十四、満
楓が姿を現した瞬間、俺の内の均衡は音を立てて崩れ去った。あやつが床の上に膝を突き、こちらを真っ直ぐに見据えた刹那……俺の心臓は狂ったように乱打を始めた。それは決して、身体を苛む熱病のせいだけではなかった。俺は、あやつがとうに冷たくなっているものと思い込んでいたのだ。されど、楓は生きていた。薄汚く酷くやつれてはいたが、確かに生きていた。
あやつが携えてきた巻物の内容は、俺には見えなんだ。目を通す猶予など与えられなかったからだ。されど、高津と豊光の狼狽ぶりを見るに、それこそがこの場のすべての戦況を覆す動かぬ証拠であることは明白だった。無闇に淡い期待を抱くべきではないと分かってはいても、俺の胸の奥には、いつしか確固たる信頼が宿っていた。張り詰めていた焦燥が、幾分か静まり返っていく。
湿った地面の上に身を横たえ、認め終えた辞世の句を傍らへと退けると、俺は時折、周囲の有様を油断なく観察した。豊光は如何に老獪な嘘つきであろうとも、その瞳の奥には隠しきれぬ恐れの色がじわじわと滲み出ていた。いや、目元だけではない。放つ言葉の端々にすら、その動揺が露わになっていた。あやつは熊沢の頭領を前に、必死に大声を張り上げて身の潔白を喚き立てている。
俺は低く溜息をつくと、痺れ切った足を慎重に引き寄せ、奥歯を噛み締めながらもう片方の足を真っ直ぐに伸ばした。捕らえられる前に傷口へと擦り込んだあの薬草が、辛うじて激痛を麻痺させてはいたが、それでもなお肉体を引き裂くような苦痛は耐え難いものがあった。
「堪えろ、満」
父上が俺の傍らへと歩み寄り、俺の背中を無造作にぽんぽんと叩いた。父上もまた、俺と同じように周囲の者たちの腹の内を鋭く値踏みしていたのだ。
「お前は、あの娘が長老の手負いの科を背負っていることを、初めから知っていたのだな」
俺の沈黙が、何よりの雄弁な答えだった。父上は深く溜息をもらすと、次なる問いを静かに投げかけてきた。
「なぜ、隠し立てをした」
「あやつに、命を救われたからにございます」
俺は必死に父上の目を真っ直ぐに見据えようとしたが、朦朧とする視界の先には、すでに不気味な黒い斑点がいくつも揺らめいていた。
あまりに青臭い世迷い言に聞こえたやもしれぬ。されど、清正という一族の頭領は、それをあざ笑うこともしなかった。頭領の座にある者ならば、身内の不忠として一喝し、鼻で笑い飛ばすこともできたはずだ。何より、俺のこの命は、鶴田の一族にこそ捧げられるべきものなのだから。
父上の乾いた、陽に焼けた顔の肉がピクリと跳ねた。その冷酷な視線は、高津の軍勢の側で今なお死に物狂いで暴れ回っている、太い縄に縛られた疾風の姿を捉え、次いで、激痛に顔を歪めながらも不遜に構えている豊光の横顔へと移り変わった。あの野蛮な小娘は、真に見事な一撃をあやつに食らわせたのだな。
「取引が始まるぞ」
その一言を耳にした瞬間、俺の脳裏が激しく眩暈を起こした。
「お前も、あの娘も、己の仕出かした不始末に然るべき始末をつけねばならぬ」
父上はもう一度俺の肩をきつく締め上げた。その大きな手首が僅かに震えたのは、如何なる窮地にあろうとも、俺を奮い立たせようとする親心ゆえだったのだろうか。父上はそのまま高津の元へと歩み寄り、声を潜めて何事かを厳かに論じ合い始めた。
俺は胸の内に芽生えかけていた、あの淡い希望の糸を静かに手放した。己の辿るべき宿命(最期)なら、とうの昔に畳の上(紙の上)に認め、覚悟を決めている。されど、せめてそれ以外の無実なる者たちの命ばかりは、神仏に救いを求めるしかなかった。ゆえに、今の俺には、あの野蛮な小娘の姿を真っ直ぐに見据えることすら、矜持が許さなかったのだ。
平野のただ中に照りつける日差しは、昼時を過ぎてもなお容赦なく肌を焼いた。草木の葉から朝露の滴が虚しく蒸発していき、傍らでは数匹の蝿が、怠惰に羽音を鳴らしながらうろついていた。
