十八、満
朝の餉ののちは、庭園の散策、それから書を認め、詩を詠み、信濃と三河の領地が分かたれし一族の起こりより始まる我が鶴田の歴史を紐解く。その合間に、茶の湯を嗜み、膳を啜る。
今の俺の日課には、武芸の修練も評定の間への参上も含まれてはおらなんだ。時に、ただ傷の手当てをされているだけでなく、声なき指図を以て、世継ぎの座を完全に剥奪されたのではないかとすら思えてくる。
「若君は、もはや泰然としてはおられぬな」
石川はそう口にするが、あやつの眼光には時折、隠しきれぬ悔恨の色が浮かんでいた。
「サムライたるもの、肉体だけでなく、その器をも研ぎ澄まさねばならぬ」
俺が一振りの刀へと手を伸ばした折、父上はそう告げられた。
我が身の治癒が手酷くのろのろと進む間、周囲はただ言葉を並べ立てるばかりだった。包帯の陰の傷口にはすでに乾いた瘡蓋が成されてはいたが、たとえこれから松葉杖を捨てて歩めるようになったとしても……かつてのように、大地を死に物狂いで駆け抜けることなど、俺には二度と叶いはせぬのだ。今の俺に残された唯一の獲物は、この理知だけだった。ゆえに、この一週間と半ばもの間、俺は武芸を捨て、ただ学問の道理を修めることに全神経を注ぎ込んでいた。
されど、その修練など、俺の胸の奥にある思念のほんの僅かな雑音にすぎなんだ。数多の巻物に囲まれた己の寝所のただ中に座し、俺は小袖の袖で口元を覆って低くあくびを漏らした。手元から零れ落ちた巻物が、床の上で虚しく丸まっていく。そこに記されていたのは、遥か遠き先祖の時代に起きた、我が鶴田とあの熊沢との凄惨ないくさの全貌であった。幾度となく読み解いてきた文であり、今更そこから新たな道理が立ち上がってくるはずもなかった。
滑稽なことだ。
窓の外には、雲ひとつない晴天が広がっていた。されど、時折いくつかのちぎれ雲が通り過ぎては、我が屋敷を仄暗い陰影の底へと落とし込んでいく。
今日、頭領たる清正は、高津との三度目の談判へと出陣していった。最初の談判の折、高津は姿を現さなんだが、のちに一族の政務に追われていたと言い訳を並べ立てた返書を遣わし、無礼を詫びてきた。父上はそれを意に介さず、さらに一通の密書を送り、会盟の真の狙いを事細かに説き明かした。俺と父上が、高津の奴がこの文を黙殺するか、あるいは鶴田のこの友誼の申し出を鼻で笑い飛ばすに違いないと踏んでいた矢先、次なる返書が届いたのだ。
否、高津はあざ笑うことなどしなんだ。それどころか、宿老や側近どもを悉く退け、二人きりで真っ向から対峙して語らう覚悟を見せてきた。俺はその返書を一瞥したにすぎなんだが、高津とてこのような文のやり取りをいつまでも続けるのは本意ではなかったのだろう。のちに父上が語ったところによれば、二人は中立の都市のただ中で、直々に相まみえる道を選んだのだという。
それから、最初と二度目の密談が交わされたが、万事は遅々として進まなんだ。されど、清正はその結末を俺に語ろうとはしなかった。俺から問いを投げかけてみたものの、腑に落ちる答えは一言半句も返ってはこなかった。
俺は再び巻物を広げたが、ちっと舌を鳴らすと、それを他の巻物の山へと無造作に放り投げた。
窓の外から、男たちの喧しい声音が響き、次いで足音が近づいてきた。間違いなく、大殿がようやく帰還されたのだ。
吉報の予感に胸を躍らせ、俺は松葉杖を脇に携えて父上の元へと向かった。廊下へと這い出た頃には、あやつはすでに下女や下男どもへ然るべき指図を言い渡しているところだった。奉公人どもはせわしなく立ち働きながら、俺に向けて笑みを浮かべ、されど慌てて視線を逸らしていた。妙なこともあるものだ。
父上の傍らには石川が佇み、熱心にその指図に耳を傾けながら、時折、口を開いていた。おそらく、あやつの道理に深く同意していたのだろう。
「父上!」
