうしようもない。じっと座っているのは、恐ろしく退屈なのだ。習字は経済よりもさらに酷い。そこでは叔母と母からも小言を言われる。

だが、私にだって一番得意なことがある! 探しても、それに飽きることは決してない。――「鎖鎌」の修練だ。

父上が一度だけ私の稽古を見て、二、三度満足そうに頷いてくれたことがあった。

「まあ、その鎖鎌を人に向けずに済むなら、それが一番の喜びでございますね!」

下女の一人がそう叫んだことがあったが、すぐに口を噤んで黙り込んだ。もちろん、それが一番の喜びに決まっている。侍たちはよく戦の話をするし、私だって彼らに加わりたい。一族と名誉を守り、みんなを守りたい。でも……もし私が死んでしまったら? きっと、家族は深く悲しむだろう。

戦のことをあれこれと考えながら、私は森の歩みを進めた。薬草を集めがてら、一人になりたかったのだ。薬草採取は、私のもう一つの情熱でもある。年老いた下女の敦子は、出血を止める薬草や様々な木の実、そして、ごくわずかな量なら頭痛やあらゆる痛みを和らげる薬になるという毒キノコのことを教えてくれた。それは赤くて、傘に小さな白い斑点がある。若いうちは丸い球のようで、いつも面白いなと思う。

だが、今はキノコを採るのをやめておいた。夕暮れまではまだたっぷり時間があるし、持ち歩けばすっかり傷んでしまう。黄昏時が訪れるまでは、屋敷に戻りたくなかったのだ。

深く息を吸い込み、私はさらに森の奥へと分け入った。湿った苔の匂いが、だんだんと強く鼻をくすぐる。近くに谷があるはずだ。そこへ行くには、倒木をあと二本通り過ぎてから、右へ曲がらなければならない……。

あ、あの木々だ。幹には、ダークグリーンの「杉苔」が分厚い絨毯のようにびっしりと群生している。

倒木の幹に腰掛け、私はその柔らかいクッションを指先でつついた。

「ああ、この上に横になって、少しうたた寝ができたらどれほど素敵だろう。……そうだ!試してみよう」

そう思い立つと、私は深く考えることもなく、幹に沿って仰向けになり、両手を頭の下に敷いた。だが、折りたたんだ鎖鎌が腰に食い込み、かなり痛い。思わず顔をしかめて身を起こすと、帯からその武器を引っ張り出して地面に置いた。これを帯びたまま宛てもなく森を歩き回るのは不便なのだ。だからいつも、鎖は鎌に巻きつけ、刃は熊の紋様が描かれた革の鞘に隠している。そうしないと、じゃらじゃらと鳴る鎖が足元に絡まってしまうから。

小袖が、植物の湿気を吸ってかすかに湿っていく。それにしても、この幹は恐ろしく太い。両腕を回しても、到底抱えきれそうにないほどだ。何年も経てば、この木はどれほど大きく育つだろうと想像すると、急に少し切ない気持ちになる。けれど、湿った苔に頬を寄せていると切なさも忘れ、思わず笑みがこぼれてしまう。私の笑い声に驚いて、虫たちが慌てて逃げ出したような気がした。……いや、気のせいではない!

一匹の虫が、私の頬をせわしなく這い上がっていた。手で払いのけると、それは緑のクッションの上へと落ちた。

「小さな体で、こんな大男おおおとこに這い上がるなんて。下手をすれば殺されてしまうぞ?」

舌を鳴らして愚かな虫を諭しながら、私は指先でその体が起き上がるのを手伝ってやった。虫にしてみれば巨大極まりない私の指が容赦なく腹に触れると、そいつは一瞬で硬直した。だが、体勢を立て直すと、すぐに苔の茎の間へと身を隠した。エメラルド色に輝く背中をしており、私がこれほど注意深く見ていなければ、きっと見失って「大した忍び(シノビ)の腕だ」と褒め称えていたところだ。そうはいかなかったけれど。

やがて、その愛らしい見知らぬ客は、草むらに落ちたのか、あるいは樹皮の裏にでも潜り込んだのか、完全に姿を消した。どうやら、本当に優秀な「忍び」だったらしい。

頭を後ろに倒し, 空を見上げた。梢の間から木漏れ日が差し込み, まるで母の温かい指先のように私の顔をくすぐる。雲がゆったりと流れ、鳥がさえずり、蝉が鳴きしきっていた。昼下がり(ひるさがり)の蝉たちは、一段と賑やかだ。森のざわめきは、いつ聴いても素晴らしい。鳥や栗鼠、虫たちの声なら、いくらでも聴いていられる気がした。今もそうだ。目を閉じ、できるだけ息をひそめて、耳を澄ます。まだ見ぬ新しいさえずりが聴こえないかと……もちろん、聴き慣れた声も決して飽きはしないのだけれど。

しかし不運なことに、私のはらはその純粋な愉しみを拒み、すぐにへそを曲げた。お腹が空いたのだ。ぽんぽんと腹を叩きながら、いつも遠出のお供にしている水入りの瓢箪ひょうたんのことを思い出した。栓を抜き、中身をすべて飲み干す。胃袋はなおも不満げに鳴っていたが、やがて静かになった。水が、この容赦なくすべてを飲み込もうとする飢えの深淵をひとまずなだめてくれたのだ。

実のなる木でも探そうと立ち上がろうとしたその時、突如として呻き声が響いた。ぅ……、あぁ……」

それに続いて、かすれた呟きが聴こえる。音は谷の方からだ。すぐ目と鼻の先だった。

足を止め、私は再び息をひそめた。耳にした音が気のせいではないと、確かめたかったのだ。

また、呻き声。

意を決して私は音のする方へと急いだ。いつでも鎖を解けるよう、手元で準備を整えながら。何が起きてもおかしくはないのだから。

うっそうと茂る木々が、私の足音を一つ残らず吸い込んでいく。心臓の音がうるさいほどに速くなり、他の音が何も聴こえなくなるほどだった。耳の奥で血が激しく脈打っている。恐ろしかったが、それ以上に好奇心が勝っていた。谷へ近づくにつれ、音はだんだんと大きくなっていく。呻き声に混じって、水がピチャピチャと跳ねる音や、何かが擦れるような衣擦れの音が聴こえた。その響きは、まるで傷ついた獣のようだ。けれど、獣はぶつぶつと呟いたりはしない。やはり、あそこにいるのは人間なのだろうか。

この場所はいつも、ひどく湿気しっけを帯びていて薄暗い。折り重なった梢がすべての光を遮り、低く伸びた枝はまるで恐ろしい化け物の手のようだった。

太い幹の陰に身を隠し、私はそっと様子をうかがった。谷の向こう側の草むらは、誰かが激しくもみ合ったかのように乱暴に踏み荒らされている。視線をさらに下方へと落とす。恐怖がじわじわと込み上げてきたが、意を決して覗き込んだ。