「啜れ」
一人の忍びが、俺の顔面に手荒に瓢箪を突き付け、水を差し出してきた。瓢箪の器は微かに冷えており、杉の葉の紋様が刻まれたその外壁には、瑞々しい水滴がびっしりと浮き出ていた。おそらく、どこか日陰の冷たい水桶の中にでも浸されていたのだろう。
俺は頑なに頭を背け、その恵みを拒もうとした。それが忍びの苛立ちを激しく誘った。されど、激しい渇きのせいで喉の奥はカラカラに干からびており、俺の両手は無意識のうちに、その命の拠り所へと伸びかけ、葛藤に身を焦がしていた。隠密は不満げに低く喉を鳴らし、再び瓢箪の口を俺の唇へと強引に押し当ててきた。
「啜れ。さもなくば、最期の儀式を迎える前に、その一命が尽きるぞ」
俺は頑なに己の意志を貫き通そうとした。奴の言葉など微塵も恐ろしくはなかったからだ。されど、肉体はとうに限界を迎えていた。武士の矜持は二の次へと退き、俺はひったくるようにして器を奪い取ると、貪るように水を啜り始めた。容赦なく照りつける日差しの前には、他に道など残されていなかったのだ。冷たい雫が喉を心地よく潤していったが、溢れた水が顎を伝い、小袖の布地へと容赦なく染み込んでいく。
矜持を失い、無様に水を貪るこの刹那、周囲からの冷ややかな嘲笑が俺の胸を刺した。熊沢の隠密どもの不遜な薄笑い、そして豊光の、あの自己に満ち満ちた蔑みの横顔。我が鶴田の者たちはどうだ。まるで俺を一族の者と認めるのを拒むかのように、悉く視線を逸らし続けている。楓までもが、上座から俺を断罪するかのような冷酷な眼差しを向けていた。
四方から押し寄せる重苦しい大気が、奇妙なほどに俺を圧迫していた。周囲のすべてが巨大な山壁のように聳え立ち、俺はまるで一匹の蟻んこのように小さく、脆く崩れ去りそうに見えた。かつては俺より遥かに背の低かった楓さえ、今や一本の巨木さながらに高く見えた。俺は泥と汗にまみれた乱れ髪を手で掻き上げたが、その頭皮は狂ったように熱を帯びていた。間違いなく、日の光に脳天を焼かれたのだ。
深く息を吐き出し、俺は再び両軍の陣列へと視線を走らせた。疲れ果てた武士どもは、幾分か緊張を緩めながらも、頑なにその隊列を崩そうとはしなかった。多くの者が水を啜り、手の甲で額の汗を拭っている。ある者は、今すぐにでも戦端を開かんと声を潜めて語らい、またある者は、一刻も早く故郷の家族の元へ帰りつきたいと、ただそればかりを願っているようだった。
数人の若い下男どもが、身分の高き者たちのために、日差しを遮る慎ましい野陣を設営し始めていた。数本の丸木を組み上げた粗末な骨組みの上に、熊沢の家紋が刻まれた深い緑の陣幕を被せただけのものだ。見れば、やはり床の上に藁畳を敷くような真似はしておらなんだ。中央には一脚の文机と、いくつかの低い床椅子が据えられている。あれは、大殿たちが腰掛けるためのものだ。灯籠もなければ、何一つ格式高き道具すら置かれてはいなかった。
その有様をじっと見つめながら、俺は直感した。あの俄か仕立ての野陣は、高津と父上の談判のためだけではなく、事の真相を究明するための臨時の裁定の場なのだと。されど、奴らの動きを見るに、夜の帳が降りる前にはすべての決着をつける腹積もりに違いなかった。
「実を申せば……」
不意に、俺のすぐ傍らに豊光が歩み寄り、地を走るような声で呟いた。
「これほど若き身でありながら、ここで命を落とさねばならぬとは、真に哀れなことにございますな」
あやつは、一体いつの間に近づいてきたのだ。なぜ俺は、その足音にすら気づかなんだ。俺は己の腹の底を暴かれぬよう、無意識のうちに太ももの肉をきつく握り締めた。今すぐこの不届き者に躍りかかり、その喉笛を掻き切ってやりたい衝動を、必死に抑え込む。全身を激しい戦慄が駆け抜け、痛む足が微かに跳ねたが、辛うじてそれをねじ伏せて沈黙を守った。