俺は不自由な足を引きずりながら、清正に向けて声を張り上げた。父上は石川に小さく顎を引すると、こちらへと面体を巡らせた。その眼光には、如何ともしがたい戦勝の悦びがギラリと閃いていた。あやつは、頭領としての変わらぬ厳格さと冷酷さを装おうと必死であったけれど。
「お騒がせして申し訳ございませぬ……されど、一体何が起きているのですか」
「石川よ、屋敷の防備をさらに網の目のように固めよ。そして明ける週の極まりまでに、最も腕の立つ隠密どもを集めて随伴の布陣を整えろ」
清正が無造作に手を振ると、忍びはその一瞬の間にその場から気配を消した。俺の額には、険しい皺が一つ刻まれた。
「……週の極まりに、一体何が執り行われるのですか」
「政の婚姻よ」
その一言を耳にした瞬間、俺は返す言葉を完全に失って立ち尽くした。週の極まりだと? それは優に、あと三日とない刻限ではないか。して、俺の妻となるおなごは一体誰なのだ。楓か。
頬がカッと熱く燃えるように痛んだ。されど、それは決して気恥ずかしさのせいではなかった。……間違いなく。俺は頭領の前で面体を崩さず、不届きな不満を漏らすこともなく、如何なる不躾な問いをも喉の奥へと圧し殺した。己が一族の世継ぎである以上、これこそが避けては通れぬ本分であることは百も承知だったからだ。俺は誰であれ、名門の娘を妻に迎える覚悟を決めていた。たとえ不始末の処分として、下女の類を宛がわれる恥辱に塗れようとも、その不名誉を大人しく呑み込むつもりだった。
あの野蛮な小娘との祝言であれ、俺は平然と潜り抜けてみせる。あやつは俺の命を救ってくれたのだ。二度もな。いくさの政の盤上においては、男女の情愛や睦まじさなど何一つ道理を成さぬことは熟知している。されど……。
あやつは間違いなく、俺を斬り殺す気だ。それだけは、火を見るより明らかだった。
松葉杖をきつく握り締め、辛うじて己の理性を繋ぎ止めながら、俺は再び父上を真っ直ぐに見据えた。
「石川よ、屋敷の防備をさらに網の目のように固めよ。そして明ける週の極まりまでに、最も腕の立つ隠密どもを集めて随伴の布陣を整えろ」
清正が無造作に手を振ると、忍びはその一瞬の間にその場から気配を消した。俺の額には、険しい皺が一つ刻まれた。
「……週の極まりに、一体何が執り行われるのですか」
「政の婚姻よ」
その一言を耳にした瞬間、俺は返す言葉を完全に失って立ち尽くした。週の極まりだと? それは優に、あと三日とない刻限ではないか。して、俺の妻となるおなごは一体誰なのだ。楓か。
頬がカッと熱く燃えるように痛んだ。されど、それは決して気恥ずかしさのせいではなかった。……間違いなく。俺は頭領の前で面体を崩さず、不届きな不満を漏らすこともなく、如何なる不躾な問いをも喉の奥へと圧し殺した。己が一族の世継ぎである以上、これこそが避けては通れぬ本分であることは百も承知だったからだ。俺は誰であれ、名門の娘を妻に迎える覚悟を決めていた。たとえ不始末の処分として、下女の類を宛がわれる恥辱に塗れようとも、その不名誉を大人しく呑み込むつもりだった。
あの野蛮な小娘との祝言であれ、俺は平然と潜り抜けてみせる。あやつは俺の命を救ってくれたのだ。二度もな。いくさの政の盤上においては、男女の情愛や睦まじさなど何一つ道理を成さぬことは熟知している。されど……あやつは間違いなく、俺を斬り殺す気だ。それだけは、火を見るより明らかだった。
松葉杖を唯一の拠り所としてすがりながら、俺は再び父上の目を睨み据えた。
「……この婚姻により、我が鶴田は如何なる利を得るのですか」
「自由なる交易権、新たな商路、そして諸資源の価の引き下げよ。それは、熊沢の側にとっても等しき利となる」
「承知いたしました」
俺は静かに首を縦に振った。
然り、この婚姻は両家が遮るものなく商いを交わし、三河の資源を今より遥かに安値で手に入れる手立てとなる。そして何より……揺るぎなき和平の契りとなるのだ。熊沢の家とて、みずからの婿に刃を向けるような不届きな真似はできまい。もしそのような暴挙に出れば、居並ぶ家臣どもはそれを明白なる裏切りと見なすはずだ。