――その瞬間、彼の姿が目に飛び込んできた。

白装束に身を包んだ、酷くやつれた顔の若者だった。髪は後頭部で小さく一房に結われ、残りは肩へと流されている。もっとも、今はその髪型もすっかり乱れ、白い着物は泥と草の緑色のシミだらけだったが。どうやら、勢いよく谷底まで転がり落ちてしまったらしい。

「そこにいるのは分かっているぞ!」

若者は手を振りながら、声を張り上げた。

「こっちへ来て、私を手伝え!」

その傲慢な命令口調に一瞬びくりとしたものの、三歩も進まないうちに私は眉をひそめた。何様のつもりで私に指図しているのだろう。冗談じゃない。私は素早く元の場所まで登り直すと、ふんと鼻を鳴らし、上から彼を冷たく見下ろした。

「おい、聞こえないのか? 私は怪我をしているのだ!」

またもя命令だ。今度は、駄々をこねる子供のように乱暴に草を叩いた。その拍子に泥が撥ねて自分にかかり, 彼は嫌悪感で顔を歪めた。さぞかし、本人にとっては不愉快極まりない状況なのだろう。

「確かに、怪由をしているようね」

この手の不届き者に対して抱きうる限りの軽蔑を込めて彼を一瞥し、私はわざとらしくため息をついた。見知らぬ彼の袴は左足のあたりが大きく引き裂かれ, そこから血がにじみ出ていた。酷い傷だ。これでは自力で歩くことなど到底できまい。

「それじゃあ……せいぜい頑張って這い上がることね!」

くすっとあざ笑うように告げると, 私は踵を返して歩き出そうとした。もちろん、本気で放っていくつもりなどない。この無礼な世間知らずに、少しばかりお灸を据えてやりたいだけだ。まずは「おなごには礼儀正しく接するべし」という教訓から。自分の不作法を自覚する時間を与えるために、私はわざとゆっくりと一歩を踏み出した。

背後から、苛立ちの混じった大きな溜息が聞こえてきた。

「私をこのような場所に置き去りにできるはずがなかろう!」

彼はなおも自説を曲げようとしない。その顔は、先ほどよりもさらに傲慢に歪んだように見えた。間違いなく、プライドの高い男だ。認めたくはないけれど、この私と同じくらいに。

「できるわよ!ほら、ご覧なさい。もう置いていっているでしょう?」

私はさらに遠くへ移動し、もう彼の姿は見えなくなった。二、三秒の間、彼からの物音すら途絶える。その瞬間、私の良心が内側からちくちくと痛み始めた。この男を見るのは初めてだし、その命の責任なんて負いたくはなかった。ただ、私の罪悪感というものは、彼が再び自分自身やこの世のすべてに向かって悪態をつき始めた瞬間に、綺麗さっぱり消え失せるのだった。私が残酷なのかもしれないけれど、そんな彼の姿を見ていると、哀れみよりもおかしさが勝ってしまう。

「おい、小娘!」

私がもう遠くへ行ってしまったと思ったのか、彼は声を張り上げた。

「手伝って……」

ゴクリと息を呑み、彼は付け足した。

「……くれ、頼む」

「最初からそう言えばいいのよ」

私は素早く草を滑り降りて彼のもとへ向かった。その時、十メートルほど脇のところに、何か大きくて茶色いものがあることに気づいた。私は瞬時に鎖鎌のじゃらじゃらと鳴る鎖を解き、地面にしっかりと足を込めて、その猛獣を迎え撃つ構えをとった。逃げ切ることは到底無理だろう。それならせめて、この死闘を生き延びるために抗うまでだ。

「そいつは死んでいる」

怪我人の若者がそう断言し、そこで私もようやく状況に気づいた。少し離れた場所に大きな熊が倒れており、その巨体には脇差わきざしが深く突き刺さっていたのだ。

私の表情が険しくなる。彼は熊と戦って勝利したのだ。その代償として傷を負ったのだろう。この生意気な男は、恐ろしく強くて勇敢だったのだ。再び彼を見つめ、私は目を細めた。これで合点がいった。あの衣服、卓越した武芸の腕、そして底知れぬプライドの高さ。――彼は鶴田一族の人間だ。

私の疑り深い視線と手にした武器に気づき、鶴田の男は片手を挙げた。

「私を仕留めに降りてきたのか? 大層な慈悲深さだな!」

彼は明らかに他人の堪忍袋の緒を切る天才だった。きっと、鶴田一族の血筋なのだろう。

「黙りなさい、さもないと置いていくわよ」

私はその場にしゃがみ込み、彼の傷口を検分した。辺りは血の海で、今もなお流れ続けている。傷口に意識を集中させながら、血と泥にまみれた着物の切れ端を取り除いた。骨に異常はなさそうだが、熊の爪が皮膚と筋肉を無残に引き裂いている。こうした傷は、癒えるまでに気が遠くなるほどの時間がかかる。そもそも治ればマシな方で、侍が破傷風で命を落とすことも珍しくはない。この不衛生な谷底では、最悪の事態を招きかねなかった。脱疽だっそはそれほど深刻な病なのだ。

けれど、正しい処置を施せば……。

布地の裂ける鋭い音が、低地に響き渡った。上の衣をたくし上げ、小袖こそでから思い切り布をちぎり取ると、鶴田の男は驚愕の目で見つめ、次の瞬間には大慌てで顔を背けた。顔を背けてくれて正解よ。さもなければ、私は我慢できずに彼の額をひっぱたいていたに違いない。

彼の足を持ち上げると、男はビクリと体を震わせ、唇を噛み締めながら一瞬だけ目を瞑った。激痛が走っているはずなのに、彼は罵り言葉を口にするのを堪えた。

「ここからがもっと痛いわよ」

舌を鳴らしながら、私は傷口の上側に布を固く縛りつけた。これで少しは出血を抑え、時間を稼げるはずだ。

「おい……もう少し優しくできないのか?」

彼の息は荒く、声には疲労がにじんでいた。思わず同情を禁じ得ないほどだったが、優しくなんてしていられない。

谷底を見渡すと、ハートの形をした葉を持つ小さな草の群生が目に留まった。――蕺草どくだみだ。まさに今、必要なのはこれだった。

泥を跳ね上げながら、私はその草の方へと向かった。我に返った鶴田の男は自力で立ち上がろうとしたが、次の瞬間には激しく地面へと崩れ落ちた。

「待て!どこへ行く?私は歩けないのだぞ!」

また始まった、この男の泣き言が。我が一族でよく言われていた通りだ。「鶴田の者は、温室育ちのふやけた連中だ」と。こんな大馬鹿者が、よくもあんな大獣を仕留められたものだと、呆れるのを通り越して感心してしまう。