楓は険しく眉をひそめたまま、己の場所に佇んでいた。その鋭い眼光は、目の前の仇敵の背中を、いまにも突き刺さんばかりに激しく射抜いている。
「然り。長老のその温かきお言葉をいただき、万事が大層容易くなりましたな」
俺の放った精一杯の皮肉に、豊光はただくすくすと鼻で笑うだけだった。
「……お前に、名誉や恥辱という言葉を知る良心は残されておらぬのか」
俺は上体を起こして首をねじり、あやつの細い目を真っ直ぐに見据えた。豊光は俺を上座から見下ろしていたが、その顔には一瞬にして激しい憤怒の相が閃いた。されど、あやつはすぐにそれを覆い隠し、唇を歪めて偽りの笑みを浮かべてみせた。
「若君よ」
老人は静かに首を横に振った。
「恥辱というものはな、己が真に汚らわしい大罪を犯した時にこそ、その胸に刻されるものよ」
「両家を正面衝突させ、いくさの火蓋を切って落とすことが、汚らわしい大罪ではないとでも申すか!」
俺は奥歯をガリガリと噛み締め、渇き切った喉の奥から声を絞り出した。
「いくさだと?」
豊光は険しく眉をひそめ、己の手負いの脇腹を痛々しげに押さえながら、僅かに上体をこちらへと傾けた。
「違うな。これぞ、一族への至高の忠義よ。不条理ながら、お前たちのような若きサムライどもには、その真の道理など到底理解できぬのだろうがな」
「忠義だと?」
俺は呆気にとられた。
「お前の言う忠義とは、一体いかなる不実を指すのだ!」
されど豊光は、俺に何を説いたところで無駄だと断じたかのように、ただ静かに首を横に振るだけだった。仮に言葉を尽くされたとしても、俺があやつの理屈を理解できたとは思えぬ。出来の悪い門弟でも眺めるかのような冷ややかな目を俺に据えると、長老はすっと背筋を伸ばし、何事もなかったかのように誇らしげに己の場所へと引き返していった。
あやつの言う忠義。一体、何を指しての言葉だったのだ。あやつの瞳の奥には、権力への飽くなき執着以外、何一つ見出すことはできなかった。されど、もし真に頭領の座を欲していたならば、豊光は満を陥れるなどという遠回りな真似はせず、高津様の命を直接狙うていたはずだ。ならば、事の全貌は一体……。
俺は必死にあやつの真意を読み解こうとしていた。心の底では、そんなことに興味などないと自分自身に言い聞かせながら。その刹那、足の肉が内側から雑にねじ切られるかのような、凄まじい激痛が走り抜けた。無数の鋭い鱗に肉を引き裂かれるような、焼けるような苦痛。耳の奥で、生々しい蛇の地鳴りのような音が響き渡る。見れば、一匹の蝮が俺の足首から膝にかけて、その冷たい身体を幾重にも巻き付けて這い上がってきているではないか。夜の密林さながらに昏い二つの瞳が、俺を容赦なく睨み据えている。蛇はなおも上へと這い進み、冷徹な鱗が俺の胸元に触れたかと思うと、小袖の合わせ目の奥深くへとその身を隠した。
激しい悪寒に襲われ、俺が我に返って瞬きをしたその瞬間、目の前に瓢箪を手にした父上・清正が佇んでいた。慌てて周囲を見回したが、そこに蛇の姿などどこにもなく、あるのはただ、冷たい水に濡れた俺自身の顎だけだった。すべては、熱病の魅せた悍ましい幻覚にすぎなかったのだ。
「高津の放った一隊が戻ったぞ」
父上が厳かに告げた。
仮屋の陣幕の向こうから、数騎の隠密の一団が猛然と馬を駆り立てて近づいてくるのが見えた。そのうちの三騎の背には、泥まみれの身体が物言わぬ荷物のように横たえられている。息があるのか、あるいはすでに骸と化しているのかは判然としなかった。されど、その到来を境に、張り詰めていた大気が一気にうねり始めた。高津様は指の骨をポキポキと鳴らしながら野陣の外へと歩み出、楓は己の両腕を身体の脇できつく締め締めながら、必死に全身の震えを抑え込もうと足掻いていた。されど、その細い身体の戦慄は、如何ともしがたく露わになっていた。