それは我が鶴田の側とて同じこと。
我らもまた、熊沢の一族を容易く攻め滅ぼすことは叶わなくなる。
高津の権力は、我が鶴田の軍勢という大いなる重圧の下で、初めて盤石なる安定を得るのだ。
いくさの政や兵法という盤上において見れば、これこそ非の打ち所なき勝策に違いなかった。
されど、己の寝所へと引き返した途端、俺は物指しを手にした数多の仕立屋どもに一斉に取り囲まれた。一人が衣服の上からせわしなく寸法を測り、もう一人が絹や木綿、麻で織られた数多の布地をこれ見よがしに突き付けてくる。
「若君、どうぞお手を触れてご覧くだされ! 諸国を探してもこれほどの絹はございませぬぞ!」
若い方の男がそう自慢げに捲し立て、布地を強引に俺の御手へと押し付けてくる。
物指しを携えた老いた職人は、俺の周囲を狂ったように這い回っていた。奴らの喧しい雑踏のせいで、俺の頭は激しく眩暈を起こした。脇に据えていた松葉杖を遠ざけねばならなんだため、足の傷口からは再び焼けるような激痛が這い上がってくる。さもなければ、あの老いぼれ職人が確実に俺の杖に足をもつれさせて腰を抜かしていたはずだ。
「袴の襞は七つ! 何があろうとも七つにございますぞ!」
「分かった、爺様」
仕立屋どもは、ほんの半刻の間に、布地の織り目だの襞の数だの、果てなき無駄口を以て俺の神経を完全に狂わせていった。されど、祝言の支度そのものは、真に恐るべき難局ではなかった。己が一おなごの夫となる日が刻一刻と近づくにつれ、俺は石川と言葉を交わすたびに、どうしてか酷く口籠るようになっていた。そして、顔を真っ赤に染めていた。
婚礼の儀や、引き出物の類について政の談判が及ぶたび、俺は恥ずかしさのあまりその場に卒倒しそうだった。己の無様な有様を晒して一族の面目を汚さぬよう、俺は年長の大人の男たちの眼から逃れるように、ただ必死に身を隠し続けていた。
「……そして、楓は。俺はあやつとの相まみえに、断じて耐えられそうにない」
なぜ交易の誓約にただ印を据え、四方からの如何ともしがたい悔恨や葛藤に身を焦がさずに済む道を選べなんだのか。
祝言の支度は、まるで誰ぞの無骨な拳で頑丈な歯を叩き折られ、その跡にどろりと膿が溜まっていくかのように、痛々しく、瞬く間に過ぎ去っていった。 そして今も、顎の骨の奥がキリキリと、いつまでも疼き続けている。
今日。今日という日に、その溜まりに溜まった膿が、ついに音を立てて弾け飛ぶのだ。
夜の帳のただ中、眠りの深淵が訪れることはなく、俺はただ敷布団の上で幾度も身をよじり続けていた。飯を啜る気も起きず、胸の奥の澱みは晴れぬままだった。
格子戸の脇に佇みながら、俺は楓に一体如何なる引き出物を差し出すべきか、そればかりを深く思案していた。手立ては二つあった。一つは、我が一族の鶴の紋様が刻まれた髪櫛。あやつに、この館で孤高の異邦人のごとく身を縮めてほしくはなかったからだ。されど、一体何を考えている。そのような小細工が、あやつの慰めになるとは到底思えなんだ。
もう一つの手立ては、一振りの懐剣。これこそあの野蛮な小娘には髪櫛などより遥かに似つかわしい獲物であったが、それもまた浅はかな思案だった。熊沢の側が、祝言の折に然るべき短刀を娘に宛がうのは火を見るより明らかだったからだ。
されど、今更そのような意図を揉んだところで何になろう。あやつはすでに一振りの刃を手にしているのだ。髪櫛とて、とうにその髪に挿しているやもしれぬ。
「若君」
俺は眠気眼を手の甲で擦り、差し出す引き出物を手元に整えた。いつの間にか室内の暗がりに、隠密の装束をまとい、腰に厳かに刀を据えた石川が佇んでいた。俺が畳の上へと腰を下ろした刹那、下女や下男どもが、雪崩を打つようにして寝所へと這入ってきた。
「お召し替えの刻限にございます」
「……祭壇の前か?」