「黙ってじっとしていなさい!」

私の命令口調に若者は不満げに眉をひそめたが、口を噤んで私をじっと観察し始めた。その視線が背中をひやりとさせる。彼がまともに戦える状態にないのが、せめてもの救いだった。さもなければ、間違いなく私の首をへし折ろうとしていただろう。それについては疑いの余地もない。澄んだ空のような色をしているくせに、その瞳の奥には油断ならない陰険さが見え隠れしていた。

白い四枚の花弁を持つ花に手を伸ばし、私は容赦なくそれを毟り取った。傷が深い以上、大量の草が必要になる。一掴みずつ乱暴に引きちぎり、私は急いで引き返した。途中で二、三本落としてしまったが、大半は無事だ。ついでによもぎの葉も少しばかり摘み取っておいた。

「それは何だ?」

肘で体を支えて起き上がりながら、大馬鹿者が尋ねてきた。

「薬よ。それ以外に何があるっていうの?」

私は不敵に笑うと、艾の一部を口に放り込んでガリガリと噛み砕き始めた。同時に手頃な石を拾い上げ、その間で蕺草どくだみの葉をすり潰していく。生魚のような生臭い匂いがたちまち辺りに漂い、男は露骨に鼻を歪めた。

「うっ、なんだこの凄まじい悪臭は?」

「悪かったわね」

の中で緑色のペースト状になったものを手のひらに吐き出し、私は付け足した。

「薬が薔薇の香りとでも思った?この、たわけ」

「貴様、何を……」

鶴田の男は侮辱されたと言わんばかりに顎を突き上げた。またそうやって、上から私を見下ろそうとする。まったく滑稽な男だ。しかし、彼は結局のところ、今回も己のプライドを飲み込むしかなかった。

「……ちっ、好きにするがいい」

こんな状況になってもまだ強がるなんて、本当に救いようのない分からず屋だ。「たわけ」

彼の目を真っ向から見据えながら、私はその緑色のドロドロとした薬を、裂けた傷口へと容赦なく叩きつけた。あまりの衝撃と激痛、そして強烈な草の刺激に、彼は思わず悲鳴を上げそうになった。不遜極まりないそのすまし顔が苦痛で崩れていく様は、見ていて実に小気味よかったけれど。

「なんておなごだ……」

鶴田の男は歯を食いしばり、忌々しげな視線を私に向けながら低く唸った。

「今のあなたにとって、私は唯一の命綱なのよ。たわけさん」

にやりと笑いながら、私は彼の鼻先をピンとはじいてやった。男は顔を真っ赤に染め、これほどの屈辱に耐えかねて震えていた。まあ、実を言うと、ただの手が滑った悪戯心にすぎないのだけれど。別に彼を辱めるつもりはなかったが、やってしまったものは仕方がない。この鶴田の若君には、これくらいがちょうどいい薬だろう。

若者は、おなごの前でこのような無様で脆い醜態を晒すことが、何よりも耐え難いようだった。その屈辱に満ちた表情が、すべてを物語っていた。

「忌々しい野蛮人が……」

男は再びそう呪うように呟き、長い指先で草を固く握りしめた。彼の爪の間には、すでに血の混じった泥が黒くこびりついている。

「そもそも、あなたはどうしてこんな場所にいるの?鶴田一族の阿呆どもは、森を一人で歩いてはならぬということすら知らぬのかえ?」

片眉を上げて彼を見下ろしながら、私は再び蕺草どくだみを口へと放り込んだ。

「我が一族を愚弄するな、野蛮人。それから、その草を噛むのをやめろ! 反吐が出るほど不快な臭いだ!」

「放っておけば、あなたの足は腐り落ちるわよ。どちらか好きな方を選びなさいな

私は大げさに肩をすくめると、これ見よがしにクチャクチャと音を立てて薬草を噛み砕いてみせた。確かに、この生臭さは育ちの良いお坊ちゃん方には耐え難い悪臭だろう。けれど、この草こそが傷口の毒を吸い出してくれるのだ。

「……それに、お前だってここで一人ではないか」

男は痛いところを突いてきた。

「私は特別よ。少なくともこの森を熟知しているわ。あなたのように、小綺麗な屋敷から一歩も出たことがないような温室育ちとは違うの。それで? 熊沢の領地で何を企んでいたの?」

その問いに、男はあからさまに眉をひそめた。――まさか、密偵しのびだろうか?

いや、これほど目立つ隠密がどこにいるというのか。衣服の質の高さから見ても、一族のかなり身分の高い若君であることは疑いようがない。そういう手合いは、決して単独では動かないものだ。私だって、一人で出歩くたびに長老たちから耳にタコができるほど説教をされている。ただの物好きの散策にしては、あまりにも立派な身なりをしすぎていた。

「……境目の近くで、幼い弟妹と散歩をしていたのだ。そこへ熊に襲われ、気づけばここまで逃れてきていた」

鶴田の男は、ふっと視線を落とした。――まさか、家族を守るために、自ら囮となって熊をここまで引きつけてきたのだろうか?

鶴田一族は、川を下った先にある広大な平野を領地としている。我が熊沢とは、古くから絶え間なく争いを続けている宿敵だった。

家族を守るため……。私は無意識のうちに頷き、胸の奥に小さな敬意が芽生えるのを感じていた。

「……それで、お前こそなぜこんな森に一人でいるのだ?」

私の衣服や乱れた髪に視線を走らせながら、彼は目を細めた。今の私は、一族の長の娘というよりは、どこからどう見てもただの下女にしか見えないのだろう。

「薬草を摘んでいたのよ」

私は深く考えることもなく、再び緑色のドロドロとした薬を傷口にのせた。彼の足がびくりと跳ねたけれど、今度は悪態をついてこなかった。薬草のおかげで炎症が引いてきているのだろう。これなら、足が腐り落ちる心配はなさそうだ。

若者の胸の奥から、重苦しい溜息が漏れた。彼は目を閉じ、きつそうに唾を呑み込む。明らかに酷い脱水症状を起こしていた。

私は腰の瓢箪ひょうたんをぽんぽんと叩いてみせた。鶴田の男は期待に満ちた目でそのボトルを見つめたが、すぐに絶望の色がその端正な顔に広がった。

「空っぽよ。近くの川まで行ってくるから、どこにも行かないでね」

「ははは、今すぐ走って逃げ出すさ」

彼は力なく笑いながら、自分の動かない足に視線を落とした。私は思わず額に手を当てそうになったが、代わりににやりと笑うと、そのまま谷の斜面を登り始めた。

お目当てのせせらぎは、谷からそう遠くない岩の突き出た場所を流れていた。水のせせらぎに耳を傾けながら、私は自分がなぜこんな状況に陥ってしまったのかを考えていた。もし一族の者に、鶴田の人間を救ったことが知れれば、即座に厳しい処罰が下るだろう。それなのに、なぜ私は彼を放っておけなかったのだろう。……やはり、置いていくべきだったのだろうか。