まもなく、馬の背から三躯の身体が、どさりと鈍い音を立てて地面の上へと突き落とされた。その中の一人、まだほんの若い小僧が、居並ぶ武士どもの威圧感に身をすくませてガタガタと震えている。その顔は鮮血にまみれ、身につけた鶴田の具足は見る影もなく泥に汚れていた。父上はその姿を一瞥するや否や、即座に、毅然と言い放った。
「これらは、我が鶴田の侍では断じてない」
高津様はその父上の一言を酷く疑わしげに受け止め、配下の者へ事の顛末を報告するよう命じた。
「大殿」
熊沢の物頭の一人が首領の前へと進み出、深く頭を垂れた。
「三河の境目の川べりにて、潜伏しておった鶴田の一隊を悉く捕らえてまいりました。この者どもは、三河の領内へと密かに武器を運び込んでおった模様にございます」
男はそう告げると、押収した一振りの刀を恭しく差し出した。
「これだけか?」
高津様は手にした刀を不機嫌そうに弄び、そこに刻まれた我が一族の鶴の紋様へと視線を落とした。その冷たい刃の表面を指先でそっとなぞると、奴は再び重々しい声を響かせた。
「我が軍幕へ引きずっていき、徹底的に白状させよ。――長老・豊光、お前はここに残れ」
「大殿、真に某の検分は必要ございませぬか?」
豊光は油断なく一歩前へと進み出、声を潜めて問いかけた。されど高津様は、その細い目をさらに険しくひそめるだけで、あやつの問いを完全に黙殺した。
「敦子は、お前の指図を以てすでに虚言を吐いたわ」
俺は堪りかねて、不敵に鼻で笑いながら言い放った。豊光が下女や雇われの不届き者どもを、完全にその意図のままに操っているのは明白だった。もしあやつを白状の場に立ち会わせれば、捕らえられた偽の兵どもは間違いなくまた嘘を並べ立てるだろう。如何なる手立てを以て奴らを縛っているのか――恐怖か、あるいは金の手配か――それは分からぬが、確実に操っているのだ。
「父上」
楓は二歩で高津様の傍らへと躍り出た。
「私にも、その検分の場への立ち合いをお許しくだされ」
あの野蛮な小娘が、恭しく頭を垂れた。
「大殿、若き者どもは、白状を迫る緊迫の場においてただの足手まといになるだけにございます」
長老がまたしても、高津様の耳元で鬱陶しい口添えを始めた。されど高津様は、その言葉を遮るように即座に片手を挙げ、厳かに命じた。
「清正よ、お前の倅もまた、証人として立ち会わせるが良い」
その一言に、楓の顔にはさっと光明が差したかのように見えたが、豊光の横顔は一瞬にして昏く沈んでいった。軍幕の外に取り残されれば、あやつはもはや事の全貌を己の意図のままに操ることは叶わぬ。俺があやつの立場であったなら、底知れぬ恐怖に身を震わせていたに違いない。
白状の場に集ったのは、一族の首領である高津様と、俺、そしてあの野蛮な小娘だけだった。俺は狭い敷布の上へと座らされ、大殿は床椅子に腰掛け、楓は軍幕の隅の薄暗がりにその身を縮めていた。高津様はみずから、捕らえられた密偵どもの尋問を始めた。最初に引きずり出されたのは、顔に黒子のある、まだほんの若い小僧だった。その小僧は激しい威圧感にガタガタと身体を震わせ、上座を見上げる一歩すら叶わぬ有様だった。
「……すまぬ、お許しくだされ……」
少年は震える声を絞り出し、激しく首を横に振りながら咽び泣いた。楓はその姿を一瞥するや、あやつを確かに知っているかのように慌てて視線を落とし、自らの身体を両腕できつく抱きしめた。
「私は、そんなつもりじゃ……大殿!」
「お前は、我が屋敷の奉公人であったな」
高津様は手にした巻物で己の膝をトントンと叩き、俺は深く思案を巡らせた。――もしや、捕らえられた偽の兵どもは、皆が熊沢の身内なのではあるまいな。されど、もしそうであるならば、豊光の冒険はあまりにも危うすぎる。奴が一族の奥深くまで不忠の病を染み込ませていたのだとしても、真に己の犬として動かせる者を、これほど容易く戦場に放り出すものだろうか。
「私は……某は……」