俺は立ち上がり、両腕を高く掲げて下女に小袖を脱がさせた。奉公人どもがせわしなく俺の身体を婚礼の正装へと包み込んでいく。もし俺の脳裏がこれほど激しく狂っていなければ、このような衣服の着付けなど、自らの手で造作もなく成し遂げられたはずだったけれど。
真のところ、俺は国境の地に辿り着けば、すぐにでも楓の姿をその眼に捉えられるものと思い込んでいた。さすれば、これほど長い一日のただ中を、生殺しの苦悶に身を焦がさずに済んだはずなのだ。
「然り。熊沢の家には、また異なる古き作法がございます。あやつらは、己の領内において、まずは三三九度の固めの盃を交わす儀式を執り行う手筈にございます」
石川が片眉を跳ね上げ、俺は恥ずかしさのあまり再び視線を床へと逸らした。なるほど、そのような道理は、とうの昔にあやつから直々に説き聞かされていたはずだったな。
「ああ、熟知している。ただ……」
「若君が万事を弁えておられるか、俺が試したまでにございます」
隠密はあきれたようにその細い目を丸くし、俺は微かに口元を緩めた。あやつの放った精一杯の冗談が、俺の沈んだ心を少しだけ引き上げてくれた。
乱れ髪は厳かに結い上げられ、身にまとった漆黒の羽織には、見事な職人の手際を以て、今にも天へと舞い上がらんとする鶴の紋様が刺繍されていた。これほど短い刻限の間に、真に見事な出来栄えであった。仕立屋どもも、この俺と同じように夜通し一睡もせずに針を動かし続けていたに違いない。
深く息を吐き出し、俺は手のひらで袴の襞をそっとなぞった。一つ、二つ……七つ。すべての襞が、厳かにそこに成されていた。武士の至高の美徳を現す、不磨の象徴。
頭を天井へと向け、俺は静かに目を閉じた。それから両手で額と頬を強く擦り、己の面体を引き締める。衣服の擦れる喧しい響きも、床板の軋み声も、いつの間にか綺麗さっぱり消え失せていた。耳に届くのは、窓の外を吹き抜ける微風のざわめきと、庭の池の奥深くで、怠惰に鳴きしきる蝉の声だけだった。
「……支度は調った」
石川は深く一礼すると、俺の行く手を開くようにして先へと進んだ。国境の地へと出陣するまでの間は、この松葉杖を脇に携えることが許されていた。されど、かの地へ辿り着いたその刹那からは、如何なる激痛が肉体を引き裂こうとも、熊沢の軍勢の前で脆き弱さを晒すことなど、断じて矜持が許さぬ道理であった。
父上の居館の前には、すでに多くの宿老や、物頭どもが居並び、重苦しい隊列を固めていた。物頭の陰からは、近郷の幼き子供たちが首を覗かせていた。間違いなく、疾風と葵の奴らが、この大層な見世物を見物せんと呼び集めたに違いなかった。当の弟と妹は、婚礼の格式高き正装に身を包み、宿老たちの傍らに大層な佇まいで控えていた。されど、居並ぶ長老たちの中で、笑みを浮かべている者などただの一人もおらず、このいくさの政を心から祝福している者など、皆無に等しかった。
清正は俺の肩へとその大きな御手を置き、俺を本館の広い月見台へと導いた。そこには、一族の祭壇の前、厳かに水を満たした一つの手水鉢が据えられていた。この水に両手を浸し、俺の胸の奥にあるすべての澱みと重苦しさを洗い流さねば慢らぬ。一族の世継ぎとしての、重々しい責任を、その身に引き受けるために。
水は心地よく冷え切っており、正午の太陽の光を浴びてもなお、その冷徹さを失ってはいなかった。俺の両手から広がっていく微かな水面の波紋は、まるで悠久の時を流れる大河のせせらぎそのもののようであった。
すべての訓戒を脳裏に過らせながら、俺は祭壇の前へと歩み寄った。その四方では、微風に煽られた紙垂が白くはためいていた。祭壇の上には、下女どもが恭しく榊の枝を捧げ、三つの神酒の盃が据えられていた。本来ならば、これを用いて俺と楓が順に盃を交わすはずの道具だ。
俺の視線は、本来ならば花嫁が佇んでいるべき空白の脇へと滑り、再びその神酒へと戻った。