分からない。けれど、もし見捨てていれば、罪悪感と良心の呵責にずっと苛まれ続けたに違いない。

私は瓢箪の栓を抜き、せせらぎの縁にしゃがみ込んで水の中へと沈めた。小川の奏でる清らかな歌声は、さっきまで聴いていたあの怪我人の呻き声とは、あまりにも対照的だった。澄んだ水は石の上を滑り、どこか遠くへと流れ落ち、やがて森の暗がりの向こうへと消えていく。小さな川ではあるけれど、長い時間をかけて自らの道を切り開き、岩を削り、大地を穿ってきたのだ。そのひたむきな力強さには、深く心を打たざるを得ない。

水が満ちると、かがみ込んで冷たい水を両手で掬い上げるたびに、瓢箪が太ももに鈍い音を立てて当たった。一口水を飲み、両手に残った水で顔を洗う。途端に息をするのが楽になり、爽やかな風が、まるで悪戯な子供のように私の頬を撫で、髪と遊んだ。

ようやく鶴田の男のもとへ戻ろうとしたその時、突如として岩場の方から何かが擦れるような衣擦れの音が聴こえた。続いて、小石の転がる音。誰かがすぐ近くを這い回っている。それが誰なのか、今の私には確かめる余裕も、そんな気変りもなかった。だから私は、武器をひったくるように拾い上げると、谷底へ向かって全力で駆け出した。冷たい空気が肺を焼くようで、足元は柔らかい草や苔の中へと沈み込んでいく。

地元の侍たちの韋駄天いだてんの記録をも塗り替えてしまうのではないかと思うほどの速さで、私は走った。彼らは普段、私などよりずっと速いのだけれど。

再び谷底へと滑り降りると、鶴田の男と視線が真っ向からぶつかった。彼の顔に、必死に隠そうとしてはいるものの、安堵の光がふっと灯ったように見えた。それでも私は、息を切らしながら歩み寄り、彼に瓢箪を差し出した。

「……走ってきたのか?」

若者は瓢箪を受け取りながら、警戒混じりの声で尋ねてきた。その指先が一瞬、私の手に触れたが、私は慌てて手を引き、額の汗を拭った。最初は礼儀正しく答えようと思ったけれど、次の瞬間には気が変わった。

「私のもとへ、それほど急いで?」

「まさか」

私は忌々しげに目を剥くと, 両手を膝について身体を支えた。

ふう。

背後には熊も、他の獣の気配もない。幸いなことに、追っ手はいなかった。

鶴田の男は瓢箪に噛みつくようにして、貪るように水を喉へと流し込んだ。よくもまあ、喉を詰まらせないものだと呆れてしまうほどだった。

「あなた、きっと探されているのでしょう?」

「分からぬ……」

彼は傷ついた足に視線を落とした。どうやって我が家へ辿り着くべきか、あるいは追っ手の、いや、迎えの者を待つべきか、考えているのだろう。けれど、もし彼の一族が捜索のためにこの地へ踏み込めば、熊沢が黙っているはずがない。それは間違いなく「侵略」とみなされ、乾いた柴に火を放つようなものだ。大火事になるのは目に見えている。そう思うと、私も急に暗い気持ちになった。

谷の斜面に腰掛け、深く息を吐き出しながら、私はそっと首筋に手を当てた。状況は酷く厄介なことになりつつある。いくら自分の武芸の腕を試してみたいと思ってはいても、一族同士の正面衝突しょうめんしょうとつだけは避けたかった。きっと、この「たわけ」も同じ気持ちに違いない。

ったく、あの熊と一緒に別の方向へ逃げられなかったのかしら?

あるいは自分のところの竹林を越える前に、さっさと片落かたおとしにしておけばよかったのよ。そもそも、私はなんでしゃしゃり出てしまったんだろう。今頃はのんびり歩きながら、薬草や実を集めていたはずなのに。そういえば、私はまだ何も食べていない。どうして忘れていられたのかしら。

鶴田の男は口を噤んだ。もう不遜な態度は取らず、ただ時折こちらを盗み見ては、魚のように口を開けては閉じていた。

「立ち上がりなさい」

私はぶっきらぼうに命じた。

「あなたの家まで送り届けてあげるわ」

若者は驚きに眉を跳ね上げた。

「……助けてくれるのか?」

「ええ、あなた一人じゃ到底辿り着けないでしょう。それに、あなたのお仲間がこの深い森であなたを見つけ出せるわけがないわ。本音を言えば、このまま放り出してやりたいところだけど……これが一族同士の無用な衝突を避けることになるのなら、仕方のないことよ」

青い瞳の若者は、不器用な動作で立ち上がろうとした。私はその隙に鎖鎌を折りたたみ、背中側の帯へと押し込んだ。この頑固者が自力で歩けないのは火を見るより明らかだった。足の激痛は凄まじいのだろう。彼は己の誇りを汚すまいと、唇を噛み締め、顎に力を込めて耐えていた。

「私につかまりなさい」

泥を跳ね上げながら傍らに歩み寄り、私は彼の隣に立った。彼は私よりずっと、それこそ見上げるほど背が高かった。ついていない。これでは文字通り、上から私を見下ろされることになる。なるべく彼を見ないように努めたが、それでも視界の端で、彼が酷く渋々とした様子で私の首に腕を回してくるのが分かった。

「野蛮人」と呼んだ相手を頼るなど、彼にとっては身を削られるほど屈辱的なことに違いない。だが、背に腹は代えられないのだろう。

もちろん、彼を丁重に扱ったり、優しく優遇してあげるつもりなんて毛頭なかった。私の目的はただ一つ、戦を阻止すること。甘い雰囲気など必要ない。だから私は彼の腕をぐいと引っ張り、余計なプライドなど捨ててさっさと体重をかけるよう促すと、もう片方の手で彼の背中をしっかりと支えた。もしこれが別の状況なら、私は気恥ずかしさに身をよじっていただろうし、もし彼が私をこんな風に手荒に扱ったら、間違いなくその脳天をひっぱたいてやったところだ。

鶴田の男は身体を硬くして顔を赤らめ、明らかな困惑に目を丸くした。

「……野蛮人が」

彼はそうボソリと毒づいたが、私を突き飛ばそうとはしなかった。

私たちは谷底を南へと進んだ。私は時折、境目のあたりまで足を延ばすことがあった。そこは一歩進むごとに、杉の森から混交林、そして竹林へと滑らかに景色が移り変わっていく場所だ。けれど、怪我を負った身でその境目まで移動するのは至難の業であり、ましてや彼自身の屋敷まで辿り着くなど、気の遠くなるような話だった。