「次郎、申せ。なぜお前が、鶴田の具足をまとっているのだ」
次郎と呼ばれた小僧は完全に金縛りになり、怯えた目で軍幕の出口を振り返り、次いで己の泥と鮮血にまみれた両手を見つめた。俺は更なる手立てを投げかけようと、僅かに上体を前へと傾けた。
「あの男はお前を傷つけはしないわ」
薄暗がりのただ中から、楓の鈴の音のような、されど酷く静かな声が響いた。その一言に、周囲に控えていた隠密どもが僅かに不審の目を向けたが、高津様も俺も、ただ無言でそれを見守った。小娘は不器用な足取りで高津様の脇へと歩み寄り、まるでその小僧と言葉を交わす許しを請うかのように、父上の顔を覗き込んだ。あやつは、この次郎という男を深く知っているのだろうか。
「お前はあの遊郭においた……そこですべてを目にしたはずよ。もし今、ここで正しい真実を白状しなければ、お前の身には、さらに悍ましい最期が訪れるわ」
下男は顔を上げ、あの小娘と真っ向から視線を交錯させた。その瞳に確かな驚きと見覚えの色が閃くのを、俺は見逃さなかった。小僧の頬を、涙のひと雫が伝い落ちていく。あの色街で一体何があったかは知らぬが、あやつの心の最も脆い部分に、楓の言葉が突き刺さったことだけは間違いなかった。
「私は、そんなつもりじゃ……」
次郎の縛り上げられた両手が、楓の元へと縋るように差し出され、小娘は深く首を縦に振った。高津様は腰を僅かに浮かせ、衣服の陰の刃へと手を伸ばしかけた。その飢えた獣さながらの眼光は、娘が敵の身内に無防備に近づくのを、如何なる犠牲を払ってでも遮らんとする親心の現れだった。
「……私には、他に道がなかったのです」
「誰の指図を以て、鶴田の武器を鍛造した。私はあの鍛冶場にいたのだぞ。そこにあった獲物の数は、単なる陽動の計を遥かに超えておったわ」
楓の鋭い問いが軍幕に響く。
「……お約束くだされ」
次郎は視線を逸らさず、生唾をごくりと呑み込んだ。
「我が家族の命ばかりは、どうかお助けいただくと」
「他の一族の具足をまとい、我が家を裏切った者に、この俺が約束を与えると思うか」
高津様が小僧のまтомуな具足を顎で指し示すと、次郎はまるでその鋼に猛毒でも仕込まれているかのように、狂ったようにそれを引き剥がそうとあがき始めた。されど、太い縄で固く縛り上げられた両手では、その不名誉なる垢を洗い流すことなど到底叶わなんだ。
楓はたまらず唇を噛み締め、薄暗がりの奥へと退がった。その顔は、焦燥と深い絶望に無残に歪んでいた。分かっている。あやつには一族を動かす権力などないのだ、この俺と同じようにな。俺は低く溜息をつき、胸の奥でふつふつと沸き立つ憤怒を圧し殺しながら、ただ沈黙を守り続けた。豊光の奴、雇われの不届き者どもに金の手配をしていただけでなく、弱みを握って脅迫までしておったのだ。
「誰だ。誰の指図を以て動いた」
高津様の剛毅な手が、楓の前に立ち塞がるように遮った。その触れ合いに、小娘はさらに後ろへと身を縮めた。
軍幕の僅かな隙間から日の光の筋が差し込み、高津様の抜き放たれかけた長刀の鋭利な刃の上に反射して、不気味な閃光を放った。次郎は恐怖のあまり、地面の上へと崩れ落ちて平伏した。
「大殿、ご存じの通り、私には病に伏した妹がおるのです……。あの御方が、妹の病を必ずや癒してみせると、そう仰ったのです……私が、これさえ成し遂げればと……」
「誰がそう申した」
熊沢の頭領は、顔の肉ひとつ動かさなんだが、その身の内に凄まじい苛立ちを燻らせているのは明白だった。それは俺とて同じことだった。
「……名は、存じ上げませぬ」
「主君の名すら知らぬと申すか」
「我が主のことは分かっております……されど……」
「ならば、誰がお前をその隊列へと引き入れた」
「あの御方は、遊郭でおなごにあやめられました」
