十六、満
鶴田の屋敷に戻って以来、一族の間に巻き起こっていたいくさの懸念が立ち消えたことを、惜しむような者はただの一人も目にしなんだ。下男や下女どもは安堵の表情を浮かべて嬉々として立ち働き、膳や器をこれでもかと入念に磨き上げては、せわしなく片付けに追われていた。疾風は葵の前にふんぞり返り、己の仕出かした大層な武勇伝を、これ見よがしに大袈裟に語って聞かせていた。
縁側に腰掛け、庭のすぐ傍らで松葉杖を脇に立てかけながら、俺は幼き二人が言い争いを始めるのを眺めていた。葵は首を激しく横に振り、結い上げた髪を縄のようにはためかせながら、畳を踏み鳴らしていた。
「嘘よ! あんたがそんな奴ら全員に勝てるわけないじゃない!」
「嘘なんかじゃないやい!」
疾風はむすっと膨れ面をしながら俺の方へと向かい、数段の段差を軽快に飛び越えてきた。
「ほら、兄貴だってそこにいたんだぞ!」
俺に向かって指を突き付けると、疾風は誇らしげに鼻を高く突き出し、胸を張ってみせた。
「満兄様?」
葵は両手を腰に当て、俺の真ん前に立ちはだかった。
「疾風は本当に戦ったの?」
俺は己の顔が自然と笑みに緩んでいくのを感じた。二人のこのような他愛のない諍いは、いつだって俺の沈んだ心を静かに引き上げてくれる。
「ああ。されど、もちろん全員を相手にしたわけではないぞ」
弟はそんな俺の裏切りを予期していなかったのか、口をあんぐりと開けて驚愕したが、すぐに言葉をはぐらかし始めた。そういう小賢しい立ち回りにおいて、あやつは真に天武の才を持っていた。
「分かった、分かったよ。俺が高津大殿を脅しつけてやったから、向こうが恐れをなして引き下がったんだ」
「まあな、疾風。高津様がお前の勇敢さを大層褒めておいでだったぞ」
葵に語って聞かせた一連の戯言のうち、それだけが唯一の真実であった。俺は葵に対して、血生臭いいくさの物語や、傷のいたぶり合い、あるいは死に物狂いの修練のあり方など、ただの一度も語ったことはなかった。おなごというものはどこまでも華奢で、大人の仕仕出かす残酷な刑戮や一族の悲劇など、片時も知らぬまま生きていくべきだと思い込んでいたからだ。――つい最近までの、俺の浅はかな思案にすぎなかったけれど。
疾風の無垢な傲慢さは微塵も揺るがず、それどころか、あやつはますます誇らしげに身体を膨らませていった。頬を真っ赤に染め、目を険しくひそめてみせる有様は、まるで戦場を潜り抜けてきた老練なサムライの真似事でもしているかのようだった。
俺の胸の奥には、にわかに穏やかな安堵が広がっていった。家族がすぐ傍らにおり、処刑の脅威もなく、禍々しいいくさは過去の雑音となったのだ。せめて、今日という日だけは。
肘を後ろに突き、静かに目を閉じると、心地よい微風が俺の乱れ髪を優しく撫でた。時に庭を飛び回る羽虫のように喧しかった葵と疾風の声がいつの間にか止み、二人は足音を潜めて館の奥深くへと消え去っていった。
「どうやら、切腹を免れたようだな」
聞き覚えのある声音が耳に届き、俺は僅かに顔をしかめて目を開け、眩しい日の光に目を細めた。
「……やはり、あの娘の足が間に合ったか」
「石川か」
俺はその隠密の姿を一瞥し、あやつの佇まいがどれほど無残にやつれているかに目を留めた。身にまとっていた鶴田の隠密装束は見る影もなくボロボロに引き裂かれ、腰に据えているはずの二振りの刀の代わりに、その手にはどろりと黒い鮮血を吸い込んだ鎖鎌が握られていた。
「大層、不体裁な有様だな」
「此度は、白粉を塗り込む余裕もなかったものでな」
「……いつから、お前はそれほど洒落た口を利くようになったのだ」
