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19/19

十九、楓

祝言の前夜、私は一歩も寝所から出ずに過ごした。されどそれは、父上に命じられたからではない。その気になれば、屋敷を潜り抜けて森へと逃れ、夜の帳が降りる頃に戻ることなど造作もないことだった。然り、私にはそれができたのだ。されど、そのような逃亡は、まるで虚空を掴もうとするかのように死に物狂いで、そして無駄な足掻きにすぎなんだ。

婚礼の正装を幾重にも重ねて身にまといながら、私はただ思案に耽っていた。見知らぬ館、見知らぬ一族、そして大自然さえもが――そこではすべてが異邦の景色。我が一族の内でさえ失われた敬意を、あの鶴田の家において向けられるはずなど、到底望むべくもなかった。

下女どもは、かつてのように笑みを浮かべることはなかった。誰もが私を警戒し、ただ口を噤むことに躍起になっていた。今この瞬間、私の乱れ髪を厳かに結い上げながらも、奴らは頑なに視線を逸らし続けている。

「楓、今日は我が一族にとって大層な一日です。万事を完璧に執り行わねばなりません」

母上は下女どもを部屋から退けると、何度もそう語りかけ、私の頭へと綿帽子を被せた。これは、婿の前に立ち至ったその刹那に脱ぎ去るべきもの。母上は私の手のひらへと、一振りの懐剣をそっと握らせた。それは戦に用いる得物ではなく、己の身と名誉を守る不磨の象徴であった。

すべての支度が調い、東の地平に最初の日の光が差し初めた頃、頭領たる父上と宿老たち、そして私は八幡宮の社へと出陣した。

神聖なる領域の入り口には、水を満たした一つの手水鉢が佇んでいた。最初に男たちが手と口を清め、その後に私も水へと近づいた。

ほんの一瞬だけ綿帽子の陰から顔を覗かせ、私は社の佇まいを見つめながら深く息を吸い込んだ。この景色を拝むことも、二度と叶いはせぬのだ。

小袖の裾を僅かに水面に触れさせ、我らは再び神前の儀を進めた。社の扉の前で私は榊の枝を受け取り、男たちの後ろへと続いた。その青葉は、朝露の滴を吸い込んで心地よく冷え切っていた。

社内には、すでに仄暗い灯火が揺らめいていた。四方の隅々では、下男どもが数多の行灯に火を灯している。そこからは、温もりと灯油の匂いが立ち込めていた。その匂いは、鉄の生々しい気配と混ざり合っている。

儀式のただ中、花嫁がみずから誓言を詠み上げる作法など存在しなんだ。娘の代わりに、そして一族のすべてに代わって、宿老たちと頭領が不磨の契りを交わすのだ。俺は一言半句たりとも言葉を発する必要はなかった。――そして、これから先も、二度と語る必要などないのだ。

父上の指図を以て、居並ぶ軍勢は悉く二度頭を垂れ、二度柏手を打ち、厳かに誓言を詠み上げ始めた。

「いくさ人の守護神、八幡大菩薩よ!」

父上は深く頭を垂れ、そう言葉を紡ぎだした。八幡様こそは、あの高津様が唯一その両膝を床に突いて平伏す気高き御神仏。昔から、ずっとそうであった。

「この捧げ物を御前に奉る。願わくは、此度の同盟を不磨の楔とし、我らの得物を常に鋭く研ぎ澄まさせ給え!」

その刹那、行灯の仄暗い灯火が一瞬だけ翳り、次いで社の壁をいっそう禍々しく照らし出したかのように感じられた。

青葉をきつく握り締める私の指先には、草木の粘りつく生々しい汁がべっとりと滲んでいた。私は緩やかに歩みを進めたが、両膝は如何ともしがたくガタガタと震えていた。私はその場に身を屈め、洗米や神酒、そして一振りの刀の傍らへと榊の枝を恭しく捧げた。それから小袖の合わせ目からあの懐剣を引き抜き、同じくその脇へとそっと横たえながら、声を潜めて呟いた。

「我が一族への忠義を、生涯絶やさぬことを誓います」

捧げ物がすべて祭壇へと奉られると、高津様は厳かに祝詞を詠み上げ始めた。その響きに紛れ、床板の軋む音や、衣擦れの喧しい雑音が耳に届く。我らの元へと、全身を純白の装束に包み、三方を手にした一人の下女が静かに近づいてきた。その木杯の上には、大きさの異なる三つの神酒の盃が厳かに据えられていた。過去、現在、そして未来を現す、不磨の象徴。