次郎は顔色を死人のように白く染め、己の目を手の甲で擦った。軍幕の中に、深く重々しい溜息が響き渡る。当然だ。豊光ともあろう者が、このような大博打の盤上において、末端の小僧に直接指図を出すような真似をするはずがない。
「お前たちは、一体誰の掟に従って動いているのだ」
「上の者たちは、宿老たちのことを口にしておりました……」
少年は深く思案を巡らせ、自らのこめかみを両手できつく押し潰すように擦り始めた。二人の首領は、互いに視線を交わすことすら不機嫌そうに拒んでいた。俺は、これまでのすべての全貌を完璧に証明する、あの決定的な名の響きが奴の口から零れ落ちるのを、ただ息をひそめて待つしかなかった。
「どの宿老だ」
「皆はただ、熊沢の長老、と。……私には、それ以上の道理は何も分からぬのです」
高津様は深く思案を巡らせながら、再び己の床椅子へと腰掛けた。軍幕のただ中には、今日その辿るべき最期を定められるであろう裏切り者の、恐怖に引き裂かれた荒い息遣いだけが、いつまでも不気味に響き渡っていた。
熊沢の家はどうだ。これでは、奴らの宣戦布告は完全に根拠を欠いた言いがかりではないか。仮に豊光の謀叛が証明されなんだとしても、熊沢の側は鶴田一族の若君らを人質として縛り付ける、卑劣な挑発者と見なされるに違いなかった。高津様も楓も、その道理を痛いほどに理解していた。熊沢のあの苛烈な流儀を以てすれば、検分をこれ以上続けず、俺に最期の儀式を強制してすべてを闇に葬り、公の盤上での面目を保つこともできたはずだ。然り、たとえ長老の大嘘が暴かれたとしても、この窮地が劇的に覆るわけではなかった。
具足の擦れ合う鈍い響きが、軍幕の静寂を切り裂いた。次郎が外へと引きずられていき、代わりに、顔中におぞましい傷跡を持つ大柄な男が連れてこられた。雇われの刺客、あるいは浪人の類いだな、と俺は直感した。先ほどの、まるで小鼠さながらに怯えてガタガタと震えていた下男とは、完全に正反対の佇まいだった。床の上に跪かされてなお、その背筋は真っ直ぐに伸びており、その眼光は飢えた獣のように鋭い。分かっている。このような手合いは、そう容易く腹の内を明かすものではない。
「誰の指図を以て、鶴田の具足をまとい、武器を運び込んだ」
高津様が再び冷酷に問いかけたが、返ってきたのは不敵な薄笑いと、ただ重々しい沈黙だけだった。その刺客は口を噤んで語ろうとはせず、高津様も無駄な時に思案を費やすのを嫌い、次なる者へと白状の役目を委ねた。あの森のただ中で相まみえた、俺の深く知る隠密の石川が、その血塗られた汚れ仕事を引き受けたのだ。
「なるほどな。お前の主は、お前に大層な金の手配をしてくれたと見えるな」
忍びは軍幕の入り口にその姿を現すや否や、獲物を狙う獣さながらに、刺客の周囲を緩やかに回り始めた。白状を迫る折檻や肉体をいたぶる術こそが、この不届き者の最も得意とする道理なのだろう。
「さらに多くの金が、我が手元へと転がり込んでくるはずよ」
刺客は鼻を高く突き出し、忍びの一挙手一投足、その手の微かな動きをも油断なく凝視していた。
「我らは、他の一族の具足など断じてまとってはいない」
「ほう。ならば、お前の主は大層な大富豪だな。一族の首領たる大殿を前にして、これっぽっちも身を縮めぬほどなのだから」
隠密の手元では、一振りの脇差が緩やかに揺らめき、時折、日の光を反射して冷たい閃光を放っていた。
真に、その通りだ。如何なる高値の金を積まれれば、清正や高津様のような凄まじい頭領を前にして、これほど泰然と構えていられるというのだ。この男は、その代金のために一体どれほどの苦痛に耐えうるつもりなのか。それほどの価値が、真にそこにあるというのか。
「構わんさ」
隠密は男の背後へと回り込むと、その耳元へと顔を寄せ、地を走るような声で囁いた。
「誰がお前の真の主であるか、今すぐその身に教えてやろう」
奴の鋭い眼光が高津様へと向けられ、首領は静かに首を縦に振った。
「我が主は、鶴田の大殿にございます」