俺は微かに笑みを浮かべ、再びあやつを値踏みするように見分して、ちっと舌を鳴らした。間違いなく、あの楓の小娘との道行で手酷い諍いにでも巻き込まれたのだろう。さもなければ、帰還したあやつのこのような無様な有様に説明がつかない。
石川は笑い返すことこそしなかったが、その佇まいを見るに、真に上機嫌であるように感じられた。言うまでもなく、あやつは平時から滅多に世迷い言を口にするような男ではなかったけれど。
「何をしておった」
俺はあやつの手元を顎で指し示しながら問いかけた。
「若君の指図の通り、中立の都市へ米の調達に赴いておりました」
「石川よ」
俺は少しの間だけ深く思案を巡らせ、未だに包帯を巻かれた、されど然るべき処置を施された痛む足を見つめて、深く溜息をもらした。
「……俺はな、お前があの娘をみずからあやめたものと思い込んでいたぞ」
石川は沈黙を守り続けた。腕に絡みついた鎖鎌の鉄の鎖が、あやつの身動ぎに合わせて不気味にチャリリと音を立てる。
「お前が、あの娘に加勢したのだな? あの豊光の書状を暴き立て、あの偽の鶴田の兵どもを引きずり出したのは、お前の手回しだろう」
当然、あやつの仕業に違いなかった。俺の命令を不躾にも無視し、野良猫さながらに勝手気ままに立ち回ったのだ。……されど、俺はその不忠を、心の底から嬉しく思っていた。然り、あやつの放縦なやり口は、俺の誇りにとっては決して心地よいものではない。されど、この男が一族の危機において、ただの一度も我が鶴田の期待を裏切ったことがないことだけは、誰よりもこの俺が熟知していたからだ。
「これから、大殿の元へ向かうのか?」
「否」
隠密は首領の居館の方へと指を指し示した。
「大殿はいつもあそこで、書状の改めや家臣の引見、そしていくさの差配に追われておいでだ。若君を、あそこでお待ちかねだぞ」
万事、合点がいった。石川はすでに父上の元へと参上していたのだ。今更俺を呼び出すからには、何ら目新しい沙汰などあるはずもない。おそらく、先ほどの談判の続きに違いなかった。父上は無闇に言葉を乱発するお方ではない。俺の不始末や今度の狂った有様について、然るべき責任を執らせると仰ったからには、必ずやその通りにされるのだ。
この一日の間に床の上へ跪かされなんだからといって、これから先もずっと許されたままでいられるなどと高を括っていた己が、ただただ浅はかだった。
俺は身の内の焦燥を圧し殺し、松葉杖を地面へと力任せに突き立てて、ゆっくりと上体を起こした。石川は加勢をしようと片眉を動かすことすらなさなんだが、それで構わなんだ。俺はどのような窮地であれ自らの力で切り抜ける道理を学ばねばならぬし、そもそも、この縁側まで辿り着けたのも己の足なのだから。
「医師の診立てを受けるが良い」
隠密の声が背後へと遠ざかっていく。
敷き詰められた川原石が、草履の底と松葉杖の先の下でチャリチャリと鈍い軋み声を上げた。居館へと一歩近づくにつれ、張り詰めた重苦しい大気が、いや増して俺の両肩へとずっしりとのしかかってくる。
館の内へと這入ると、清正は低い文机の前に座し、その御手に竹の筆を握っていた。一文字一文字を厳かに、ただ黙々と墨を走らせており、俺の到来に片時も目を向けることはなさなんだ。俺は廊下の壁に身体を預け、ただその場に立ち尽くした。
「お呼びでございましょうか」
その俺の問いに、父上はただ静かに首を縦に振り、筆の切っ先を再び墨の入った小壺へと深く浸した。
室内は、格子戸が広く引き開けられて外からの新鮮な冷気が這い入り、大層明るかった。大気のただ中には、瑞々しい和紙と、澱みのない墨の匂いが立ち込めている。物心ついたその日から、この部屋はいつだってこの匂いに満ちていた。
俺は畳の上へと静かに腰を下ろし、筆が紙の上を滑らかに滑っていく様をじっと見つめた。その厳かな習字の作法は、普段なら見る者の心を静かに落ち着かせてくれるものだが、此度ばかりは、胸の奥のざわめきを宥めてはくれなんだ。