然り。私はかの地にて、満と順にこの盃を交わさねばならぬのだ。満。あやつは此度の祝言を告げられた折、間違いなく烈火のごとく激怒したに違いない。もしかすると、己の父親に向かって手酷い悪態すら突きつけていたやもしれぬ。

一哮、また一哮と、それぞれの盃から神酒を啜る。その滴は、私の胸の奥と喉を熱く焼き尽くしていった。それは髪上げの儀の折に口にしたものよりも遥かに強く、私の記憶にある如何なる酒よりも、酷く濃醇であった。

次いで宿老たちの誓言が始まったが、私の耳にはその雑音など一切入ってはこなかった。それは、国境の地へと向かう道行のただ中とて同じこと。多くの者が私に向かって果てなき口添えを並べ立てていたが、その道理を要約すればただ一つ。従順なる妻となり、一族の名を泥で汚さず、鶴田の館における熊沢の目と耳となれ、という非情な指図であった。

当然だ。ただの婚姻などという生ぬるい真似を一族が許すはずもない。此度の契りは、莫大な交易の利だけでなく、鶴田の家を内側から完全に御するための、冷酷な手立てなのだから。

森を駆け抜ける獣道はあまりにも狭く、重なり合う木々の梢のせいで、天空は完全に覆い隠されていた。私は恐怖のあまり、片時も周囲に面体を巡らせまいと必死だった。もし今、この山の密林へと視線を走らせてしまえば、二度とこの宿命を全うできなくなるのではないか、手に入れた自由を手放す覚悟が融けてしまうのではないかと、ただそれが恐ろしかった。再び逃亡に身を投じてしまえば、神仏に捧げたあの誓言を不届きにも裏切ることになる。それだけは、断じて犯してはならぬ大罪であった。

因縁の境目に辿り着くまで、私はただひたすらに小道を見つめ、父上の乗る白馬の手綱だけを凝視し続けた。微風がその鬣を優しく煽り、馬は時折激しくいななき、その蹄の音を厳かに響かせていた。

母上は、下女どもと共に山の屋敷に留まり、この場にはおいでにならなんだ。私に随伴したのは、数多の侍に周囲を固められた、頭領と宿老たちだけだった。白状すれば、今の私の胸の奥は、母上のあの温かき抱擁を烈火のごとく欲していた。

誰も口にはしなんだが、両軍の間に張り詰めた凄まじい緊迫は、誰の眼にも露わであった。男たちの顔を見据えずとも、奴らが四方の微かな衣擦れや風のざわめきに怯え、如何に油断なく周囲を睨み回しているかは、肌を刺す殺気がすべてを物語っていた。

「鶴田清正大殿のお出ましにございます!」

宿老の一人、あの豊光の刑戮を誰よりも強く迫った男が、地を走るような声を張り上げた。私は弾かれたように顔を上げ、次の刹那、もはや引き返す道などどこにも残されてはいないことを骨の髄まで悟り、再びうつむいて深く頭を垂れた。

漆黒の正装に身を包んだ満は、未だ癒えぬ足の傷口を顧みる様子もなく、至高の気高さを以て堂々とそこに佇んでいた。あやつは私の方へと歩み寄ることはなさんだが、私の到来を境に、その背筋を一層真っ直ぐに伸ばしてみせた。祝言の正装をまとったあやつの佇まいは、かつてとはまるで違っていた。それこそは、一族の真の頭領そのものの威風であった。

私は生唾を深く呑み込み、乗馬から静かに下り立とうとした。手綱に縋り付きながら、冷たい湿った土の上へと片足をかけたその刹那、居並ぶ侍たちが、私の身体を抱きかかえるようにして荒々しく抱き止めた。おそらく、おなごの身ではこの不躾な地を一人で踏み締めることすら叶わぬと、そう侮っていたのだろう。好きにするが良いわ。私はその不作法にあらがうことこそしなんだが、胸の奥には激しい嫌悪がどろりと渦巻いており、無意識のうちに手綱を握る指先に、さらにきつく力を込めていた。