刺客はそう言い張ったが、その目は、俺の父上の方を片時も見据えてはいなかった。断言できる。こやつは、鶴田の頭領の顔立ちすら知らぬ分からず屋なのだ。
その刹那、容赦なき折檻が始まった。名もなき忍びは、縛り上げられた男の両腕を強引にひっ掴むと、その巨体を床の上へと激しく叩きつけた。男の顔色は一瞬にして死人のように白く染まり、己の身にこれから訪れるであろう悍ましい最期を、本能で悟ったに違いなかった。大殿たちに残された刻限が残り僅かである以上、その折檻は、極限まで残酷で、容赦のないものでなくてはならなかった。
凄まじい断末魔の絶叫が、軍幕の中に、そして外の広場へと向かって激しく響き渡った。俺は、熊沢の家の凄惨な折檻の有様を、この眼で真っ向から見届ける羽目になった。床の上に鮮血が飛び散るまでは、まだそれほど多くの血は流れてはいなかった。されど、虜囚の身体が激しい苦悶に身をよじり始めたその瞬間、血飛沫が一気に大気を染めた。調伏の役目を担う仕置人は、無駄な騒ぎを一切起こさぬよう、細心の注意を払いながら、淡々とその肉体を切り裂き続けていた。
それは「針突」と呼ばれる折檻であった。小刀の切っ先を以て、肉体の最も過敏なる部位を容赦なく突き刺す。噂には聞いたことがあったが、この眼で直に拝むのは今日が初めてのことにすぎない。
絶叫はたちまち、耳を覆いたくなるほどの凄まじい断末魔の悲鳴へと変わっていった。俺の全身に鳥肌が立ち、軍幕の中の空気がみるみるうちに薄く干からびていくかのように感じられた。
隅に身を縮めていた楓は、恐怖のあまりに顔を引きつらせ、二人の大殿の目がそれておるのを幸いに、両手で耳をきつく塞いで強く目を瞑っていた。
高津様も父上・清正も、瞬き一つせずその様を見据えていた。二人はこれまでに、さらに悍ましい地獄の光景を幾度も潜り抜けてきたのだ。されど、俺にはとても直視できたものではなかったし、かといって、そこから目を逸らすことすら矜持が許さなんだ。苦悶に身をよじらせる虜囚の足、血に染まっていく地面を見つめながら、俺は何とか意識を別の場所へと逸らそうと足掻いた。されど、すべては無駄な抵抗だった。
「主は誰だ。誰の指図を以て、我が境目を侵犯した」
「熊沢の……」
虜囚の胸は、千切れんばかりに激しく上下していた。まるで一族の首領の頭上に、目に見えぬ死の刃が振り下ろされたかのようだった。
「誰だ、名を申せ!」
仕置人が再び脇差の刃を突き立てたその刹那、刺客はついに力尽きて屈服した。
「豊光様だ……」
男は声を絞り出すように、低く呟いた。高津様と仕置人が、静かに視線を交わした。折檻はぴたりと止み、忍びは脇差の切っ先を虜囚の衣服で拭い去ると、慇懃に一礼して軍幕を退出した。奴が通り抜けた幕の僅かな隙間から、外で待たされている豊光の身体が不気味に強張るのが見えた。あやつの顔からは、完全に生気が消え失せていた。
最後に残された三人目の偽の兵も、同じようにして白状を迫られた。これですべての全貌が、あの長老の謀叛が完全に証明されたのだ。
高津様が我が父上に向けて言葉を放った瞬間、奴の指先は刀の柄へと千切れんばかりに深く食い込んでいた。間違いなく、奴は今、激しい屈辱に身を焦がしているはずだ。奴の突きつけた脅迫状は、最初から根拠を欠いたただの空文にすぎず、自らの身の内にこそ、大それた裏切り者が巣食っていたのだから。これほどの醜態を晒しては、鶴田の領地を割譲させるどころか、山の資源の取引すら叶わぬ。それどころか、一族の家臣たちの前にあっても、ただの理性を欠いた侵略者として面目を失うことになる。
「お前の倅は引き渡そう。我が家の裏切り者どもには、然るべき処刑を以て始末をつける」
高津様はそこで言葉を区切ると、俺と楓の姿を冷酷に見据えた。
「清正よ。これからは二人きりで、真の談判を始めようではないか」