「……感服したぞ」
父上は手元から一切の視線を逸らさぬまま、地を走るような重々しい声音で語り始めた。俺は呆気にとられた。あの父上を感服させるなど、生まれてこの方、一度として容易いことではなかったからだ。
「されど、お前には然るべき処分を下さねばならぬ。敵の首領の娘に加勢し、疾風を随伴させて屋敷から逃亡を企てた不忠の科により、世継ぎの座を剥奪する」
室内の空気が一瞬にして冷え切り、俺の顔からは完全に血の気が引き失せた。
「もし高津の娘が、居並ぶ敵の真ん前で豊光の大嘘を暴き立てなんだならば、一体いかなる破滅が我が一族に訪れていたか、お前はその重さを弁えているのか」
「……弁えております」
俺は静かに首を縦に振り、父上の顔を真っ直ぐに見据えた。父上はそこでようやく、書き終えた巻物を机の隅へと退け、緩やかな足取りで窓の側へと歩み寄った。
「幸いなことに、あやつはあの父親に似合わぬ、なかなかに気高き武家の娘であったな。高津の奴、己の面目を保つためにすべての真相を闇に葬り、平然と言い逃れをすることもできたはずだ。……あの方の胸中にあの実直さがなくば、奴らは大義名分を掲げて、そのまま容赦なくいくさの火蓋を切って落としていたところよ」
父上はそう告げると、その乾いた、陽に焼けた顔を再びこちらへと巡らせた。次いで、無言のまま廊下の方へと視線を走らせる。そこからは、何者かがせわしなく駆け抜けていく急ぎ足の足音が聞こえ、だんだんと遠ざかっていった。
「来い」
父上はそう命じるや、文机の上から一通の巻物をむんずと掴み取り、それを己の帯の奥深くへと滑り込ませた。
まもなく我らは、薄紅色の花を咲かせて生い茂る数多の紫陽花の繁みの脇を、緩やかな足取りで歩んでいた。この花は、今夜の雨に打たれれば、きっといっそう妖しく艶やかにその身を彩るのだろう。敷き詰められた石の小道を辿り、我らは庭の池のほとりを回り込んだ。四方の草木も、湿った土も、すべてが朝露の滴でびっしりと濡れそぼっていた。
俺は行く道の行く先について、何一つ問いを投げかけなんだ。この小道が通じる場所は、最初からただ一箇所――藁葺きの小さな茶室しかなかったからだ。それは、父上が一族の頭領の座に就いた折、直々に命じて築かせた場所であった。その佇まいはどこまでも慎ましく、入り口のにじり口はあまりにも小さく低いため、そこへ這入るためには、如何なる高貴な者であれ、深く上体を折り曲げねばならなかった。
父上との茶の湯の席に連なるなど、生まれてこの方、数えるほどしか記憶になかった。あの方はいつも、ただ独りで茶を点てておられたからだ。時に都からの高貴な客人や、古き友を招くことはあっても、この俺を伴うことなど滅多になかった。それゆえ、俺の胸の奥には、言い知れぬ焦燥と不意の驚きが渦巻いていた。不始末の責任を執らせると仰いながら、俺をこの茶室へと導いた父上の真意が、どうしても読み解けなかったのだ。
小道の尽きるところ、一つの手水鉢が佇んでいた。父上が最初に手と口を清め、俺がその作法に倣って後に続いた。それから草履を脱ぎ、我らは低くにじり口から上体を深く折り曲げて、館の内へと入った。室内には、下女がすでに茶道具の支度を整えており、香炉からは仄かな香が燻り、文机の上には僅かながらの菓子が据えられていた。
立ち込める香の匂いは、茶の葉と、あの甘味の匂いと混ざり合っていた。清正という男が、大層な甘党であったことを、俺は今の今まで失念していた。
「下がれ」
父上は下女に向かって無造作に手を振ると、みずから茶の仕度に取りかかった。小さな茶釜で水を沸騰させ、茶碗へと抹茶の粉を落として熱湯を注ぎ込む。