やがて、沈黙がひどく気まずいものへと変わっていった。この若者の重みのせいで、私の息はすっかり乱れている。まるで一万貫いっまんがんもあるのではないかと思うほどの重量だ。彼は頑なに私へ完全に寄りかかることを拒み、時折その痛む足を踏み出してしまう。そのたびに痛烈に顔をしかめ、私の肩をギュッと掴み、そこへ青あざが残るほど強く握りしめるのだった。

「おい、野蛮人。お前の名は何という?」

鶴田の男は歯を食いしばりながら、沈黙を破った。私はすぐには答えず、わざとらしくフンと鼻を鳴らして顎を突き出してみせた。この男、私を「野蛮人」と呼ぶのがすっかり悪い癖になっている。

「耳が聞こえぬわけではなかろう」

「ああ、もう!」

私は声を上げると、下から彼を睨みつけ、その額をピンと弾いてやった。

「少しはまともに振る舞ったらどうなの、この大馬鹿者」

「痛っ!」

若者は声を上げ、額を押さえた。そんなに強く叩いたわけではない。あの熊の一撃に比べれば蚊が刺したようなものなのに。

かえでよ。私の名は楓」

私は彼の支え直すと、再び前方へと引っ張り始めた。

「ふうん、楓、楓か……」

彼は私の名を確認するように、何度か口の中で呟いた。本当に癪に触る男だ。

「いや。私はその名が気に入らん」

「勝手にすれば。私には関体のないことよ」

「そんな冷たいことを言うな。お前の親は、まったく名付けの風情というものを知らんと見えるな」

激痛に耐えているはずだというのに、彼はわざわざ甘ったるい嫌味な声にトーンを落としてみせた。まるで自分がすべてを知り尽くしているかのような物言いだ。本当に気取った男。

「へえ、そうなの?それなら、自分の立派な名前を自慢してみなさいな」

彼は少し口を濁し、相変わらず足を引きずりながら歩み続けた。やがて私たちは、谷底から這い上がりやすそうな場所に辿り着いた。私は彼を下に置き去りにしたまま、真っ先に上へと駆け登った。彼は不満げに眉をひそめ、どうすれば痛みを伴わずに私のところまで登れるか、じっと頭の中で算段し始めた。

そもそも、彼の名前なんて知りたくもなかった。私に何の関係があるというの?

鶴田の男があまりにも下で もじもじと躊躇ためらっているので、私は仕方なく手を差し伸べてやった。もう片方の手で、近くに生い茂るつるを掴む。その瞬間、何百もの小さなとげが手のひらに突き刺さった。よく見ておけばよかった。不運なことに、それは木苺きいちごの蔓だったのだ。

私は慌てて手を引っ込めると、手のひらを衣服に強くこすりつけた。不快ではあったけれど、泣くほどの痛みではない。私は声を上げることも、涙を流すこともしなかった。ただ静かに唇を噛み締める。けれど、それでもやはり、目の奥が少しばかり熱くなってしまった。

「ノミにでも食われたか?」

谷底に突っ立ったまま、鶴田の男がその馬鹿げた薄汚い笑みを浮かべて尋ねてきた。なんて大馬鹿者かしら。

「あなたのせいで手を怪我したのよ!このままここに放り出して、次の熊が来るのを待たせてやろうかしら!」

「悪かった、悪かった……うざい奴だな。ほら、その手を貸せ」

この甘やかされて育った唐変木とうへんぼくへの怒りを燃やしながら、私は袖を手のひらまで引っ張り、再び蔓を掴んだ。布越しなら、刺もそれほど痛まない

ようやく、鶴田の男が私の手をしっかりと握り締めた。驚いたことに、その手は何もしてこなかったお坊ちゃんのような柔らかいものではなく、むしろ少しばかり無骨で、ざらついていた。きっと、日々凄まじい鍛錬を積んでいるのだろう。

彼は息を荒くし、呻き声を漏らしながら、私の方へと登り始めた。

「それにしても、なんて重さなのよ」

私は彼を引き上げようと必死に踏ん張りながら、ぶつぶつと文句を言った。このせいで、私の背中と足はきっと向こう一週間は痛むに違いない。ぬかるんだ泥に足元が滑り始めたその時――彼がようやく私の隣まで辿り着いた瞬間、私は完全に足を滑らせてしまった。

視界を梢と雲、そして太陽が激しく駆け抜けていく。私は背中から真っ直ぐ苔の上へと不時着した。頭を突き出た杉の根に軽く打ち付けたその瞬間、目の前にいくつもの太陽がちかちかと飛び交うのが見えた。

だが、災難はそれだけでは終わらなかった。突如として、我が身に凄まじい重みを感じたのだ。鶴田の男は体勢を保てずに私の上へと倒れ込み、その衝撃で私の肺からすべての空気が押し出された。

私は死んでしまったのかもしれない。これ以上の屈辱がこの世にあるだろうか。幸いにも、彼はすぐに両手で身体を支えて起き上がった。私は安堵のため息を漏らす。彼が私を押し潰すことはなくなったが、代わりに彼は私の上に覆いかぶさったまま、信じられないほど激しく瞬きを繰り返していた。彼の薄茶色の髪が私の首元へと流れ落ち、額や頬をくすぐる。

「おい、大丈夫か?野蛮人、生きているか?」

彼の瞳には、明らかな恐怖の色が浮かんでいた。若者は私の頬をペチペチと叩き始める。そのおかげで少しばかり意識がはっきりとし、同時に凄まじい怒りが湧き上がってきた。よくもまあ、私の上に倒れ込んだだけでなく、この身体に不躾に触れてくれたものだ。

彼の怪我のことなど綺麗さっぱり忘れ、私は勢いよく上半身を起こすと、そのあごへ向かって己の額を思い切り叩きつけた。彼の顎は木札か何かでできているに違いない。なぜなら、その衝撃の激痛は私の頭にも容赦なく響き渡ったからだ。

「痛っ!この大馬鹿者!たわけ!」

私は打った額を押さえながら罵声を浴びせた。鶴田の男はその一撃で一気に横へと転がり、こちらも激しく私を怒鳴りつけてきた。

「私はお前が死んだかと思ったのだぞ!この野蛮人が!それなのに殴るとは!」

「私の堪忍袋の緒をこれ以上引っ張るんじゃないわよ!」

額は赤く腫れ上がり、彼の顎も同じように赤くなっていた。私は立ち上がり、足元を少しふらつかせながらも、今度こそ彼をここに置き去りにしてやろうと固く決意した。

「もうたくさんよ!そもそも、私があなたを助けてあげる義理なんてこれっぽっちもないんだから!」

鶴田の男はもがくのをやめ、今すぐ私の手を掴みかねないような目で見上げてきた。彼の胸は激しく上下に波打っている。

「待て!私はお前を……怒らせるつもりはなかったのだ……」

この長くて過酷な一日の中で、若者は初めて申し訳なさそうに視線を落とした。彼の頬は赤らんでおり、その不器用な反省の姿に、私は少しばかり毒気を抜かれてしまった。どうであれ、私は一度始めたことを途中で投げ出すのが嫌いな性分だ。それに、この温室育ちの若君をここに残していけば、到底生き延びることはできまい。