俺はそれぞれの盃から、三度ずつ静かに神酒を啜った。心地よい熱が瞬く間に身体の内を温め、俺は覚悟を決めて祭壇を真っ直ぐに見据えた。そこには、洗米や、小さな器に盛られた塩、そして瓶子に入った神酒が厳かに供えられていた。
「俺は鶴田の家の世継ぎとして、一族の御前にて、我が家の名誉と此度の同盟を如何なる犠牲を払うても守り抜くことを誓う!」
俺は言葉を濁さなんだ。確固たる自信を以て、堂々と声を響かせる。これこそが真実であり、この誓いを破る気など、毛頭なかったからだ。
我が矜持に懸けて、誓う。
神前の儀は執り行われ、誓言は捧げられた。これより家臣どもは喧しく語らい、国境の地へ向かう出陣の支度を整え始めた。いくさのためではない。永遠なる和平を結ぶための、厳かな道行だ。
便宜上、疾風と葵が、俺の両脇へと一斉にしがみついてきた。弟は俺の松葉杖を容赦なく脇へと放り投げると、みずから俺の腕を支えるようにして、満面の笑みを浮かべた。
「新しいお姉様が、優しい人だと良いね!」
疾風は夢見がちに溜息をもらした。
「だって、葵はいつも俺を怒るんだもん!」
「嘘ばっかり! あんたが二つも菓子を食べて、私が一つしか食べられない時だけでしょ!」
葵は不満げに唇を尖らせ、俺の羽織の布地をきつく引っ張った。
「子供らは屋敷に留まり、吉報を待て」
宿老の保時が、手元で館の奥を示しながら厳かに命じた。疾風は不満げに床を踏み鳴らして抗おうとしたが、葵がその手を引いて宥め、まもなく二人は下女どもに連れられて館の奥へと消え去っていった。
二人に寄り添われている間、どれほどその身体が俺の傷つく足を支えてくれていたか、引き連れられて初めて気づかされた。
「満よ、お前は聡明な男だ。一つ、年寄りの知恵を授けておこう」
保時は不敵な笑みを浮かべながら、俺の肘のあたりをそっと支えた。
「聞き及ぶところによれば、熊沢のあの娘は、大層気性の荒い不調法なおなごであるとのことだぞ」
「……お言葉ながら、和平の契りを交わすその直前に、他家の姫君を不調法と称するのは、些か……無礼にございます」
俺は言葉を選び、宿老に向けて、他家のおなごを無闇に誹るような不届きな口を噤むべきだと静かに窘めた。されどあやつは、ただにやにやと笑いながら首を縦に振るだけだった。
「これは失礼、若君。某の物言いが些か不適切でございましたな。されど、俺の言わんとする道理は分かっておいでだろう」
保時はその肥太った短い足をもたつかせながら、他の諸大名どもの元へと歩み去っていった。おそらく、また別の場所でその浅はかな知恵を披露しに向かったのだろう。
国境の地までは、数多の番卒に周囲を固められ、我らは乗馬にて歩みを進めた。熊沢の家の真意を疑う者は未だ多く、誰もが油断なく周囲の気配に目を光らせていた。
我らは川べりの地にて馬を止めた。俺が乗馬から静かに下り立った、まさにその刹那――前方の暗がりから、熊沢の一族の大軍がこちらへと近づいてくるのが目に飛び込んできた。俺の眼は、無意識のうちにあやつを、楓の姿を捜し求め……そして、ついにその有様を捉えたのだ。
あやつのおもては見えなんだ。白無垢の大きな綿帽子が、そのすべてを覆い隠していたからだ。衣服の佇まいを以てあやつだと合点はいったが、胸の奥の勘はどこか別の道理を告げていた。これほど泰然と、気高く背筋を伸ばした女。断じて、あの野蛮な小娘であるはずがなかった。
熊沢の軍勢が足を止め、隠密どもが楓の乗馬の介助に当たった。あやつは連中を力任せに突き飛ばすことも、不届きな悪態を吐くことすらなさなんだ。
その足が地面の上へと下り立った刹那、娘は静かに綿帽子を脱ぎ去った。現れたのは、紛れもない楓のおもてであった。あの夜、俺の寝所へと無作法に這い込んできた瞬間に俺の脳裏へ鮮烈に焼き付いた、あの瞳、そして引き直された薄い眉。されど、かつてのあの生意気な輝きの代わりに、その瞳を満たしていたのは、至高の従順さであった。