首筋にひやりと寒気が走るような、居並ぶ数多の視線を感じながら、私は綿帽子を静かに脱ぎ去った。その刹那、私と満の視線が真っ向から交錯した。私の前で涙を流し、この世で最も汚らわしい不実の全貌を分かち合った男。そして、私の科のせいで危うく切腹して果てるところだった男。これぞ、私の婿となる人であった。

「清正大殿」

高津様は首領としての威風を全身から放ちながら、鶴田の元へと歩み寄った。過去の遺恨も、人質を巡る確執も、対峙し合っていた大軍の有様も――万事がとうに、過去の雑音と化してしまったというの。

「高津殿」

清正は静かに首を縦に振り、手元で宿老を呼び寄せる合図を送った。

「此度の和平の盟約を、婚姻を以て確固たるものといたそう」

「傷を癒やすは、互いの印を以てな」

父上もまた、己の宿老の一人を呼び寄せた。豊光が刑戮に処されて以来、その空席には、あの長老の処罰を誰よりも強く求めていた男が据えられていた。

両家の宿老が、それぞれ一通の巻物を引き抜いた。それらの巻物は、一族の家紋すら刻まれていない、等しい組み紐で固く縛り上げられていた。おそらく、両家が対等なる盤上にあることを天下に知らしめるための手立てなのだろう。

「我が家からの、引き出物にございます」

高津様は帯の間から一振りの短刀を引き抜くと、それを清正へと差し出した。あやつはかたじけなうございますと首を縦に振り、その刃を受け取ると、無造作に己の帯の奥深くへと滑り込ませた。それを見届けてようやく、満が私の元へと歩みを進めてきた。

不意に、草地を這いまわる虫けらや青々とした苔の有様が、この厳かな儀式の何よりも興味深い景色に思えてならなかった。心臓がうるさいほどに脈打ち、居並ぶ者ども全員にその響きが盗み聞きされているのではないかと、ただそればかりが恐了された。

私はひたすら視線を床へと落としていたが、やがて眼の前に、その切っ先に美しい鶴の紋様が刻まれた、ギラリと光る獲物が差し出された。

「……懐剣?」

私が声を潜めて囁くと、満はそっと私の御手を掴んだ。視線の端では、二人の頭領がすでに巻物に印を据え、これからの交易の政や商路の差配について言葉を交わし始めているのが見えた。されど、今の私は、確かにこの場所に佇んでいた。

満の指先は心地よく温かく、いや、むしろ熱を帯びていて、酷く柔らかかった。このような肉体は、いくさ人の手ではない。少なくとも、我が熊沢の男には決してあり得ぬ皮膚だった。

「ああ、俺の思案でな……」

あやつは不器用な笑みを浮かべたが、すぐさまいつもの冷酷な面体を取り戻した。大殿たちの前で、無様な阿呆のごとき有様を晒したくはなかったのだろう。それは私も同じことだった。

「……一振りの刃より、二振りの獲物を携えている方が、心強いと思うたまでよ」

「私には、もう一振りの獲物など残されてはいないわ……」

私は頬がカッと熱く燃え上がるのを感じた。あやつが私の手のひらへと懐剣を押し込んできたからだけではない。あの二振りの短刀のうち、もう一振りを私はあの八幡宮の社へ、神仏への捧げ物として置き去りにしてきたことを思い出したからだ。

「ならば、髪櫛はあるか?」

あやつが不意にそのような不躾な問いを投げかけてきたため、私はどうしても口元の笑みを堪えることが叶わなかった。私が返す言葉を探るより早く、あやつは帯の底からあの髪櫛を引き抜くと、その冷たい刃の傍らへとそっと添えてみせた。

背後から、床を激しく叩く鈍い響きが一度、二度と鳴り響いた。高津様と清正は、互いの目を真っ直ぐに見据えながら、厳かに深く頭を垂れた。あの方々の御手にある巻物には、すでに確固たる印章が据えられていた。

私は胸の奥の焦燥に駆られ、あの方々の背後の景色へと、すがりつくように視線を走らせた。――そこは、平野が遥か彼方の山の密林へと移り変わる境界。あの枝葉を広げた老いたケドロの巨木たちが、だんだんと、だんだんと遠ざかっていく。そして次の瞬間、私の目の前で、重々しい門が音を立てて閉ざされた。

それは、不磨の金色の檻の扉。無実の者たちの血の代償を払う我が宿命が、今まさに、ここから始まったのだという明白なる合図であった。

終わり


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