「ただし、これ以上私に口答えはしないこと!」

私は両手を腰に当て、上から彼を毅然と見下ろした。鶴田の男は小さく頷いた。「それから、私のことを二度と野蛮人と呼ばないこと!」

この条件に、鶴田の男は不満げに頬を膨らませ、承服しかねるという風に顔をそむけた。

「だったら、私は行くわよ!」

私が迷うことなく北へと踵を返すと、背後から深く長い溜息が聞こえてきた。

「……分かった」

その契約成立の証とでも言うように、今度は彼の腹がぐうと鳴り響いた。すると、私の腹もそれに呼応するように声を上げる。どうやら、この飢えた猛獣を水だけで宥めるのは無理だったらしい。

「まずは腹ごしらえね……」

「しかし、何を食べるのだ?私は何も持ち合わせていないぞ……」

鶴田の男は草の上に座り込んだまま、自分の体をぽんぽんと叩いてみせた。確かに、彼は完全に手ぶらだった。自分の瓢箪も、旅の道糧を入れる袋すら持っていない。私の水も一息に飲み干してしまったし、もう一度水を汲みに行く時間はない。考え込みながら、私はさきほど木苺の刺が刺さった自分の手を見つめ、ふっと吹き出してしまった。

「ここは森よ!食べ物なんていくらでも転がっているわ!もっとも、あなたのような籠の鳥のお坊ちゃんが知るはずもないでしょうけれど」

私はわざとらしく目を剥くと、誇らしげな足取りで、あの忌々しい蔓が生い茂る場所へと向かった。

鶴田の男は次の皮肉を必死に噛み殺しながら、目を丸くして私の後ろ姿を見つめていた。

「ほら、食べ物よ」

私は指先で、小さくて紫がかった果実を指し示した。爪先立ちになり、一掴みほどの実を毟り取ると、彼の手のひらに差し出した。

「食べなさいな」

若者は警戒交じりの目で私の手のひらを覗き込み、目を細めて私を見上げた。

「……お前が先に食べろ」

「じゃあ、私が全部食べてあげるわ」

私は二、三粒の実を口に放り込むと、大げさに首を振って美味しそうに声を漏らしてみせた。

「んん……なんて美味しいのかしら!」

実は甘みの中にほのかな酸味があり、独特の渋い後味が残った。一昨日の雨のせいで、晴れた日に採るものよりもずっと酸っぱくなっていたけれど、空腹の身にはこれ以上ないご馳走だった。

若者の腹が再び抗議の声を上げ、ついに彼は降参した。実を二、三粒つまむと、口へと運ぶ。恐る恐る噛み始めたが、すぐにその端正な顔にぱっと笑みが広がった。「本当に美味いな!まだあるか?」

彼はすぐに蔓の方へと視線を走らせた。だが、そこにはもう実が残っていなかった。

「行きましょう、道すがらまた見つかるわよ」

私は再び彼が立ち上がるのを手伝った。彼の身体から先ほどほどの緊張は消え、私が何か美味しいものを見つけるか、あるいは自分の屋敷へ辿り着くのを、今か今かと待ち望んでいるようだった。

やがて、森の木立が少しずつ薄くなり始めた。空腹は一向に満たされない。私自身も何か口にしたかったので、歩きながらしきりに辺りを見回した。

「おい、これは食べられるのか?」

鶴田の男が指さしたのは、四枚の葉の中心に、大きな黒い実を一つだけ実らせた背の低い茎だった。彼が手を伸ばそうとした瞬間、私はその手をピシャリとはたいた。

「触っちゃ駄目……それは『衝羽根草つくばねそう』よ。毒草なんだから」

「だが、美味そうな見た目をしているのに……」

鶴田の男は、まるでその実から裏切られ、侮辱でもされたかのように落胆した目を向けた。私は少しばかり彼が不憫になってしまった。

「こっちなら食べられるわ、おいで」

私は彼を一本の杉の巨木へと引っ張っていった。その足元には、三枚の葉を持つ小さな植物が緑の絨毯のようにびっしりと群生している。鶴田の男は不満げに眉を跳ね上げた。きっとまた実が食べられるとでも思ったのだろう。本当に、葉っぱを前にしてそんな顔をするなんて、愚かな男。

彼が幹に寄りかかって待つ間に、私はその葉を手際よく摘み取った。小さな束にまとめると、その半分を彼に差し出す。

「これは『酢漿草かたばみ』よ」

葉を咀嚼そしゃくすると、強烈な酸味が口いっぱいに広がった。鶴田の男もそれを口にした瞬間、凄まじい形相で顔を歪めた。

「酸っぱすぎる!」

若者は噛み砕いた葉を勢いよく吐き出し始めた。私はすかさず、その額にピンと強烈な圧を加えてやった。

「何を贅沢言っているのよ!食べ物を無駄にするなんて、なんて無作法な男かしら!」

「いい加減に叩くな!」

男は怒りながら、手のひらで口元を拭った。それから、舌を鳴らしながら、口の中が酷く渋るのに気づいたようだった。

「舌が痺れるぞ!この草、本当に毒ではないのか!」

「なんて手のかかる人……」

私は深くため息をつくと、お決まりのように目を剥いた。しかしその瞬間、この気取った男に食べさせる別の「ご馳走」が目に留まった。私は不敵ににやりと笑うと、次の森の間食をどうやって手に入れるか、じっと作戦を練り始めた。

「その不敵な笑みは気に入らん! 言わんこっちゃない……貴様、私を毒殺する気だな!」

彼が喚き散らしている間、私は木の周りを歩き回った。杉の木に登る気なんてさらさらない。ただでさえ、もうくたくたなのだ。私はパンと一度手を叩くと、跳ぶようにして彼の隣へと移動した。彼の腕を強引に私の首へと回す。男は抵抗しようとしたが、その拍子に痛む足を踏み出してしまい、途端に声を失った。