あの方が竹の茶筅を素早く動かし、鮮やかに泡を立てていくうちに、その険しかった顔の肉が僅かに緩み、老練な面体の皺が静かに広がっていくのが見えた。
それを見て、俺の張り詰めていた両肩の力も、にわかに抜けていった。
「……今夜は雨になるな。そして、明日もだ」
父上はそう告げると、濃茶を満たした茶碗を俺の前へと差し出した。一瞬だけ口に含み、その濃厚で深い苦味を味わうと、俺は作法に倣って茶碗をあやつへと返した。父上もまた、それを静かに啜った。
「一株の樹木の根が腐り落ちれば、その巨木は倒れ伏し、周囲の、隣り合う他の木々をも巻き添えにして押し潰すものよ」
なるほどな、全くだ。やはりこの茶の湯の席とて、一族の政の談判から逃れることは叶わぬのだな。俺は机の上の菓子を見つめながら、父上の言葉の行く先を読み解こうと、ただ静かに耳を澄ませていた。されど、あやつの言わんとする真意は、すでにこの胸の奥で薄々と感づいてはいた。
「隣り合う大木の役目はな、その密林を共倒れの破滅から救うために、倒れゆく木の脇へと自らの枝を差し伸べ、支えてやることにある」
「大殿……父上。それは、真に……」
俺は上体を起こして顔を上げ、父上の目を真っ直ぐに見据えた。あやつの放つ不穏な暗喩は、俺の胸の奥を激しく掻き乱した。
「然り」
清正は再び、此度は幾分か薄い薄茶を点てるべく、手元を動かし始めた。
「熊沢の高津は、一族の頭領としての正しい裁定を貫いてみせた。されど、長老・豊光のあの不忠は……」
父上は俺の前へと、再び茶碗を静かに滑らせた。
「高津の権力が、未だ盤石ではないという不名誉を天下に晒したのだ。もし今、高津が頭領の座から失脚すれば……」
それに続く不吉な結метの結末など、今更言葉を費やされるまでもなかった。俺は万事を完璧に理解していた。熊沢の頭領が挿げ替えられれば、それは即座に、我が鶴田への新たなる宣戦布告を意味する。この地域一帯は再び生々しい鮮血の海へと没し、此度のように奇跡的な和睦を果たすことなど、二度と叶いはせぬだろう。
「……高津様がその権力を維持できるよう、我が一族が加勢をべきだと、そう仰るのですか」
清正は静かに目を閉じ、茶碗を鼻先へと引き寄せて、立ち上る湯気の香りを深く吸い込んだ。俺は手元に置かれた羊羹へと手を伸ばしかけたが、それを口に含むことなど到底叶わなんだ。雑念が、俺の思案を激しく狂わせていたからだ。これから先の一族の未来、遥か先の盤上を見据えようと足掻いたが、我が鶴田とあの熊沢が、如何にして手を結ぶというのか、その光景はどうしても思い描けなかった。高津様ほどの傲慢な男が、我らからの加勢など、そう容易く受け入れるはずがない。奴らにとって敵の助力を仰ぐことは、己の弱さを天下に白状する恥辱に等しい行為なのだから。
「明日、日が高く昇りきった後に、俺は高津と真っ向から対峙して密談を交わす。今夜のうちに、あやつへ一通の返書を遣わすつもりだ」
父上は己の胸元をぽんぽんと叩いた。その小袖の底には、あの不穏な巻物が静かに眠っている。
「お前は、然るべき番卒の監視の下、この屋敷に留まれ」
夜の帳が降りる頃、父上の予言した通り、山の屋敷には激しい雨が降り注ぎ始めた。茶の湯の席を辞したのち、俺はすぐさま己の寝所へと引き返した。
敷布団の上に上体を横たえ、重苦しい天井の気配をただじっと見つめているうちに、俺の脳裏には、数多の飢えた黒い肉が三河の天空を不気味に旋回し、その宴ののちには、あの信濃の国境へと向かって一斉に躍りかかる悍ましい残像が過っていた。これほど長い時代の因縁を経てなお、父上はあの熊沢と誓約を結ぼうというのか。
否、俺はまた熱病のぶり返したせいで、悍ましい幻覚を見ているに違いない。そのような不条理、断じてあり得るはずがなかった。