「ちょっとそこでじっとしていなさい。もう一つの『ご馳走』を見つけたから!」

「ご、ご馳走だと……?さっきの草で……もう十分だ。見ろ……舌が痺れて、まともに喋れん……」

鶴田の男はべーっと舌を突き出し、薬草のせいでいかに自分が酷い目に遭っているかを必死に誇示してみせた。

「大げさね、酢漿草かたばみを食べて死んだ人なんて聞いたことがないわよ!」

私はふんと鼻で笑って彼をあしらうと、杉の木から少し離れた場所へと彼を置いた。それから、帯の背中側から鎖鎌くさりがまを引き抜いた。

「な、何を……?やはり私を殺す気か!?」

若者は今度こそ怯えたように身を引くと、隣の木の幹に背中をぴたりと預けた。「覚えておけ、もし私が死んだら化けて出てやるからな!毎日、貴様の枕元に立ってやる!」

「お断りよ、そんな恐ろしい呪いは勘弁して!そもそも、婚礼の前におなごの元へ毎夜通うなんて、男としてはしたないわよ!」

「なっ……!?」

彼は再び顔を真っ赤に染め、大慌てでそっぽを向いた。ともかく、これで静かになったし、私を毒殺魔呼ばわりするのもやめたようだ。なんだか、こっちまで頭が痛くなってきそう。痛みを和らげるために、今度は私が何か草を噛まなければならないかしら。本当、この手のかかるお坊ちゃんには困ったものだ。

私は鎖鎌の鎖を解きながら、狙いまでの距離を頭の中で測り始めた。じゃらじゃらと金属音が響き、鎖が地面へとこぼれ落ちる。

狙うは、杉の若いこずえだ。

私はゆっくりと、円を描くように鎌を振り回し始めた。刃が風を切り、かすかな風鳴りの音を立てる。足を肩幅に開き――そして、放った。鎌が宙を舞い、お目当てのものの少し上にある枝を切り落とした。……どうやら、自分の鎖鎌の腕前を少しばかり自慢しすぎていたらしい。

枝は木の下へと落ち、私はぶつぶつと不満を零しながらその側へと歩み寄った。私のこの大失敗は、当然ながら鶴田の男に丸見えだった。またしても屈辱。けれど、気にする必要はない。最初からこの枝を狙っていたという顔をすればいいのだ。そうよ、それがいいたわ。どうしてすぐに思いつかなかったのかしら。

私は枝の傍らにしゃがみ込み、何か少しでも役に立つものがないかと検分し始めた。すると――ああ、なんて幸運なのかしら!私は思わず喜びの声を漏らしてしまった。

松明まつかさだ!この枝には、立派な松ぼっくりがついていたのだ!当然、最初からこれが狙いだったということに決まっている。

宝物でも掲げるように松ぼっくりを天へと突き出し、私は誇らしげに鶴田の男の方を振り返った。しかし、彼を残しておいたはずの木の根元は、もぬけの殻だった。まさか、また熊に連れ去られたのだろうか?何しろ、彼は熊たちのお気に入りらしいから。

私は鎖鎌の鎖を手急にたぐり寄せ、すべてを胸に抱きしめるようにして、あの唐変木を置いていった場所へと急いだ。そして木の裏を覗き込むと、彼が必死の形相で足を引きずり、歩こうとしている姿が目に留まった。当然ながら、大して進めてはいなかったけれど。一体、誰から逃げようとしているのかしら。

私は慌てて辺りを見回した。猛獣の気配はない。本当に妙な男。

「おい」

私は彼の隣に並んだ。実を言うと、完全に呆れた目を向けていたと思う。彼は私の声を聞いた瞬間、またしても激しく狼狽し、痛む足を踏み外して地面へと崩れ落ちた。今度は、鋭い悲鳴が森に響き渡る。

「貴様、正気か!」

私は眉をひそめた。せっかく食べ物を調達してきてあげたというのに、まだ私を怒鳴りつけるなんて。私は怒りに任せて、松ぼっくりを彼の顔面めがけて投げつけた。額を狙ったつもりだったけれど手元が狂い、彼は再び絶叫した。

「松ぼっくりで私の目を突き破る気か!賢いな、野蛮人。実に賢い!死ぬ前に私を盲目にする気だな!」

「何が死ぬ前よ!そんなところで泥まみれになって転がっているから、そんなことになるのよ!」

「貴様、私を殺したいのだろう!」

鶴田の男はなおも食い下がってきた。松ぼっくりが直撃した片方の目は涙が溢れ、彼はそれを手で覆っていた。彼の言葉に、私は一瞬言葉を失った。彼を殺したい、ですって?私はただひたすらに、この男を救い続けているというのに!

「だったら、私があなたをわざわざ谷底から引き上げてあげるわけがないでしょう!?」

鶴田の男は、まだ無事な方の目で私をじっと見つめながら考え込んだ。彼の大層な頭脳の中で、ようやく何かが噛み合い、形を成し始めたのだろう。おそらく、私が正しく、自分が愚かであったと気づいたのだ。当然、私も口を噤んだが、彼の葛藤かっとうを観察するのはこの上なく愉快だった。彼は眉をひそめ、へそを曲げ、私から視線をそらしてはまた戻し、再び眉をひそめていた。

「……お前の言う通りだ」

鶴田の男は髪の一房を耳の後ろへと払ったが、どうしても私と目を合わせようとはしなかった。だが、私の正しさを認めただけで十分だ。これ以上、彼に謝罪までさせたら、本当にプライドが死んでしまうかもしれない。そこまで彼を追い詰めるのはやめておこう。

私は傍らに鎖鎌を放り出すと、素手であることを示すように歩み寄り、彼の前にしゃがみ込んだ。彼は武器の行方と、私の動きをじっと目で追っていた。

「もう武器は持っていないわよ」

私は自分の体をぽんぽんと叩いて彼を安心させた。腰の瓢箪が太ももに当たる音だけが響く。彼はようやく息を吐き出し、目から手を退けた。私は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。彼の目はすっかり腫れ上がり、真っ赤になっていたからだ。あの松ぼっくり、致命的な一撃だったらしい。身を挺して私を笑わせてくれたのだから、あとでその働きを労って(ねぎらって)あげなければ。

私は座り心地のいい場所を見つけ、鎖鎌の分銅ぶんどうを手元へと引き寄せると、中から実を取り出すために松ぼっくりを叩き割り始めた。鱗片りんぺんが四方八方へと飛び散っていく。

「なかなか、手慣れているな……」

鶴田の男はきまり悪そうに袖を整えた。どうやら、他人に追従ついしょうを言うのは慣れていないらしい。

「松ぼっくりを叩き割るのが?」

私はくすっと笑いながら、いくつかの木の実(松の実)を殻から剥き出し、彼へと差し出した。今度は彼は疑うこともなくそれを口にし、おそらくは感謝の印として、小さく頷いた。

「それから、松ぼっくりをぶつけるのもな」

彼は自分の腫れ上がった目を指さし、ふっと微かに笑った。

次の木の実は、私が自分で食べた。それは甘く、油分を含んでいて濃厚だった。苺と同じように、それほど数が多くないのが実に惜しい。

ご馳走はあっという間になくなってしまった。空腹が完全に満たされたわけではなかったが、飢えの痛みはいくらか和らいだ。

それからの道のりは穏やかなものだった。彼の絶え間ない溜息にもすっかり慣れてしまい、もう苛立ちすら覚えなくなっていた。

杉や桧の木立が背後へと遠ざかっていく。地勢が変わりつつあった。平野に出ると、それまでとは全く異なる感覚に包まれる。杉の密林では一里先で何が起きているかも見通せないが、ここなら崖を登らずとも遥か遠くまで見渡すことができた。これこそが、鶴田一族の領地との境目なのだ。広々として、軽やかで、光に満ちている。そう、ここでは太陽が木々に遮られることがない。

「……みつる

私は眉をひねった。彼が何を言っているのか分からなかったのだ。

「……私の名だ」

なるほど、この阿но男の名は満というらしい。私は心の中で、満という名が彼に酷く似合っているな、と思った。その響きと同じように、彼自身もどこか洗練されていて、物柔らかだったから。

私が興味深くその果てしない広がりを眺めていた時のこと、私たちは小さな竹林へと差し掛かった。わずかな微風に揺られ、竹の幹が互いにカチカチと音を立てて鳴り響く。その乾いた音が、私たちの足音を見事に消し去ってくれていた。

ここがどれほど美しい場所かを口にしようとした、まさにその瞬間――突如として、首筋に鋼のような強烈な力で掴みかかられるのを感じた。続いて、私の身体は容赦なく脇へと投げ飛ばされた。両手で身を守る間もなく、私は竹の幹に激しく叩きつけられた。

満は崩れ落ちそうになったが、鈍色の忍び装束(シノビ装束)に身を包んだ一人の男にその身体を支えられた。私は猛烈な恐怖に襲われた。――鶴田一族の忍び(シノビ)だ。

刹那の間に鎖鎌を引き抜き、近接戦に持ち込もうとしたが、喉元に血も凍るような冷たい刃がピタリと押し当てられるのを感じた。生唾を呑み込むことすら恐ろしい。二人の護衛が、普段は竹の杖に仕込まれている仕込みしこみづえの刃を、私に向けて真っ直ぐ突き出していたのだ。

「武器を捨てろ、小娘」

満を庇うように立つかしららしき忍びの低い声が、雷鳴のように轟いた。彼らは私を脅威とみなしている。戦を避けたかったのに、これではすべてを台無しにしてしまった。

武器をさらに固く握りしめながら、私は自分が袋の鼠になったような心地がしていた。これは、彼らの罠だったのだろうか。熊沢一族の長の娘を誘い出し、人質にするための?

いいえ。生きたまま捕らわれなどしない。

私の目はせわしなく左右に泳いだ。殺しの術を叩き込まれた忍びどもを相手に、私に勝ち目などほとんどない。

申し訳ありません、熊沢の皆々様。私は本当に、不甲斐ない娘です。

刃がさらに強く皮膚に食い込んできた。切り傷から血の滴が零れ、小袖こそでへと染みを作っていく。彼らは殺さなかった――まだ、その時ではないだけだ。ただ圧倒的な力量の差を見せつけているにすぎない。

石川いしかわ

あの裏切り者が口を開いた。やっぱり、あのまま死なせておけばよかったのだ。彼の声を耳にした瞬間、私は激しく牙を剥いた。忍びの頭が彼へと視線を向ける。

「その者は、私の命の恩人だ。手を出すな」

「若君……」

男は苦々しく眉をひそめたが、それでも手を挙げると、他の忍びたちも一斉に武器を引いた。

私の心臓は、今にも胸からはじけ飛びそうだった。自分が息を止めていたことにすら、今の今まで気づかなかったほどだ。

「私はその者に命を救われたのだ」

みつるは言葉を続けた。今の彼は背筋をすっと伸ばし、どこまでも気品に満ちた立ち振る舞いをしており、先ほどまでの我がままなお坊ちゃんの影はどこにもなかった。けれど私は、一刻も早く我が家へ、せめて一族の領地へと引き返したかった。満が庇ってくれたとはいえ、張り詰めた緊張感と不信感は依然として消え去ってはくれなかったから。

彼が忍びたちに顎で合図を送ると、彼らは二、三歩退がり、そのまま竹林の影へと姿を消した。

「残らぬか?もうすぐ日が暮れる……」

満は竹の幹に身体を預けながら、顔を赤らめて言った。なんて殊勝な物言いかしら。きっと、罪悪感を覚えているのだろう。けれど、彼らのもとに留まるなんて到底不可能な話だった。たとえ外が暗闇に包まれようとも。私は我が家へ、家族のもとへと戻らなければならない。

「行かなきゃ……」

辺りを見回して初めて、自分の両手が激しく震え、恐怖のあまり足がすくんでいることに気づいた。彼らの気が変わって殺される前に、私は竹林を背にして、一目散に駆け出した。

背筋に冷たい戦慄が走った。いくつもの視線が私を射抜いているのを感じる。きっと、忍びたちが私の後ろを追っているのだろう。もし彼らが、先ほどの続きを終わらせるために追撃を仕掛けてきているのだとしたら?

私はさらに速度を上げた。筋肉が焼け付くように熱くなり、息が激しく乱れる。じゃらじゃらと暴れる鎖の鬱陶しさなど、気にする余裕もなかった。ただ、ひたすらに走り続けた。倒木を飛び越え、梢に髪を引っ掛けながら、奥歯を噛み締める。まるで、忍びの手が私の髪を引っ掴んでいるかのような錯覚に襲われていた。

森の中は、すでに完全な闇に包まれていた。私は何も考えずに突き進んだ。時折足を止め、息を殺して耳を澄ます。今や、森のざわめきの一つ一つが私を狂わせそうだった。誰かの足音や、話し声が、幻聴のように絶え間なく聴こえてくる。

どのようにしてあの谷を越えたのか、記憶にない。ただ覚えているのは、肉体に脇差わきざしを突き立てたまま横たわる、あの熊の死骸に酷く肝を冷やしたことだけだ。狼狽のあまり、危うく死体にまで鎌を叩きつけるところだった。

この場所まで辿り着いたのなら、屋敷まではもう目と鼻の先だ。それにしても、未だに忍びどもに喉笛を掻き切られていないとは、奇跡としか言いようがない!

そして息も絶え絶えになりながら、私は地面へと崩れ落ちた。しかし、顔を上げた瞬間、安堵のため息が漏れた。屋敷だ。ようやく、我が家へと帰ってきたのだ。



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